F02:零夜
「渡辺君、結婚おめでとー」
「幸せになれよー」
結婚式は二次会となった。二次会という名の飲み会となった。僕側には会社の同僚が、杏里さん側では大学時代の友人や会社の同僚が来ていた。上手く行くか不安だったけれど、後輩の古田さんと杏里さんの大学時代の友人らしき人が良い感じで話をしていたので、この二次会も上手くやれたんじゃないかと思えた。
僕と杏里さんは二人でざっと挨拶した後、それぞれ友人、もしくは同僚の所へ行って話をし、楽しい時間を過ごした。新郎である僕の方には会社の同僚くらいしか来ていないが、杏里さんの方には大学時代の友人もいる。同窓会的な時間もいいだろう。そう思っていた。
僕も来てくれた人達と話をする。
「仙波先輩、今日は来てくれてありがとうございます。楽しくやってくれてますか?」
「おう。飯は美味いし、酒も美味い。話も楽しくやれていて、最高だ」
「それは良かった。頑張った甲斐ありました」
「それはそうと」
仙波先輩はそう前置くと、僕の耳に小声で囁く。
「部長には言えねぇが、お前は飲み過ぎるんじゃねぇぞ? この後は大事な大事な時間が待っているんだからよ。クククク」
「ま、まあ、そうですよね」
初夜ですね、分かってます。なので仙波先輩、テーブルの下でこっそりフィグ・サインをしないで下さい。
僕はその後何人か同僚と話した後、古田さんの所へ行った。古田さんは変わらず、杏里さんの大学時代の友人と飲みながら話をしていた。
「こんにちは、今日は来てくれてありがとうございます。楽しくやってくれてますか?」
「おおおおっ、渡辺先輩。大丈夫ですよ。楽しくやれてますよ。えへへへへへへへへ♪」
「おやおや、渡辺君。お疲れ様~。良い式だったわねぇ。楽しくやってるわよぉ」
「渡辺先輩、幸せになってくださいね。えへへへへへへへへ♪」
「よくあんなのを娶ったわ。まあ、頑張ってねぇ」
「……はい。楽しんでいって下さいね」
ざらり。少し嫌な違和感を覚えたが、僕は気付かなかった振りをした。此処はめでたい席。ああだこうだ問い詰める場所ではない。
杏里さんは素晴らしい女性。それでいいじゃないか。
午後11時半、二次会も終わったので僕は都内ホテルに一人でチェックインした。杏里さんはまだ職場関連の挨拶があるということで、僕が先行で入ることになったのだ。挨拶に僕も付き合うよう申し出たが、疲れているだろうからそこまでしなくて良いと言われた為だ。確かに僕は疲れていたので、その申し出は有り難かった。
シャワーを浴び、ベッドに寝っ転がりながら体を休める。しかし、眠気は全くやってこない。仙波先輩の言った通り、いや、言われなくてもメチャクチャに意識していた。今日は初夜であると。大事なことだから何度でも言おう。初夜、初夜、初夜、初夜、初夜であると。さらに言えば、明日は休日を貰っている。これはもう、発情期の猿になってしまうことは必至であろう。
僕は急に思い立ち、バスルームの鏡へと向かう。鏡で自分の姿を見て、鼻毛が出たりしていないかチェックする。うん、出てはいない。口の中が臭くなっていないかチェックするのは難しいので、念を入れて歯を磨く。シャワー浴びる前に磨いたが、念には念を入れて。
自分の脇に鼻を近付ける。うん、多分臭くないだろう。胡坐をかいて、足の裏に鼻を近付ける。うん、こっちも大丈夫。まあ、こちらが気にされることはないだろうが、こちらも念には念を入れて。
念には念を入れて。その言葉が僕の頭の中を駆け巡ったので、僕はばっと飛び起きた。そして、改めて部屋中をチェックした。杏里さんが不快にならないものがないかチェックした。ただ、さすがはそこそこ高級な都内ホテル。部屋の支度は完璧。なので、僕は自分の脱いだ靴の向き、バスルームの使用後の状態といった、自分の足跡が乱れたものでないかを重点的にチェックして、修正していった。どれも最終的には個人の好みの問題になるだろうと知りながら。
そんな馬鹿なことをしていたら、いつの間にか時間は午前2時を過ぎていた。それでも杏里さんはまだ来ない。さすがに遅過ぎるだろう。そう思った僕は彼女にLINEしてみたが、30分経っても既読にすらならない。なので、電話もかけてみたが、それも通じない。折り返しもない。
具合が悪くなってしまったとか、何かトラブルでもあったのか? そう心配になったが、連絡が出来ない以上待つしか僕には出来なかった。何があったのか? 大丈夫だろうか? 何があったのか? 大丈夫だろうか? 心配になりながら部屋をグルグルと熊のように落ち着きなく歩き回るが、情報は何もない。
「ん――――」
歩き回るのにも疲れたので、僕はベッドに寝っ転がって意味もなく天井を見上げた。そして、意味もなく声を上げてから長く息を吐く。何もない。何もない。何もないまま、外は少しずつ明るくなり始めていた。
そこで僕の意識は途絶えた。
「!」
電話のベルが鳴って、僕は飛び起きた。まずスマホを見るが、そちらには何もない。鳴っていたのはホテルの内線電話だった。何か僕宛に緊急の報せでもあったのだろうか。少し不安を感じながら受話器を取ったが、その内容は僕を脱力させるものだった。
「すみません。チェックアウトの時間を30分過ぎてますが、如何されましたでしょうか?」
「すみません。今の今まで寝てました。ああ、すぐチェックアウトします。すみません」
僕は一人、部屋を見渡して忘れ物がないことを確認してからチェックアウトした。その間にもう一度スマホを見たが、僕宛の電話もLINEも履歴は何一つなかった。
少しモヤモヤしたものを感じながら、僕は軽く食事を取ってから家に帰った。鍵を開け、家の中に入ると、僕は少し驚かされる羽目となった。玄関に女性ものの靴が一組脱ぎ散らかされていたからだ。
杏里さんが帰っているのか? その靴と自分の靴を綺麗に並べてから部屋を見渡すと、部屋の片隅に女性もののバッグが放られ、上着もまた適当に放られていた。どれも杏里さんのものだ。
少し頭が痛くなる思いをしつつ、僕はノックをして杏里さんの部屋に入る。そこで僕は、自分のベッドでろくに布団もかけずにぐーすか眠っている杏里さんの姿を見付けた。
酔っ払って、間違えてこちらに帰ってきてしまったのだろうか。仕方ないなぁ。そう思いながら僕は近くに放置されていた毛布を取り、これ以上冷えないよう杏里さんにかけた。その時、僕は一つの不快感で顔を歪めた。
近寄った杏里さんから感じられたのは、彼女が愛用している香水の匂いと煙草の臭い。僕も杏里さんも煙草は吸わない。式場は勿論、二次会場でも禁煙だったし、昨今では人が複数集まる場所では何処も禁煙だろう。では、杏里さんは喫煙者と二人で長い時間一緒にいたということ? 新婚の、しかも初夜に。旦那を放置して。
「!」
最悪な妄想をしてしまった僕は、途端に気持ち悪くなって杏里さんの部屋から飛び出した。何を考えているんだ、僕は。そんなことある訳ないじゃないか。何を考えているんだ、僕は。そんなことある訳ないじゃないか。頭の中でそう繰り返しながら、僕は自分の部屋の自分のベッドに独り寝っ転がって、枕に顔を埋めた。
視界を閉ざすと思考がクリアになり、却ってあれこれ気付かされた。生活リズムが違うかもしれないから、各々部屋は持っておきましょう。そんな杏里さんの言葉通り、僕達は別々に部屋を設けていた。その時は新婚の夫婦でもう別々のベッドかって思いはしたが、熱々な新婚夫婦ならばそんなの関係ないと思ったし、別々の部屋があれば一人ハッスルてしまっても大丈夫だなんて思っていた。
ただ。杏里さんの部屋がある方に視線を向けて、僕は独り思う。もう、これだけの距離が僕達の間にはあるのではないかと。
「あれ?」
いつの間にか眠ってしまっていたのか、僕は不意に目覚めた。窓の外を見るとまだ明るかったので、寝てしまっていたのも恐らくほんの少しの時間だろう。
目をちょっとこすってからリビングへ向かうと、そこには不機嫌そうな杏里さんがいた。すれ違いがあり、初夜が台無しになったのだから仕方ないか。僕は杏里さんの向かいに座り、彼女に向き合う。
「あ、杏里さん、ごめん。ちょっと寝ちゃってたみたいで」
「構わないわ」
杏里さんはスマホに目を向けたまま、僕の方には目も向けず切って捨てる。何故予約してあったホテルに来なかったのか。もしくは来れなかったのか。聞きたくはあったが、訊いてもマトモな回答は返ってこないことが目に見えた。
それより初夜をやり直し、未来に向かった方が良いだろう。僕はそう思い、立ち上がって杏里さんの方へ一歩踏み出したが。
「近寄らないでくれる? キモオタがうつるから」
え? 何を言ったんだ、この人は。
いや、きっと女性にずっともてずにいた僕が不意に抱いた幻聴だろう。そう思うことにして、さらに杏里さんへ近付いたが。
「近付くんじゃねぇって言ってんだろうが、このクソが!」
「え?」
「ケッ!」
杏里さんは吐き捨てるような態度で立ち上がって自室へと去り、ドアを叩きつけるように閉めた。僕は思考回路がフリーズし、固まったまま後ろを振り返ることすら出来なかった。
誰だ、アレは? 今まで会っていた杏里さんは何だったんだ? 猫を被っていたのか? ずっとずっと、昨日まで?
その答えはない。しかし昨日が結婚初夜で、今日はそのやり直しをやるつもりでいた。そんなつもりでいた僕だったが、今日はもうそんなことをする気にはなれなくなっていた。
それどころか、今日はもう杏里さんと会話する気力すらなくなっていた。今の僕の気分のまま彼女と会話すると、ロクなことにならないと分かっていたからだ。
そうして僕と杏里さんはそれ以上会話をしないまま一日を終え、次の日を迎えた。その日の朝も会話をしないまま、目も合わせないまま、各々朝の時間を過ごして出社していった。
「どうだどうだ、ファースト・ナイトは? 最高だっただろう? 最高だったろう?」
会社で、時間の空いた時に仙波先輩にそう絡まれるのは予想出来たことではあった。もっとも、それを分かった上で答えようがなかった。まさか、一緒に寝るどころか、手を握ることすら全くしてませんと馬鹿正直に言えるものではなかったから。
そう言ってしまうと、娘さんを託してくれた岸本部長の信頼を損ね、好意を踏み躙ることになるから。
「仙波先輩、そんな品のない話はしないで下さい。男性同士でもセクハラですよ」
そんな古田さんの気遣いが嬉しかった。答は何もなかったので。
ただ、この結婚で僕は幸せにはなれない。そのことだけは確信していた。
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