第19話 偽神の放逐

濃紺色の空に星が散りばめられていた。今、北にゆっくりと進んでいる。

前方から光の点滅が近づいている。巨大な白い鳥が、身を凍らせるような唸り声をあげながら飛んできた。

『鳥じゃない。セスナだ』

操縦席の緑色のメーターランプに照らされて、苦み走った男の顔が浮かび上がった。口元と目尻に深い皺が刻まれている。いらいらしている。いや、空の上の散歩を楽しんでいるのか。

セスナを下に見ながら北西に進路を変えた。


強い逆風に飛翔は左右に揺らめいた。何かが視界の縁にへばり付いていた。重くはないし、邪魔でもない。ただ何となく違和感があった。頭を振っても落ちない。もういい。諦めて羽ばたき続けた。

薄く張った霧を突き抜けた。夜の冷気が瞳を荒々しく撫でつける。思い付く言葉の数が少なくなっていく。


『あレは ドコ?』

自分でもわからない何かを探し続けた。何故そうするのか、理由はわからない。ただ、ひたすらそれを求めていた。


『アッタ!』

赤く点滅しながら流れる長い列…その先頭にあるあの四方八方に伸びる黄色の輝き。

『アソコ』

そこに滑るように降りていく。

鼓膜を破るようなけたたましい音が襲ってくる。人間が四人、激しいリズムに合わせて首を振っている。

『チカヅキ ダメ!』

でも、輝きの魅力は、本能が発する警告を遥かに超えている。

『ヨシ!』

そこに飛び込む。この上ない安らぎが体を覆っていく。


激しい軋み音が響いた。

急に三つの人間の顔が覗き込んだ。

「ミツイ、オレタチダ。ワスレタナンテ イワセナイ」

「サア、モドルノジャ、ジブンノカラダニ!」

前から伸びてきた銀色の波が、黄色の輝きをバシリと叩いた。


一瞬、数十台ものパトカーに追走されている赤いスポーツカーが、消えゆく鳥の視界に映った。


・    ・    ・    ・    ・


青い波動がごく近くで揺れていた。

目で見ているのではなく、そのように感じていた。波動の欠片かけらである誠は、今、元の肉体と繋がろうとしていた。が、生を受けてからずっと一緒だった感触は彼を押し退けた。

紛れもなく自分の波動なのだが、まるで異物を排除するかのように余所余所よそよそしい。


…僕の固有波動を真似して、心に侵入しようとするおまえは何者だ…


思考波を感じた。

慣れ親しんだ自分の思考声紋をもつが、人柄が変わったように冷たい。

伊神にやられたのだ。伊神は誠の固有波動までは変えずとも、心の深層をいじって人格を変えたのだ。それで新しい人格が、元の人格を受け入れまいと抵抗しているのだ。それに先程から隣にへばり付いている違和感が抵抗をより強めていた。


『僕は、帰ってきたんだ!』

誠は怒鳴った。

…他者の侵入でないとしたら、これは自分が生み出したもの。なんなんだ。まるで人格が分裂してしまったようだ…

動揺している新しい人格は、波動の輪郭色を濃くし、ガードを固くした。が、そのおかげで、これまで見えなかった針の先のようなごく小さな亀裂が見えた。


『そこだ!』

誠はその隙間に入ろうとしたが、ずっと付きまとっているものが邪魔で入れない。

『いい加減、離れてくれ』


『ごめんなさい…』

男とも女ともつかない声が答え、途端に違和感は消えた。するりと亀裂の中に入り込む。


辿り着いたのは、暗い洞穴の中だった。勿論、本当にあるわけではない。脳の思考回路に刻み込まれているものを、イメージ化して見ているのである。だが見ている者にとっては、現実との区別はなかった。

前方の天井には、大木の根が複雑に絡み合いながら垂れ下がっている。壁面は紙切れでも張られているかのように、ひらひらと動いている。壁に近づいた誠は、声にならない悲鳴をあげた。そこには無数の顔があり、バラバラにぶつぶつと独り言を発していたのだ。

『止めてくれ、こっちを見るな』   

誠は一斉に向けられた視線を避けるために暗がりを移動した。先にあったのは小さなテントだった。中に入ると子供がいた。それは小学生時分の誠だった。膝を抱えて座り込んでいる。


…わたしが守ってあげよう…

落ち着いた低い声がテント内に響いている。よく見ると、幼い誠の膝の間に、小さな人形が顔を出して口を開いていた。


『そう、僕は求めていた。突き刺さる人々の思考から守ってくれる物を、ずっと』

誠はほっとした。安心感とともに思考が消えていく。あの人形をたずさえていれば嫌なことは起きないのだ。


『ダメだ、三井』

『目を覚ましなさい』

突然、黄緑色の光がテント内を飛び回った。ずっと感じていた違和感はこの光だった。これまで色を変えて潜んでいたのだ。

『…教官たち』

思考が戻った。誠の意識に支えられ、黄緑色の光は強い光を放ち始めた。

『さあ、僕らを手に取れ、そして伊神に埋め込まれたものを消し去るんだ』

橘教官の声とともに、光は、鋭い斧の形となった。

誠はそれを握った。途端に見えてきた。幼い誠が抱えていたのは、人面の大蛇の鎌首だった。


…わたしが守ってあげよう…

伊神の顔をした大蛇が、赤い舌をのぞかせた。

『人の心の傷を利用するなんて、絶対に許さん』

誠は心に植え付けられていた伊神信仰の不気味な偶像を切り刻み、さらさらとした波動を目一杯に広げた。


『僕は戻った!』


・    ・    ・    ・    ・


「衛星打ち上げまで、あと、一四時間〇五分」

スピーカーから声が響いていた。

誠は半円形の長机に日本地図を広げ、赤いボールペンを握っていた。

地図には、東京の新宿を起点として、昨日から今日までの飛行ルートの線が引かれている。特に長野から青森までは、正確に方位角度まで記入されている。人格を変えられた誠は、野村老師の隠れ家への道筋を暴露しようとしていたのだ。

顔を上げると、数メートル先にやたらに背の高い男が立っていた。その横には二人の教官がいる。

振り返れば、二人の白人男性の能力者が、折りたたみイスに腰かけて瞼を閉じていた。その波動は地上に向かって薄く広がっている。宇宙センターの周囲を見張っているのだ。


「両教官、どうかね」

伊神が話した。

「あなたの思考波が、世界の人々に届くのが待ちどおしい。これでやっと様々な紛争に終止符が打たれる」

「各国の軍事情報も重要ですわね。能力者たちが、政府の高官たちの心に余計なシールドを張っていたとしても、軍事情報さえ押さえてしまえば、彼らはあなたの意見に従わざるをえないでしょうから」

橘教官が話し、金井教官が続いた。

二人の体から放たれる緑と白色の波は、ひれ伏すようになびいている。二人とも誠と同様、人格を変容されてしまったのだ。


『みついくん…みつい…』

心に微かに声が響いた。自分の生体波動のうちの黄緑色が強い輝きを放っていた。

『教官たち、二人はまだここに?』

『そう…さあ、にせのぼく、わたし…おもいきりたたくんだ』

『えっ!』

誠は驚いた。

教官たちのメッセージもそうだが、生体波動に混じり込んだ輝きの中に、様々なイメージが走馬燈のように浮かんだのだ。

……訓練校の卒業証書に自分の思いを残留思考として刻み込んだ橘教官、それを受け取った金井教官のはにかんだ微笑み、…どこか戦闘地域で瓦礫に身を伏せながら、手を握り合う二人……


「三井くん、野村氏の隠れ家の場所は特定できたかね」

偽の人格を宿した橘教官が、丁寧な口調で話しながら振り返った。その顔が奇妙に歪む。

「どうした。何かあったのかね?なんだ、その生体波動は?」

誠は、歩み寄ってきた教官の顎をいきなり張り飛ばした。黄緑色の波動が稲妻のように拳を通り、教官の体に叩き込まれた。

橘教官はよろめきながらニタリと笑い、後ろにいた金井教官の顔をひっぱたいた。緑色と分かれた白色の輝きが、するりとその整った顔に入り込んだ。橘教官はそのまま大きくジャンプし、驚いたように目を見開く伊神の首に空手チョップを入れた。


「明日香、急げ!」

声と同時に、教官たちはホール後方に走り、イスに座っていた二人を投げ飛ばした。

あっという間の出来事だった。伊神と二人の能力者は、気を失って床に倒れていた。


「ふうー、全く老師の計画は乱暴だよ。三井のちっぽけな人間の波動に、僕たちの人格と能力の一部を転写させて、鳥の知覚に宿らせるなんて。もし、鳥に宿った三井の波動がなくなってしまったら、僕らも消えてしまうところだった」

「でも素敵だったわ。だって私たち、鳥と一緒に大空を飛んだんですもの」

二人の教官が拳をさすりながら笑った。

「三井、さっきのパンチは利いたぜ。おかげでばっちり元に戻った。心は大丈夫か。転写されていたものが抜けたら、かなり弱ってしまうはずだが」

橘教官が心配そうに、誠の顔を覗いた。

「いや、大丈夫です。それより大きな収穫がありました。お二人の極秘事項…今後、参考にします」

「そうか、二人分とはいえ、転写した量は少なかったからな。しかし、極秘事項は内緒だぞ。斉藤たちには絶対に言うなよ」

橘教官が笑いながら誠の頭を小突いた。

「健司さん、さっき私を叩いた時、かなり本気だったでしょう?」

金井教官が、橘教官に鋭く聞いた。

「当然さ。本当の愛の鞭ってやつだよ。さあ、うかうかしていられないぞ、伸びている伊神や先輩たちが、いつ目を覚ますかわからない。明日香、いや、金井教官は、ここにいる人々の心を解放してくれ。三井は僕を手伝ってくれ」


木内博士は、床に倒れている長身の男を前に呆然と立ち尽くしていた。恐らく博士の心には、神がかった存在として、伊神が焼き付けられていたのだろう。他のスタッフは、相変わらず卓上モニターに見入っていた。打ち上げだけに専念せよ、と簡単な暗示を掛けられているに違いない。

橘教官と誠は、伊神の身体を管制室から運び出した。

「ここから、なるべく遠いところ。そうだ。1階の奥にあった電子資料保管庫に押し込めよう。きっと壁は電磁波遮蔽の加工がされている。あそこなら、伊神が目覚めて思考波を用いようとしても限度ってものがある」

教官は余裕の表情をしていたが、誠はひやひやものだった。この土気色をした顔の男が、いつ目覚めて、強烈な思考波で襲ってくるかわからないのだ。保管庫にあったビニルテープで念入りに全身を縛り、扉をしめてやっと一息ついた。

管制室に戻った橘教官は、倒れている二人の能力者の両手もビニルテープで縛った。さらに「まあ、こいつもちっとは能力を抑えるのに役立つだろう」と、テレビモニターの画面に張られている電磁波防護フィルターをはがして、顔の周囲をぐるりと覆った。


木内博士はコンピューターに向かっていた。必死に何かを打ち込んでいる。WOHのコンピューターに入力された伊神のためのフリー・パスコードを解いているのだ。

金井教官がにこやかに言った。

「意外と簡単だったわ。博士の心の深層にあったお城の中に、光り輝く王冠をかぶった伊神がいただけ。そいつを箒で外に掃き出して、隣に縮こまっていた博士の亡くなったお父さんに王冠を返してあげたわ。

他の人たちは、このままでも大丈夫。危険な暗示は掛けられていない。引き続いて業務に専念してもらうことにしたわ」

「さすがに手際がいいな。博士と同様、僕らにしても、固有波動まで変えられなくてよかった。まあ、波動まで変えてしまったら、これまでの知識も能力もなくしてしまう。それは伊神にとっても不都合だったってわけだ。さて、仮眠室にいる他の先輩たちはどうするか」


「君たち、大丈夫だ」

首を傾げる橘教官の後ろにいた木内博士が振り返った。空調は十分にきいていたが、額には汗が吹き出ていた。

「あの連中がいる仮眠室には、中央制御装置で鍵を掛けておいた。プログラムは元に戻したよ。私は、まっこと恐ろしいことに手を貸していたものだ」

二人の教官は、礼儀正しく頭を下げた。

「ありがとうございます。博士には、国際イーエス委員会の会長の許可がおり次第、またプログラムに関する記憶に鍵をかけて頂くことになりますが」

橘教官が丁寧に言った。

「勿論だとも。一刻も早く願いたい!」

「私たちの尊敬するご老人が、すぐにでもニューヨークにいる会長にかけ合って下さるはずです。たぶん、ご老人と私たちがすることになると思いますが。今暫くお待ち下さい」

木内博士は、肩の荷が降りたように、大きく息を吐きながらイスに座った。



「そろそろ尊師が到着する頃だろう。出迎えにいくとするか」

三人はエレベーターに乗り、玄関の前に立った。どこか上空から低い音が聞こえていた。

「まずい、伊藤さんを忘れていた」

橘教官が唇を噛みながら、空に一度顔を向けた。

中庭の奥から、最初に遭遇した警官隊が走ってきた。再び金井教官が偽の波動を飛ばし、彼らはそれを追いかけていった。


遠くで激しいサイレンの音が響いている。こちらに近づいてくる。

キィーーーッ!

高い塀の向こうで、甲高い車のブレーキ音がした。ハードロックが喧しく鳴っている。塀横の扉を開けた三人の前に、真っ赤なオープンカーが停まっていた。

ハンドルを握っていた老人がにこやかな顔を向けた。後ろに座る三人は、興奮したように手を振っている。

「終わったようじゃな」

オーディオ停止ボタンを押して野村尊師が言った。

「はい。おかげさまで、この通り」

橘教官が、誠に張り飛ばされて腫れあがった顎を見せた。


「そんなにはしゃいで、どうしたっていうんだい」

誠は、後部座席で跳ね上がっている若者たちに声を掛けた。

「この爺ちゃんの運転がさ、ノリノリの音楽をかけて最高だったってことだよ」

斉藤が首をリズミカルに振った。

美春は興奮したように顔を真っ赤にしていた。黄色い波動が眩しいほどに放射されている。空には十数羽の鳥が離れることなく、大きく旋回していた。

老師は、鳥の知覚に宿った誠に発見されやすいように、激しい音楽をかけて美春の覚醒を高め、波動の放出レベルを高めていたのだ。

篠田は張り詰めていた神経が急に萎んだかのように半目になっていた。

「ありがとう。皆の呼び掛けのおかげで、目的も果たせたし、自分の体にも無事に戻れた」

「当たり前だ!」

三人は腕を高く突き出した。


塀の曲がり角から、続々とパトカーが走り込んできた。野村尊師が微笑んだ。

「未成年者拉致、誘拐、それに車泥棒じゃ。ちと、罪は重い」

「それにスピード違反に信号無視。お祖父さん、逮捕されて頭を冷やしたら」

途中で声を出し過ぎたのか、美春の声は掠れていた。数十人の警官隊がぐるりと周りを取り囲んだ。

「もう、追いかけっこはお疲れでしょう」

橘教官が、一人の警官の肩から素早く無線機を奪い、老師に投げた。老人は即座に警官から読みとった暗号コードを入力し、側面のスイッチを入れて、ごく普通に話した。

「こちら警察庁長官…」

警官たちの肩にぶら下がっている無線機からも、同じ声が響いている。無線機を奪われた警官は、「何を!」と飛びかかりかけたが、尊師が発したリズミカルな舌打ちの音とともにその場に静止した。他の警官達もその場に硬直している。尊師は続けた。

「…この無線を聞く各都道府県警、並びに各警察官に告ぐ。高校生を誘拐し、現在、逃亡中の四人の容疑は解けた。そしてこの一件は、口笛の音が聞こえると同時に、君たちの頭の中から消え去る」

ヒューッ!と小気味よい口笛の音。警官たちは途方に暮れたように、顔を見合わせた。

「我々は一体何を。き君たち、夜間の運転に注意したまえ」

一人が社交辞令的に話し、ぞろぞろとパトカーに乗り帰っていった。


「ねえ、待ってよ。爺ちゃんの車泥棒とスピード違反、信号無視はどうなったの」

斉藤が叫んだ。

両教官が頬を引きつらせるなか、上空からセスナが舞い降りてきた。



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