第18話 蛇の懐

棟内には常夜灯が淡く点いていた。ホールに並んだガラスケースに、ロケットや衛星などの模型が展示されている。三人は案内板に示してある通り、地下二階にある管制室に向かった。

廊下は静まり返っている。歩いていく先々に関門のようにある扉には、やはり鍵は掛かっていなかった。誰も出てこない。かえって不気味だった。

エレベーターを降りたすぐ前に、特殊管制室と書かれたドアがあった。


「さて、皆さんがお待ちかねだ。三井、いいかね。ここを出るとき、君という人間が変わってしまっている可能性は大いにある」

橘教官がにやりと笑った。誠はこくりと頷いた。


ドアを開けて踏み込んだ中は、体育館のように広かった。

巨大なスクリーンが壁面に二つ並んでいる。その一つにはナイトビジョンで、遥か千キロ遠方、種子島にあるWOHを搭載したロケットが映し出され、もう一つには、現地の宇宙センターの打ち上げスタッフの様子が映し出されていた。

スクリーン前の半円形の長机には、打ち上げ後の管制や電波管理を行うこちら側のスタッフが三十名ほどつき、ずらりと並んだモニターを見つめている。

その内一人だけ、忙しそうに歩き回る顎髭を生やした老人がいる。WOHのコンピュータープログラム開発をした木内博士だった。


…衛星打ち上げまで、あと十六時間二〇分…

壁のスピーカーから現地の女性スタッフによるカウントが流れている。時間は夜の九時をまわっていた。


ホール内に進んだ三人は、すでに七人の男と五人の女に囲まれていた。

日本人らしき人は二名で、他は屈強そうな黒人、子供のように背の低い白人、浅黒い肌のラテン系の人…様々な人種と民族、個性が混じっている。

WOHの正常運行を見守るために国連から派遣された能力者たちであった。皆、かなりのベテランのはずだが、その思考は伊神に乗っ取られているのだ。一体、伊神はどれほどの能力を持っているというのか。

誠は不安な視線を周囲に走らせた。


「皆さん、お久しぶりです。世界に名を馳せる先輩方と一度にお会いできるなんて、夢のようです」

陽気な声で話す橘教官の横で「もう、また」とつぶやく金井教官の声が聞こえた。


「ミスター・タチバナ、もう少し念入りな進入計画を期待していたのだが」

口髭をたくわえたアラブ系の男が、肩をしゃくらせながら話した。

「ミスター・カナンの言う通りだ。伊神さんからの指示がなかったら、訓練校で安穏あんのんと過ごしているおまえや金井を地上に落としてやったところだ。どうせおまえたちは、野村氏の甘言に乗せられて、伊神さんの偉大な計画を壊しにやってきたのだろうがな」

四十才ほどの日本人とおぼしき男が言った。

「カナンさん、三船先輩、そんなつれないこと言わないで下さい。それはさておいて、私たちを快く招いて下さった伊神大先輩はどちらに?」


「ふふ」

能力者たちが視線を向けた先、スクリーンの前に座っていた男が、含み笑いとともに振り返った。立ち上がって、ゆっくりと歩いてくる。身長はかなり高い。一九〇センチはあるだろう。新宿の液晶ビジョンに見たのと同じ、角張ったどす黒い顔に薄笑いを浮かべている。青緑色の固有波動が、ハ虫類の肌のようにてらてらと光っている。


「三人ともよく来てくれた。やはり君たちは、わしのささやかな挑戦状を読みとってくれたわけだ。君は三井君だったね。昨日は表彰したいほどの爽やかなチームプレーだったよ。しかし何故に、ひよっこの君がここにいるのだろう」

奇妙にビブラートのかかった低い声だった。

「伊神さん…」

誠に向けられた視線を断ち切るように、橘教官が大袈裟に頭を下げた。

「初めてお目にかかります。特殊訓練校の」

が、長身の男は片手を挙げて言葉をさえぎった。

「能力者の間で堅苦しい挨拶は抜きだ、橘君。君の遠隔交信の能力の高さは噂で聞いている。君たちの力を見せてもらうために、形ばかりの警備を残しておいたが、先ほどのウェーブコントロールのコンビネーションはなかなかのものだった。二人の教官はかなり親密な仲とうかがわれるが…」

「いや、それはまあ」

照れたように額を指でほじくる仕草をした橘教官の靴を、金井教官の硬そうなヒールが踏みつけた。


「ふふ、これは失礼した。それでは早速だが、そちらの計画を聞かせてもらおうか。せっかくだから女性に尋ねよう。マスター・ウェーブ・コントローラーの金井君」

伊神は、金井教官の瞳の奥に焦点を合わせるように視線を固定した。能力を推し量っているようだ。取るに足らない誠への疑問は消えてしまったらしい。

「私たちは、あなたが世界の電波を支配することを阻止しに来ただけですわ」

金井教官は表情も変えずに口を開いた。

「そしてまずやるべきは、木内博士の心に刻まれた伊神という神を消すこと。ここにいる皆さんと同様、あなたは博士の知識を残すために、固有波動まではいじっていない。あとは、博士の正義が目覚めるのを待つだけ。場合によっては、伊神さん、あなたの命を奪うこともありますわ」

全く明け透けな答えだった。誠は首を捻った。

『戦いはいつ始まるんだ。それとも、もう始まっているのか』


伊神は顔を歪ませて笑った。

「はは、はっきり言うね。それに状況もすでに把握している。さすが、野村の爺様のお気に入りだけはある。まあ、それは置いておいて、今、聞いた正義という言葉が妙に引っかかる。わしも若い頃には、正義というものを信じていた。そいつのために、多くの凶悪事件の解決に精力を注いだ。時には犯罪者の固有波動を変化させ、全くの別人に変えた。

だがある時、気づいた。世の中に正義が多過ぎることにな。そして当然、力の強い者、戦いに勝った者の正義こそが、結果として認められる。

我ら能力者は、勝ち組の正義というものを揺るぎないものにするために働いてきた。それが誤っていようがお構いなしにだ。三井君、若い感性を持つ君は、正義についてどう思うかね」

朗々と語った伊神は、再び誠に視線を投げた。


「…」

誠は激しい憤りを感じた。伊神への嫌悪感はもちろんだが、一方、その考えに共鳴している自分もいることに気付いたのだ。喉元に登りかけた酸っぱい液をぐっと飲み込んだ。

「思った通りに!」

橘教官が力強く言った。

「正義ってもの…」

誠は口を開いた。

「僕はそれをつかめていない。ずっと掴めないような気もする。はっきりとは言えない。けど、一人一人が『そうだ』と直感的に感じることだと思う。でも、それを集めて固めてしまうと、もうずれてくる…」

「ブラボー、ブラボー、わしも全くそれに賛成する。正義は各個人の中にある」

伊神が激しく手を叩いた。

青緑色の波動が誠の体をなめるように流れ、全身にぞぅーと鳥肌が立った。居並ぶ十二人の能力者は崇拝の視線を伊神に送っている。

「両教官、訓練校も満更まんざらでもない。こんなに優秀な感性の生徒を育てているなんてな」

「そうでしょう。僕もこの三井って奴は、最高に素敵な生徒だと思っているんです。悩み癖もありますが、熟慮の欠けた行動力も抜群です」

橘教官が笑いながら言った。

誠はじろりと教官を睨み返した。

『ちっとも嬉しくはない』


「では三井君とやら、これはどう思うかね。一人の偉大な人間が、不安や憎しみなど、様々な負の感情を人々から取り除く。そして誰もが平安の内に勤勉に働き、余った時間は、大いにくつろげるような社会を構築する。貧富の差は生じず、当然、経済的な問題に伴う様々なトラブルも生じない。つまり、正義なんてものにこだわる必要もなくなるというわけだ」

「それは違う」

誠ははっきりと答えた。

「そんなことは一人の人間ができることじゃない。あんたが言う偉大な人は、人の心に麻酔をかけ、自由な思考を奪おうとしているだけだ。そんなことにも気付かないなんて、愚か者としか言いようがない」

今度は橘教官が激しく手を叩いた。

「聞いたかい、金井教官。人の心に麻酔をかける愚か者だって。こりゃ傑作だ」

先ほど三船と呼ばれていた男が、誠の頬を平手打ちした。同時に他の男たちが橘教官を取り囲み、腹や背中を蹴った。女たちは冷ややかな目で三人を見返した。


床に崩れながら橘教官は呻いた。

「み、三井、これが偉大な人の教えというものらしい。信奉者たちは言葉を使うことを忘れ、感情の赴くままに暴力で表現する。素晴らしい、身をもって学習できるなんて」

「橘教官、だめ、皆さんを挑発しては」

金井教官が強く言った。伊神は、他の能力者たちに下がるように顎をしゃくった。彼らは丁寧に頭を下げ、壁際に離れた。


「しかし、疑問だよ。勝ち目のないこの状況に、どういう作戦を持って君たちは来たのか。三井君の能力は、一瞥しただけでわかるほどに未熟だ。それにわしのウェーブ・コントロールの力は金井君を超えている。こうして波動をさらけ出していても何の怖れも感じない。さらにここには複数の優秀なウェーブ・コントローラーがいる。

君たちの能力に鍵を掛けることもできるし、人格の変容の程度も自由自在だ。秘策があってここに来たはずだが」

「作戦名はミッション・アルファです。ですが残念なことに、内容は僕らも知らないのです。大体、こういうどえらい事件に限って、尊師は具体的なことを教えてくれない。どうせ、ろくでもないことを考えておられるのに違いないのですが」

橘教官が喘ぎながら立ち上がった。

「面白い。では遠隔交信で聞いてみてはどうか、わしも一時は尊敬していたあの爺様に。今なら、きっと教えてくれるだろう」

「よろしいんですか。聞いてしまったら最後、あなたの計画はぶち壊しになってしまいますが」

「もちろんいいさ。わしの知る限りでは、日本ES委員会に所属している者で、わしの信奉者となっていない者は、野村の爺様と君たち二人だけだ。他は、能力者と呼ぶには余りにも非力な高校生ばかり。君たち皆が力を合わせたって何もできやしない。さあ、聞いてみたまえ。わしの度肝を抜く作戦をな」


伊神の声とともに橘教官は、五、六秒、遠くを見た。そして楽しそうに笑った。

「あなたに精神を変えられるのなら、その前に愛する者と気持ちを分かち合え。それで三井は、それを祝福しながら飛べって。これが作戦ですが…」

「あの爺様、何を企らんでおる。ふふ、尚更に面白い。橘君、やりたまえ、わしがその謎掛けじみた作戦をきっちり封じてあげよう!」

青緑色の波が三人の波動に少しずつ触れては、その輪郭の色合いを微妙に変化させていた。すぐにでも誠らの心に侵入できるように、波動を調整しているのだ。後ろには、壁際から伸びた波動がそわそわと揺れている。伊神の言ったウェーブ・コントローラーたちも準備態勢に入っていた。


「ということだ。僕たちの人格も能力も風前の灯火ってやつだ。だが、やっと念願が叶う。ムードも何もないが、明日香、いいね。それに三井も」

橘教官の声に、金井教官が小さく微笑みながら頷いた。


見つめ合う教官たちの体から波動が流れ始めた。

柔らかい白色と若々しい緑色の輝きが、二人の間に跳ね回り、どちらかの体に消え入りそうになったかと思うと、また流れ出た。やがて二つの輝きは、金井教官の周囲で一つにまとまり始めた。


『三井君、私たちの心を受けとめて』

金井教官の思考が聞こえると同時に、煌めく黄緑の波動は移動し、誠の周囲を覆い始めた。

『心…人格と能力の転写だ」

誠は悟った。

『二人は僕に人格と能力の一部を写そうとしている。二人の教官への愛情…そんなものは正直いってないかもしれない。でも、深く信頼している。そのことに偽りはない。できるはずだ』

誠は、自分の生体波動に元々含まれる黄緑の光に意識を集中した。それはすぐにも金井教官から伸びる波動と同調し、輝きを強め始めた。同時に、何かがちくちくと縫い込まれるような感じがした。

「何をしているんだね」

角張った顔がいぶかしげな表情を浮かべた。

てらてらと光る波動が青色を濃くした。ぬめるような感じが、さらさらしたものになり、誠の固有波動と同じものに変わった。


誠は自分の波動の周辺部を固くし、伊神の波動が侵入するのを阻止しようとした。が、偽の波動は前に伸びてくる様子はない、反対に、伊神の背後の床面に伸びている。その一方、自分の生き写しのように見えだした男の顔は、薄気味悪く笑っていた。何故か嫌悪感は起きない。むしろ充足感とともに緊張がほぐれていく。


『伊神は既に侵入してきている。しかし偽の波動は伸びてきていない。どうなっているんだ』

疑問に答えるかのように、偽の自分が床を指さし、片足を上げた。

操り人形のように、誠の体も同じように動いた。視線を落とした床からは、偽の青い固有波動が湧き水のように吹き出して、身体を駆け昇っている。

「まさか、こんなことが」

驚いているはずなのに、奇妙にリラックスした声が漏れた。

これこそが伊神の行うウェーブコントロールだった。


本来、固有波動も含めた生体波動は、内側から、外側に向かって放射されている。もちろん、感情の変化とともに揺れ動いたり、激しく伸縮したりする。

ウェーブコントロールを行い、誰かに波動をまとわりつかせば、そこを起点として、ブーメランのような放射曲線を描くことも可能である。

だが、今、誠に侵入している波動は、『起点から外側に向かう放射』という原則から著しく外れていた。コピーした波動を、いったん後方に伸ばし、地下を経由させて相手の足下から垂直に上昇させているのだ。

金井教官でも、これほど自由に曲線を描くことはできないだろう。この場にいるベテランの能力者たちでも、地下から忍び寄る偽の波動は感知できず、防御不能だったに違いない。


「ははは、変容される前の転写か。そのためにわざわざ無垢な高校生を連れてきたのかね。無駄なことだ」

「飛ぶんだ、三井!!」

薄れゆく意識の中、伊神と橘教官の声が微かに聞こえた。誠は、辛うじて自由のきく首の筋肉を収縮させ、顔を上にねじ上げていった。


天井のライトがちらついた。

『鳥よ…上空を飛んでいてくれ』

僅かに残った誠の心の欠片が小さく呻いた。


『鳥だと?ん、何だ、この波動の穴は…』

伊神の伸ばした波動が、尖った触手を伸ばして誠の眉間の奥を探ろうとしていた。


その時、だしぬけに映像が切り替わった。


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