第4話 悪役令嬢の決断

 浴室の鏡の中、ウエストに沿ってコルセットのボーンの痕がうっすら残っている。日中に召し替えが何度かあったものの、結局コルセットは一日中着けていた。細ければ細いほど良いという価値観には同意出来かねるため、余計に苦々しく感じる。

 前世で貴族生活を調べたところによると、中近世、女性は身分に関係なくコルセットやそれに準ずるものを身に着けていたという。しかし、当時の男性は女性と共にベッドに入ってコルセットを脱がせた時に、こういう跡がついていたらどう思ったのだろうか。いや、時代によっては男性もコルセットを着けていたんだったか。茹でたエビを剥くように、コルセットを剥いて白い肢体を暴くというフェチズムは理解できそうにない。

 まじまじと見ていると、ファナにいやらしい人ねと注意された。

 前世の好きなタイプは年上のお姉さんだった。いくら見目や発達が良くても、中学を卒業したばかりの子どもには何も感じない。


(あらそう? ならエマと入れなくて残念ね。『先輩』だっけ? 彼女のこと、好きだったんでしょう?)


「彼女は見た目は先輩だが、別人だ。……嬉しくないわけじゃないけれど」


(ふうん、そういうものなの?)


 こうやってからかってくるのだから、ファナもだいぶ落ち着いてきたらしい。

 知識はほとんど共有されなかったが、人生の大部分は包み隠さず見られてしまっている。自信たっぷりなファナは自分の人生を見られても後ろめたさも隠したいものをないようだが、なんとなくプライバシーを侵害されたような気分だ。

 それとも、ファナはまだ親元で保護されている年齢で、使用人が常に側にいて何でもしてくれる環境だから、生活に誰かの目があるのが気にならないだけなのかもしれない。

 現に、着替えはあんなに使用人に手伝わせるくせ、入浴は準備のみなあたり、この世界にもプライベートという概念はあるようだ。ベッドにもカーテンが付いていたし、部屋にはカギをかけられる。

 思っているより、の時間は確保しやすいかもしれない。

 湯船に浸かると、コルセットに抑えられた分の血が巡る気がする。この分では痕も風呂上がりには消えていそうだ。

 にしても、乙女ゲームという女性向けファンタジー世界でよかった。女性が無いと耐えがたいような物はだいたい揃っている。リアル中世なら、毎晩の入浴なんてとてもじゃないが無理だ。月に数回ハーブをお湯に入れたもので髪を濯いで終わり、なんて文明度になってしまう。

 どういう仕組みか、分厚いスカートでも座って用を足せるよう設計されたトイレだってちゃんと流れる。まあ、日本だって戦国時代の武田信玄の邸宅には水洗トイレがあったらしいし、どうにでもなるのかもしれない。


(この国には女神様の祝福があるからよ。女神様は雨をもたらす豊穣神。綺麗な水源も多いし、燃料になる木々もよく育つの。食料供給が安定していて災害も少ないから、学問を進める余剰もある。水路や水道も外国に比べて研究が進んでいる方だわ)


「まだそこまで設定してなかったんだけどな」


 ファンタジー世界とはしていたけれど、宗教や国や習慣、衛生観念、そして文明度についてはまだあまり考えられていなかった。

 弟のオセローにしろ、陰気な皮肉屋とは考えていたけれど、あれほどだとは思っていなかった。今朝のやりとり。日中も一緒に居ようとはしないよそよそしい態度。先程の夕食の席では一見和やか話しているように見えたが、必要以上に踏み込んでは来なかった。基本は設定したとはいえ、思ったより露骨に嫌われてる。


(ええ、確かに私はわがままな姉だったでしょうけど、よくある年が近いきょうだいの仲違いだと思っていたわ。どっちが親の愛情を得られるかの小競り合いだと。貴方が目覚めて、養子で得た弟と知るまではね)


「ファナは知らなかったのか」


 思わず、立ち上がりかける。が、思い直す。

 まあ、物心つく前に引き取っていたら、言われない限り気づかないよなあ。

 優しい両親は優しいが故に、気づいていないファナに言わなかったのだろう。そして気がつかなかったくらいには、ファナとしては平等に扱われていたのだ。悪役令嬢モノといえば、養子のくせにと弟をいじめていた設定が多いが、両親が優しいという設定の方が強く反映されたようだ。

 腰をずらしてお湯に浮くように湯船に沈む。

 オセローはグランテラー公爵の亡き弟君の一人息子で、本当はファナとは従弟の関係だ。血が繋がっているからオセローは公爵の若い頃によく似ている。現在、爵位継承権の第一位の存在だ。

 ファナの記憶の中のオセローは、皮肉はきついが、それ以外は遠慮がちだった。オセローは多分、ファナが本当の姉ではないと知っているのかもしれない。

 レジーノ家は古い家柄だ。オセローが廃嫡されれば女のファナでも家を継ぐこともできる。オセローが怯えるのも理解出来るし、何も知らないで天真爛漫に過ごすファナを憎く思うこともあるだろう。


(馬鹿ね、あの子。そんなこと起こるわけないのに。でも、あの子も攻略対象なんでしょう? 私たち、死ぬんじゃない?)


「ヒロイン次第だよ。彼女がオセロー以外のルートに入れば、オセローは絡んでこないだろう」


 そう答えつつ、ファナの態度に違和感を覚える。

 ファナ・レジーノは上級貴族としての矜持や品はあるけど、もっとわがままで、ヒロインをいじめるくらいは心に余裕の無いキャラクターだったはずだ。それがどうした、今朝の会話を終えて死ぬかもしれない状況と理解するようになってから、ヒステリーすら起こしていない。

 そこのところも思っていた設定と違う。


(まだ信じられないわよ。貴方にとっては貴方が作った世界でしょうけど、私はこの世界で十五年生きてきてるの。自分の年齢よりも長く生きた貴方の記憶とあの世界を受け止めかねてるに決まっているでしょう。

 日中ずっと考え続けて、やっと飲み込め始めたくらいなんだから!

 こうやって貴方と思っていること考えていることを交わしているだけでも、自分の信じてきた価値観が壊れそうだわ)


 それはそうだ。前世には貴族社会も女神の祝福も中近世の価値観もない。異文化どころか世界の大前提が崩れる経験になる。それでも精神崩壊していないのだから、ファナの我の強さ、気の強さは尊敬に値するのかもしれない。


「それで。もしどのルートにヒロインが入るにせよ。ヒロインに会ったら、今でもいじめると思うか?」


(正直、分からないわ。貴方の設定なら、私は殿下に恋して、その子をいじめるのでしょう? 確かに、公爵令嬢の私を差し置いてその子が殿下と恋に落ちたなら、嫉妬に狂うかもしれないけど。

 殿下にまだ恋してなければ、その子にも会ってないんだもの。判断できないわ)


「生存戦略的にはして欲しくはないけど、どれくらい設定が強制力として影響するのか分からないな……」


 王子ルートにしろ、ルート内容や具体的にヒロインがどうやって攻略対象の心を救い、救国をするのかはほぼ考えていなかった。どう立ち回るのがファナとしては賢いのかが分からない。


(私の幸せなら、平穏無事に3年間を終えて、立派な殿方に嫁ぐことだと思うのだけれど。貴方の未完成の設定なら、私が介入しないとルートとやらが始まらないんでしょう?)


 そこは微妙な線だ。ファナを物語の起点とする設定は削除していないが、保留にしてしまっている。


(貴方、この世界にとっては創造主みたいな立場なのに。全然頼りにならないわね)


 的確に痛い所を抉ってくる。流石は悪役令嬢。

 これ以上どうしろと言うんだ、とお湯の中に逃げると、ファナが私のセリフだと考えているのがわかった。

 にしても、立派な殿方と結婚か。運命共同体としてはぞっとしない話だ――






「あれ、サトウ君。いや、今はファナ嬢か。君、また来たの?」


 気がつくと、真白い世界に立っている。目の前には少年の姿をした神性存在。前回と違うのは、横にファナが立っていた。ファナと顔を見合わせる。

 ファナとしてはカミサマに会うのは初めてだ。カミサマを見て、不安そうな顔になっている。

 流石はカミサマ。悪役令嬢が怯んでいる。


「なんだか楽しいことになっているね。そんなに認めるのが嫌かなあ。あきらめなよ、君の世界は恋愛ゲームの世界で、君はそこに生まれてる。君はその人生の主人公なんだから」


 カミサマはあぐらの姿勢で無表情なりに楽しそうにこちらを観察している。体を左右に揺らす姿を見ていると、投げかけたかった疑問が腹の底から湧いてきた。


「どうしてファナだったんだ?」

「君のお気に入りのキャラだったじゃない。それに、君が言ってた通り、物語を動かしやすい立ち位置でしょ?」


 視界の隅で、ぱっとファナがこちらを向くのが見えた。ファナを望んで転生したわけじゃないと言ったのを覚えているらしい。自分の作ったキャラの目の前で気に入ってるとか気に入ってないとかバラされるのは気まずい。

 それはともかく。どうして先輩との会話を、と思いかけて、愚問だと飲み込んだ。このカミサマはそういうカミサマだ。


「……あと、『思うがまま、完全完璧なオーダーメイド』と言ってたけど。まだゲーム本編が始まっていないのに、見るもの聞くもの設定してなかったことばかりなんだが?」


 カミサマは聞かれると分かっていたというように肩をすくめる。


「君は具体的な所までまだ設定してなかったからかな。それに、みんな基本の設定に沿うような環境に生まれて、それぞれの人生を生きてきているんだよ。君が想定していた設定からずれることもある。だって、その人の物語が始まってるんだ。設定が途中で生えまくりだよ」

「そういうものなのか?」

「そういうものだよ。君は異世界転移じゃなくて異世界転生だからね。設定は決まってるとしたって。君が目覚める5分前に僕が世界を作り終わったわけじゃないんだ」


 結構すごいこと言ってるな。でもこれで、前世の記憶もファナの記憶も存在するもので、全てお互いの狂った妄想ではないというは分かった。のだろうか?

 この会話自体がまた更なる妄想なのかもしれないが。


「君が全知全能の神だったら、君が認知しないことは存在しないかもしれないけど。君の『カミサマ』は小さ過ぎるよ。それぞれの世界には無限大の宇宙があるのさ。乙女ゲームの世界はゲームの範囲のクローズドな世界。それをベースにしても、君の設定を飛び越えた『外』があるに決まってるだろ」


 長く語ってしまったのは、カミサマとしても不本意だったらしい。とにかく、と咳払いをする。


「何度も言ってるけど、人生は選択次第。君らの世界の選択は僕ら神様じゃなくて人の意志によるんだよ。だから、ちゃんと生きるんだ。そんな背後霊ごっこ、二重人格ごっこはずっと続かないんだから」


 ね、とカミサマがこちらを指した手を解き、ひらひらと振る。


「じゃあね。そして、もうここには来ちゃだめだよ。そろそろ戻らないと、いくら今度の君でも死んじゃうからね」

「え?」






 ごぼ、と目の前に吐き出された大きな気泡が水面へ上がっていく。慌ててバスタブの縁を掴んで上半身を持ち上げようとするが、何故か起き上がれない。パニックになりながらお湯の中で体をひねり、横向き、下向きと体勢を変えることでようやく顔を上げられる。

 嫌な咳はすぐ収まる。が、体も頭も茹で上がって、すぐには立てそうにない。とりあえず風呂の栓を抜いて、全身を冷やす。


「……背後霊ごっこってなんだ?」


 今日はなんと目まぐるしい日だ。死んで、異世界で目覚めて、また死にかけた。ファナにとっても厄日だろう。

 しばらく安静にしていると、体が動けるようになった。髪の毛の水分を絞り、バスマットをびちゃびちゃにしながらタオルとローブを羽織る。そのまま隣の自室に入り、窓際にナニーの置いてくれた肘掛け椅子に倒れこんだ。


「はあ……」


 開け放たれた窓からは、春の少し肌寒い夜風が吹き込んでいる。庭のどこかで咲いている花の香りが微かに混じっている。髪の毛がさらさらとなびき、軽くなっていく。湯上がりの清潔さが気持ちを和らげてくれる。

 ようやく落ち着いて、椅子に座る姿勢に体の位置を正し、鏡とヘアブラシを取る。すると、カミサマと会った時からずっと黙っていたファナがやっと口を開いた。


(ねえ、さっきの質問だけど)


 鏡の中の青い瞳は、強い決意に満ちている。鏡の中で唇が動く。


「人生は選択次第、と言うなら、私はきっとヒロインの子をいじめないわ」


 風が大きく吹き込み、カーテンが大きく翻る。髪が顔にかかっても、ファナは払い除けない。青い瞳は目を逸らすことなく、鏡の中からこちらを見つめてくる。


「……分かった。なら、そうしようか、相棒」


 ファナとは、運命共同体だ。ファナが決めたことなら、何があっても後悔はないだろう。

 そして、ファナがヒロインをいじめないと選択するのなら、物語の結末は変わるかもしれない。少なくとも、ヒロインとの関係は変わるだろう。

 カミサマは人生は選択次第というが、乙女ゲームだって選択肢次第なのだ。

 それに、一番幸福度が高いのは、実際に幸福な環境にいる人間よりも、自己決定度の高い人間なのだとも聞いたことがある。人間は自分が選択した答えなら、少しの不幸にはよく耐えるらしい。選択した答えが耐えられないほど悪かったら、次は逃げる選択と次の場所を選ぶ選択をすればいい。

 ただ、反面、人間は他人から押し付けられた選択には不満を持ちやすいらしい。前世としてこの世界でのあれやこれやを既にファナに押し付けている。ファナの選択は歓迎しなくてはならない。

 完璧なハッピーエンドになるかは、分からない。

 何故なら、ファナは乙女ゲームの主人公ではなく、狂言回しの悪役令嬢なのだから。


(でも、私は貴方が設定した中では貴方のお気に入りのキャラクターだったんでしょう? それに、一番物語動かしやすいキャラだったって。なら、しっかりサポートしてちょうだい)

(貴方には私というキャラクターを作った製造責任があるんだから)

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