第7話 事故物件

「ちょっと待っておいてくれ。今、お茶を出すから」


「すみません……」


 大石さんは台所へと向かった。

 こんな時間に来訪したにも関わらず、顔色一つも変えずにお茶を出してくれるなんて──いい人だ。

 それに比べて──俺は御子の方に視線を移す。


「……御子」


 小声で俺は彼女の名を呼ぶ。


「大石さんには俺も何度か世話になっているんだ。失礼な態度は止めてくれ」


「失礼な態度って?」


「……とにかく、敬語だ。敬語を使え」


 何も分かっていない御子に呆れながら、俺は態度を改めるように彼女を咎める。

 まったく、この調子でどうやって大学生活が送れているんだ。

 そういえば、御子が他のやつと一緒にいるところを一度も大学内で見たことがないぞ。



「待たせて悪かったね。で、自殺の件ってなんのことだい」


 湯飲みとお茶菓子を運んできた大石さんは腰を降ろす。

 俺は運ばれてきたお茶を一口飲んだ。


「……このような時間に押し掛けて、大変申し訳ありません。非常識でした」


 突然、御子は頭を下げて、大石さんに謝罪した。

 その様子に、俺は目を見開いて驚愕する。


「ですが、こちらも少し事情があるんです。このアパートで数年前に起きた自殺事件について、知っていることを教えて頂けないでしょうか」


 先程の狂犬ぶりはどこに行ったのか、よく躾された飼い犬のように、御子は誠実な態度を取る。

 ──最初からそういう感じなら、俺も助かるんだが。


「事情って?」


「えぇ、実はここにいる蓮くんは……最近、怪奇現象に苦しんでいるんです。変な物音や、赤ん坊の声が聴こえたり……学業にも影響を及ぼす程で、私もとても心配で……それで、過去にこのアパートで自殺をした人がいると聞いたので、もしかして何か関係があるのかと思い、今日は伺わせて貰いました」


 御子の説明に、俺は再び驚いた。100点満点の解答だ。

 必要な情報だけを的確に、丁寧に抜き出している。


「……それは、本当なのかい? 白川君」


「え、えぇ……本当です」


 話を聞いた大石さんは神妙な顔をして、一分程沈黙していた。

 そして──老眼鏡を取り、テーブルの上に置いた後、大きな溜息を付く。


「……あれは四年前だ。白川君がここに来る一年前だね。自殺をしたのは犬飼さんという人でね。下の名前は確か……あぁ、そうだ。サトシ、犬飼聡さんだ」


 大石さんは俺達に、このアパートで起こった自殺の件について話し始めた。


「年齢は35歳ぐらいだったかなぁ……就職はしてなかったみたいで、夜勤のアルバイトをしていたと思うよ。確か。このアパートにはもう10年ぐらい住んでて、あまり、人とは関わらない性格だったねぇ。知り合いと一緒にいたところは見たことがなかったし、挨拶もしない不愛想な人だった」


 スラスラと、犬飼聡という人物の情報を出す大石さんに、俺は少したじろいでしまった。

 アパートの大家というのはここまで住居人の情報を知っているものなのか。

 もしかして、俺も陰では何か良からぬ印象を持たれているのか──そう思うと、アパートという共同住宅が怖くなってしまった。


「……でも、自殺をするような人には見えなかったね。あの日は確か、10月だったかな。突然、犬飼さんが私の部屋に来たんだ。それで、変なことを言ってたのを今でもよく覚えてる」


「変なこと……ですか?」


 ゴクンと、俺は喉を鳴らす。

 やはり──このアパートで起きた自殺事件はあの影と何か関係があるのだろうか。



「彼はこう言っていたよ──赤ん坊の声が聴こえるって」



 その瞬間、全身が凍るような感触がした。

 鳥肌が立ち、心臓の鼓動は跳ね上がる。

 まさか──そんな──前提が間違っていたのか。

 あの影は犬飼聡、自殺者の呪いじゃない。逆だ。


 犬飼聡も──あの霊に殺された。


 俺は忽ち御子の顔を確認する。

 彼女は顔色を一つも変えることなく、大石さんの話を聞いていた。


「……それから二週間後のことだったよ。犬飼さんが亡くなったのは。管理会社の方から連絡が来てね。彼がずっとアルバイトを無断欠勤していると勤務先から電話が来て、安否確認をしてほしいって」


「…………」


「鍵はこちらで預かっていたから、部屋を開けて確認をしてみたら……首を吊っていたよ。今でもあの時の光景と臭いは忘れられないなぁ」


 僅かにだが、大石さんの手が震えているのが見えた。

 きっと、それだけ凄惨な現場だったのだろう。そんな部屋に今、俺が住んでいると思うと──今すぐにでも、引っ越したくなってしまった。


「まさか、うちのアパートが事故物件になるとは思っていなかったからねぇ。警察も調べてくれたんだけど、自殺の線で間違いなかったそうだ。お寺の方にも、念のためにお祓いをお願いしたよ。それで白川君があの部屋に引っ越してきて、何事もないようで安心していたんだけど……“赤ん坊の声”が聴こえたって言われたら、ねぇ……どうしても、あの時のことを思い出しちゃうよ」


 点と点が線で繋がったような感覚を覚える。

 御子の言う通り、大家さんに話を聞いて正解だった。本当に。


「白川君、どうする? 引っ越すって言うなら、こちらも不動産の方に掛け合ってみるけど」


「……っ」


 正直、こんな話を聞いたら、もうあの部屋に住む気が失せる。

 しかし、引っ越したとして、根本的な解決になるかどうかと言えば──否、だろう。

 その時、ちょんちょんと、膝の辺りにこそばゆさを感じた。


 御子の方を見ると、彼女が小さく首を振っていた。

 ──分かったよ。そういうことなんだな。


「……すみません。ちょっと考えさせてください」


「そうかい。その気になったら、いつでも言っておくれ」


 大石さんの提案をやんわりと断りつつ、話を聞いた俺達は犬飼聡が命を絶った現場へと戻った。

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