第5話 寿花宮である

 赩炎きょくえんの願いを聞くことにした彩澪さいれいは、さっそく蓮貴妃れんきひへと文を出した。

 簡潔に「話したいことがある」と。

 そして、思ったよりもあっさり諾の返事があったのだ。


「ここが寿花宮じゅかきゅうですね」


 彩澪は一人、ふむと頷いた。

 寿花宮は貴妃の宮だ。彩澪の住む金暁宮と違い、堂々とした佇まいをしている。殿舎に塗られた丹は剥げていないし、破風の金飾も輝いていた。手入れが行き届いているのだ。人手も予算もあるのだろう。

 磨き上げられた石の階。彩澪がそこへ足をかけると、すぐに女性が声をかけてきた。


「寿花宮になにか御用ですか?」

「あなたは寿花宮に勤める女官ですね」


 彩澪は声をかけてきた女性が寿花宮に勤める女官であるとすぐにわかった。なぜならば桃色の襦裙をまとっていたからだ。

 後宮に住む女性はすべて皇帝の妃である。位が高い者は宮を与えられ、そこで暮らしているが、位の低い者はそうはいかず、それぞれが高位の妃の女官として働いている。

 碧煌国後宮では働き場所によって襦裙の色が違っていた。桃色の襦裙は蓮貴妃に寿花宮で働くことを許された者のみが着用を許されているものだ。

 貴妃の女官となれば、衣食住の保証、充実はもちろんのこと、給金もある。給金を実家に送る女官もいれば、時折やってくる商人から品物を買う女官もおり、この女性もいい暮らしをしているだろう。


「今日、伺うと約束していた金暁宮の道士です」

「あなたがあの……」


 彩澪が名乗ると、女官は値踏みするように、彩澪の全身を見た。そして、女官の顔が曇る。

 どう考えても、宮持ちとは思えない質素な服装や飾り玉。女官のほうが値が張るものを身に着けている状況だ。

 女官は金暁宮の噂を知っていた。幽霊が出るみすぼらしい宮の道士。


「話は聞いています。……しかし」


 貴妃から、金暁宮から同士が訪ねてくると話は聞いていた。だが、本当に通してもいいものか逡巡する。が、その瞬間、目の端になにか巨大なものがちらっと映った。


「ヒッ」


 思わず悲鳴が漏れる。

 遠くの木、その幹の向こうにいる、あれはいったい……?

 彩澪は女官の視線を追うように、振り返り――そして、ふぅと息を吐いた。


黄黄ファンファン、はみ出てるはみ出てる」

「ムッ」


 木の裏に隠れているつもりの黄黄に聞こえるように、大きめに声を出す。

 黄黄は彩澪の声が聞こえたようで、幹の陰になるように、ススッと体を動かす。……が、まったく隠れていない。幹に対して体が大きすぎるのだ。たるんだ腹がたぷんと揺れた。


「あ、あれはいったいなんなのです!?」

「なにか、ですか」


 そう聞かれ、彩澪ははたと考え込んだ。あれはいったいなにか? その答えは決まっている。この国を守る神獣・麗戌リーシェである。

 が、それをここで言ったところで、女官に信じてもらうことは無理だろう。

 そもそも黄黄がついてきたのが間違いだったのだ。金暁宮で待っていろと言ったのに、「我も行く」と言って聞かなかった。

 彩澪はふぅと息をついて。


「犬……ですかね」


 嘘ではないが本当でもないことを伝えた。

 その言葉に女官の顔は「はぁ?」と歪む。


「あんな犬がいるわけありません」

「それはそうなんです。が、なんにしろ、あれは私の願いを聞いてくれます。ここで問答をしていると、あの犬がこちらへ来るかもしれませんよ」

「っ!」


 彩澪のこの言葉は女官に響いた。

 いかに彩澪を寿花宮へと入れないようにしようかと考えていた気持ちはすっかりなくなったのだ。

 あんな巨大なわけのわからないものに近づかれては困る。やはり金暁宮の道士というのは不気味で、近寄るべき人間ではなかった。


「っこちらです」


 女官はそう言うと、彩澪と一定距離を保てるように苦心しながら、寿花宮の中へと案内を始めた。

 まずは回廊。その向こうには手入れの行き届いた中庭が見える。中庭はどの方向から見ても美しくなるよう、趣向を凝らしているようだった。

 彩澪は物珍しく、あたりを見回す。すると、回廊の壁に飾られている書が目に入った。書自体の筆遣いはさることながら、それよりも目立つのは表装である。金襴と緞子どんすが使われ、大変美しい。

 彩澪は足を止め、女官へと尋ねた。


「これは?」

「そちらは蓮貴妃が入宮した際に送られた文でございます。蓮貴妃はそれを大切にされており――」


 どうやらこの書は芸術的なものというよりは私的に大切にしているもののようだ。蓮貴妃に宛てられた私書であり、蓮貴妃が個人的に大切にしているらしい。

 女官はつらつらと歌うように語る。

 が、彩澪はその謂れについては興味はない。女官の話もそこそこに、豪奢な装丁をされた書の手を触れ、顔を近づけた。

 そして、スンッと一嗅ぎ。この香りは――


「お、お手を触れることはまかりなりません!!」


 そんな彩澪に驚いたのは女官である。

 まさか、見るからに大切にされている品に素手で触るものがいるなど……! しかも匂いまで嗅いでいた。

 本来ならば、叩き飛ばしたいところであるが、不気味な道士に近づくことは怖い。

 女官が必死で大声を出せば、彩澪は書から離れた。


「ほかのものには決してお手をふれませんように!!」

「はい、わかりました」


 女官の激昂ぶりに対し、彩澪はどこ吹く風。怒鳴られたというのに答えた様子はまったくない。

 それからもあたりを見回しながら歩みを進めていたが、女官が警戒するように何度も何度も振り返るので、やがて面倒になった。

 どこも見ないようにしながら、後ろについていく。そして、ようやく目的の部屋へとついたらしい。


「蓮貴妃様。金暁宮の道士がお越しです」

「ええ。時間通りね。通して」


 鈴を転がすような声とは、まさにこのような声を言うのだろうと彩澪は思った。

 女官が部屋の扉を開き、彩澪は中へ入る。

 そこには桃色の襦裙をまとった女性が数名。そして、一段高い場所にある椅子に白色の豪奢な襦裙をまとった女性が座っていた。


「よくいらっしゃいました。金暁宮のかわいらしい道士様」

「あなたが蓮貴妃ですね」

「ええ」


 彩澪の問いかけに、白色の襦裙をまとった女性が優雅に手を広げた。

 そして、そっと口許へとその手を寄せる。

 整った指先は視線を集め、そこから弧を描く美しい唇へと目が向かった。 


「まずはご一緒にお茶でもいかが?」


 蓮貴妃は目が覚めるような美女であった。

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