第9話

09 ベイカー街へ


 ロックはホワイトチャペルまで地下鉄で戻るつもりだったが、気付くとワットの車の助手席に座っていた。

 ワットの青い瞳で見つめられると、心まで見透かされるような気がするので、腕組みをして流れる景色を眺めている。


「これほどお願いしているのに、わたくしを助手にしていただけないのですか?」


 窓に映るワットの困り顔が少しだけ愉快だったが、ロックは気を引き締めてかかる。

 この男なら、交渉のためなら困っているフリくらい平気でやると思ったからだ。


「ああ。テメェを助手にする意味もねぇし、義理もねぇからな」


「意味もありますし、義理もあります。あなたのお父上の最後の願いなのですよ?

 それを叶えてさしあげようとは思わないのですか?」


「思わねぇな。そのオヤジの遺言とやらも、どこまで本当なのわかったもんじゃねぇしな」


「遺言の真性を確かめるのは簡単ですよ。

 わたくしがロックのようなストリート暮らしの少年に、ウソをつく意味も義理もありませんから」


 言われてみればたしかにそうだが、ロックは納得するわけにはいかなかった。

 なにせ認めてしまったら最後、このへんな男につきまとわれるのは火を見るより明らかだったから。


「ホントでもウソでも、これ以上テメェと一緒にいるつもりはねぇよ。

 ホワイトチャペルに着いたら永遠のサヨナラだ。テメェの居場所は夢の中にもねぇよ」


 ロックは会話に全神経を集中させていたので気付いていなかった。

 車が、セントジョンズウッドから東のホワイトチャペルではなく、遠回りをして南のロンドンへと向かっていることを。


 そんなことはおくびにも出さず、ワットは提案する。


「困りましたねぇ。では、こういうのはいかがでしょうか?

 ひとつの事件だけ、わたくしを助手にしてくださるというのは」


「なんだと?」


「わたくしは遺言を受け取った以上、それを果たす義務があります。

 しかしこれまでのあなたの行動を拝見するに、探偵にまったく向いていないというのがわかりました。

 ひとつの事件でも捜査すれば、それはますます明らかになるでしょう。

 草葉の陰にいるあなたのお父上にもそれを見せてさしあげれば、遺言はクリアしたと言ってもよいでしょう。

 あなたのお父上は、適正のない息子を無理やり探偵にするような方ではありませんでしたから」


「テメェはいちいち持って回った言い方をするうえに、引っかかる言い方をするんだな」


「表現の良し悪しはさておいて、よい考えだと思いませんか?

 わたくしは遺言を果たせてスッキリするし、あなたはわたくしから解放されてスッキリする。

 これぞウィン・ウィンの関係というわけです。

 もしイエスと言っていただけなければ、わたくしはますます困ってしまいます。

 なにせ、ホワイトチャペルにアパートメントを借りる必要がでてきてしまいますからね」


 それは暗に「イエスと言うまでずっとつきまとう」というニュアンスがありありと込められていた。


 ロックはいままで、娼婦につきまとう男を数え切れないくらいぶちのめしてきたが、自分がつきまとわれるのは初めてのことだった。

 もちろん同じようにぶちのめしてやればいいのだが、ボコボコにした程度ではこの男はあきらめないような気がする。


 なぜかはわからないが、ロックの本能がそう警鐘を鳴らしていたのだ。

 ロックは心の中で唸っていたが、やがてその声が口から漏れ出すくらいに悩んだあと、


「しょ……しょうがねぇなぁ。ひとつの事件だけだぞ。それが終わったら、永遠のサヨナラだ」


 ホッ、とわざとらしいほどの安堵が、運転席から漏れる。


「よかった、ちょうど着きましたよ」


 気付くと車はレンガづくりの一軒家が建ち並ぶ、見知らぬ住宅街を走っていた。

 ロックが「なんだここ?」とあたりを見回している間に、車は広い庭のある一軒の家へと滑り込んでいく。


「なにって、ベイカー街の探偵事務所ですよ。ひとつの事件が終わるまでは、ここで暮らしてもらいます」


「なっ……なにぃっ!? 住むところまで指定するなんて聞いてねぇぞ!?

 それに、なんでベイカー街なんだよ!?」


「あなたのご先祖様たちはみな、この街で探偵稼業をしていました。

 しかも、この家を事務所にして。

 この家はもちろんセマァリンで建て直されたものですが、ここならご先祖様たちにしっかりと見てもらえると思いましてね。

 さぁ、降りてください。ここから先の話は、夕食をとりながらにしましょう」


 ロックが腑に落ちぬまま車を降りると、家の扉が勢いよく開いて、ひとりの少女が飛び出してきた。

 少女は栗色のポニーテールとエプロンドレスをなびかせる勢いで走ってきて、ワットの前でずざざっと停止する。


「おかえり、ワットさん! 遅いよぉ、晩ごはんもう冷めちゃったよ!

 あっ、こっちにいるのが話してたロック君だね!」


 ロックの前にやってきた少女は、反復横跳びするみたいにして興味深げに覗き込んでくる。


「こんにちは! じゃなかったこんばんは、ロック君! あたしハニー、よろしくね!

 ロック君って16歳なんでしょ? あたしはもうすぐ17歳だから、あたしのほうがお姉さんだね!

 だからハニーさんって呼ばなきゃダメだよ!」


「なんだテメェ」


「ああっ、そんな目で見たってダメダメ! だって、あたしには婚約者がいるんだから!

 そうだ! やっぱりハニーさんじゃなくて、ハニー夫人って呼んで、ねっ!

 夫人だなんてそんな、キャーッ!?」


 ポッと染まった頬を押え、イヤイヤと顔を振るハニー。

 お腹がグゥと鳴り、その顔がさらに赤く染まる。


「あ、ロック君、お腹ペコペコみたいだね! さぁ、早く入って入って! 晩ごはんできてるから!」


「だから何なんだよテメェ!? って、引っ張るんじゃねぇよ! おれは女は嫌いなんだ!」


 ハニーに手を引かれ、保健所に捕まった野良犬のように抵抗するロック。

 ワットはその隣を歩きながら、ノンキに声をかけた。


「ハニーさんは、わたくしどもがお世話になる下宿の大家さんです。失礼のないようにしてくださいね」


「くそっ、もうどうにでもしやがれ!」


 ハニーは元気に、ロックはやぶれかぶれに、ワットはいつもと変わらぬ微笑みで、明かりのついた家の中へと入っていった。

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