第五話 知り尽くしたい人のこと
そして先生の邪魔にならないように音を潜めて数刻。
あとは先生の入浴を待って、私も続くだけ。
「はぁぁ……今日も無事一日終わりました。お疲れ様でした、私」
私は自分を
辺りは闇に包まれ、気づかぬ内にすっかり夜の
「もうこんな時間……」
こんな時間ではあるが、先生とは朝以降会っていない。先生は書斎から一歩も外に出ていないから、当然と言えば当然なのだが。
私との会話が
——いえいえ、それならひたすら無視するはずです。
私に会いたくないから?
——いえいえ、それなら家から追い出すはずです。
私の顔なんて見たくないから?
——いえいえ、それなら朝に「起こして」と頼まないはずです。
だったら、先生はどうして私を追い払うの?
——それは、きっと仕事に集中しているからです。
私は……都合の良い女?
——そんなことありませんよ。
「違います、全部違います。先生は普段から書斎に
己の無意味な質疑に、私は
「駄目……一人だと、嫌なことばかり考えてしまいますね」
私は気分の浮き沈みが激しいことを自覚している。先日や今日みたく、朝や昼に気分が良くなれば、夜は決まって気分が落ち込む。逆に朝や昼に気分が悪ければ、夜は調子が良くなる。
それも、先生といると全然変わらないんですけれど。
……だから先生はすごい。私の気分を吹き飛ばすつっけんどんさ、私を夢中にさせる立ち振る舞い。
そんな先生とは、今日はもう会えない気がします。
「気分転換……といえばやっぱりあそこ、ですよね」
つい口に出してしまったが、落ち込んだ時はやはり気分転換だろう。
ならばと考えたところ、縁側以外で少し夜風に当たりたくなった。私は
気分が
——先生。
忙しくても私を見てくださる先生。
先生の気持ちは
先生の想いが気になってしまう私は、わがままでしょうか。
何かが込み上げてきたその時、風に乗って声が聞こえた。
「——る?」
聞き間違えるはずがない。
これは、先生の声だ。
見つかりたいはずなのに、私は息を
でも。
「蛍?」
——……先生には、居場所がお見通しだったみたいです。
名前を呼ばれた嬉しさを噛み締め「はい」と心の中で返事をし、私は彼を見上げた。先生は癖っ毛の髪を払い「やっぱりここにいたのか」と、
先生が用もなく私を呼ぶはずがない。私は髪の毛を耳に掛け、めいっぱいの笑顔を先生に見せた。
「すみません。何か御用でしょうか?」
だが、先生は首を
「いいや、ただお前を探していただけだ」
「そんなはずは……いえ。それはなぜ、でしょうか?」
「さぁ?理由がなければ駄目なのか?」
先生は溜め息を吐き「よっこらせ」と私の隣に
私はぎょっとして、
「先生、お召し物が汚れます!」
「いや、なに。別に構わん」
「で、ですがそれは先生が大切になさっていた
「構わんと言っているだろう」
「いえ、いえっ。な、なら私が立ちます!私が立つので、先生も立つしかないですよね!?」
「変なところで強情だな、お前は」立とうとした私の腕を引く先生。「そのままで良い」
「……あ……そんなに、おっしゃるなら……はい」
膝を曲げ、私も素直に先生の隣にしゃがんだ。
何故か多忙な先生が私の隣に座っている。先生の貴重な時間が、私の隣で流れている。
頭の追いつかない状況だが、嬉しい感情が暗い感情を上書きして込み上げてきたのが分かる。
「先生が自主的に隣に座った」。
その確かな事実が私の胸を貫く。激しい
こんなに近いと、意識しなくても息が上がる。先生に心臓の音は聞こえてないだろうか。私が緊張しているのは伝わってないだろうか。
長いようで短い、そんな沈黙を破ったのは先生だった。
「何か悩んでいるのか?」
「えっ……」
ぎくりとして、先生の顔を見る。先生の視線とお顔は私に向いていないが、今の問いは間違いなく私に対してのものだった。
正直に話すか否か、
……でも、言わないと伝わらないですよね。気にかけてもらえたことに、感謝しなければ。
私は覚悟を決めて顔を上げた。
「先生は私のことがお嫌いなのですか」
違う、『今』言いたいことはこれじゃない。
「あっ、いえ……間違えました」
すぐに訂正する。
失言の最中、先生の反応を
「っ……私は、わがままでしょうか」
無意識のうちに、先生を試していたらしい。残念がる自分を自覚して、私は本題に入ってから唇を噛んだ。
と、同時に先生と目が合う。
先生の
——先生の瞳が私を映している。先生が、私を見てくださっている。
ここで目を逸らしては駄目だと自身に言い聞かせ、私は続けた。
「私は
私から目を離さない先生の言葉を待つ。どことなく空虚な瞳は、私を捉えて離さない。続きを話せ、と
私は「えっと」と詰まりながら
「有り
「そんなの分かる人間がいるか。そもそも私だって、お前の気持ちが分からないんだぞ」
今まで口を開かなかった先生が、私の弱音を強い口調で
「むしろ分かってたまるか。どうして本心を知る必要がある?嘘や建前だって、必要な時もある。お前が心配するように、言葉選びを間違えてしまうこともある。私は本心なんて泥臭くて汚いもの、少しも知りたくないぞ」
溜め息を含みながら、先生は
私は呆気に取られて、先生を無言で見つめるしかできなかった。先生がそこまで考えているなんて、思ってもなかった。
「……なんだその顔は」
先生は気まずそうに頭を
「だからこうやって会話するんだろう?人間、向き合って話さないと分からないことだらけなんだ。それにお前なら……その忙しない表情があるじゃないか。それが、お前の一番分かりやすい心の出し方だろうに」
一段と深い溜め息を吐いた先生は、さりげなくとどめの一言を放った。
「それと何を悩んでるか知らんが、別に私はお前のことは嫌いじゃないよ」
——私が一番求めていた答えを、
「えっ……」
瞬間、私の胸に感動の波が押し寄せてきた。
「嫌いでないなら好きでもない」といつもの私なら後ろ向きに考えていただろう。しかし、先生らしからぬ穏やかな答えは、私の単純な頭に前向きな思考——先生は、物事を遠回しに言うことが多い。嫌いでないなら、好きと言うこともあり得るのでは——を生み出した。
先生と目が合わせられなくて、私は自分の顔を隠した。嬉しいけれど、顔が熱い。どうしてか、徐々に身体も熱を帯びてくる。
「ほら、分かりやすい」
先生の言葉が
「……ぁ、えっ、そのぉ……————でください」
「なんだって?」
「…………そんなに見ないで、ください。恥ずかしい、です」
あまのじゃくな先生の素直で
「先生は分かりにくい人です……」
「当然だろう。分かってもらおうと思っていないからな」
「でも私は、もっと知りたいです」
「…………」
「先生のことをもっと知って、喜んでもらえるように——」
「私はそんなこと頼んでいない」
「でも……」
「お前は最近そればかりだな。他に考えることがないのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「もう良い、
先生は肩を
先生が言うことは
——と、こうやって後悔しているのに、身体は熱いまま。火照った身体はなかなか冷めない。
それほどまでに先生の言葉が嬉しかったか。もしくは、理性より欲望が上回ってしまったか。
そして去り際に一言。
「——まぁ、人を敬えるお前は、私よりは偉いんじゃないか」
小声だったが、私には確かに聞こえた。
「せ、先生より偉いなんて恐れ多い!それは絶対あり得ません!」
顔を上げて勢いで否定すると、私を見下ろしていた先生は全力で顔を
「うるさい、黙れ。時間を考えろ」
返事をしながら、私は頷く。
すると、気持ちが落ち着いていることに気がついた。心の重しがすっかり消えている。安堵して、私は嘆息した。
「ありがとうございます」
「何故今礼を?」
「先生とお話して楽になりましたから。今言わないと、先生に会えないでしょう?」
「そんなこと……」何かを言いかけた先生は顔を背け、頭を振った。「お前に感化され過ぎたようだ。自分の言葉が気持ち悪くて敵わん。私はもう寝るとするよ」
「あっ、ま、待ってください」
突然早足で立ち去ろうとする先生の着物を、私は
「最後にお願いがございます」
「あん?」
先生は不快感を露わにして、私の腕を振り払った。下手に刺激すると話も聞いてもらえなさそうなので、私は払われた手を胸の前に組んだ。
「わ、私……新しいお鍋が欲しいです。今日の
やっと知れた先生の好物。
好きなもので釣ってしまうのは申し訳ないが、
無茶振りなお願いだったからか、先生は眉を寄せた。
「はぁ、鍋?流行りの洋服ではないのか?もしくは髪留めとか——」
「え?」
「は?」
先生が私の欲しいものを的確に口にし、素直に驚いてしまった。
初めはそんな私を不満げに見ていた先生だが、己の言葉に気づいたのか目を逸らし、口元を手で
その反応があまりにも可愛くて、
「先生、
と、つい語尾が上がるくらいからかいたくなった。先生はきっと自身の失言と私の態度に不快感を示すだろうが、今はもうどうでも良い。
私は意地悪ですから、ここだと思った時にはやめませんよ?
先生はふん、と平静を装って鼻を鳴らした。
「いや、まぁ……そりゃあ、そうだろうな」
でも何故か
動揺すると
「……先生」
震えているが、はっきりとした声で先生の名を呼ぶ——愛しい気持ちを抑えて、私は彼の名前を呼ぶ。
「
「そ、そうか……」
私の意図を
「考えてやらんこともない」
先生は聞き取りにくい声量で呟くと、私を置いて縁側に
結局先生のお気持ちを問い
明日からも先生に尽くそうと、私は改めて
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