第六話 こんばんは、私の恩人


 貴方とお会いしたのは、まだうすら寒い三月の黄昏時たそがれどきでした。あの日は庭の椿つばきにかむり雪が積もり、竹林からはかぐわしい香りの冷気がこんこんとなびいていました。

 家族に捨てられたあの日。途方に暮れる私を拾ってくださったのは、竹林の奥深くに住む一人の人間。

 光のない瞳を持ちながら、私を温かく招き入れてくださった。こんばんは、寒くはないかい?お茶は飲むかい?それより、心を温めた方が良いのかな?——と、およそ聞いたことのない穏やかな声色で。

 嗚呼、優しいこういう人がかみさまなんだなって、まだ心の幼い私は思いました。

 こんなに優しい声は聞いたことがなかったから、私は貴方の胸の中で静かに泣いた。声を殺して泣く私に、貴方はひと匙の愛情と何ものにも変えがたい名前おくりものをくれた。

 それから貴方はずっと私にとってかけがえのない人です。言葉にはしないけれど、態度にも出さないけれど、ずっとずっと、感謝しています。




*****




 朝、起床前に私は誰かの声を聞いた。

 高いような低いような、聞いたことがあるようなないような、曖昧な声を。もしかしたら他人の声かもしれないし、もしかしたら自分の声かもしれない。


 その声はいつまでも耳にこびりつき、洗濯物を干す時間まで考え込んでしまった。

 ……でも不快ではない。

 声の内容は懐かしくて、私は手拭いを干しながらぼんやりと昔を思い出していた。



 ——私は地方有数の農家の一人娘。

 厳しい両親に育てられた。今の時代農業ではなく学業を疎かにしないようにと、専門学校にまで通った。勉学は優秀な成績を修めていたし、料理は人並みにできた。気の合う友達はいなかったが、私をしたう同級生はいた。

 学校卒業後は祖父母の死がきっかけで家を追い出され、私は夢も当てもなく街を歩いた。勉学に励んだことが幸いし、しばらくは狡賢く生きることができた。

 ……しかし所持金が底を尽いてからは、何もできなかったのだった。


 だから私は山を目指した。

 どうして山を目指したかは覚えてないが、多分、山の中にある村に用事があったんだと思う。村に用事があった理由も、今では思い出せないが——結果的には村に着けず、竹林を彷徨さまようことになった。

 その竹林の中にあった「ばけもの屋敷」で、偶然にも私は先生に出逢った。


 これが私が先生に救われるまでの記憶。


「思い出すと……うん、絶対に私の声です」


 朝の声は自分だと言い聞かせるが、何かがおかしい——気がする。思い出の中の何かが違う気がする。何かが違うことは分かるが、それが何かが分からない。


「……あぁ」


 はたと洗濯物を干す手が止まっていることに気がついた。


「一人で悩んでも仕方がない、ですよね」


 家事が手につかないなんて、自分が思っている以上に参っているらしい。

 一人で分からないから、聡明そうめいな先生に相談しよう。昨夜みたいに、饒舌じょうぜつに語ってくださるかもしれない。


 洗濯物を干し終え、私は空のたらいを運ぼうとした。

 その時、玄関から微かに物音がした。

 たらいをその場に置いて聞き耳を立てると、改めて引き戸を引く音と「すみませーん」と間延びした男性の声が聞こえた。

 どうやら誰か来たらしい。

 執筆中の先生は玄関の音に大変敏感だ。先生が気をがないように、私が早く出なければ。


「はーい、今行きますね……っと」


 待てよ、と私は自身の服を見下ろして一瞬動きを止める。人前に出るには着物に割烹着かっぽうぎいささか不釣り合いな格好である。

 ……でも、こうしてる間にも先生が怒鳴り声をあげて追い返すかもしれないから、あまり迷ってもいられない——と、思うや否や玄関から冷たい声が聞こえた。


「誰の許可を得て敷地に入った?」


 ぴたりと私は足を止める。


 うう、間に合いませんでしたか。


 庭からひょっこり顔を出すと、険しい表情で来客を見下ろす先生が視界に入った。来客は先生より背が遥かに低くて、複数人の——。


「子供……?」


 私は目を疑い、こすってみるが景色に変わりはない。

 来客はまさかの子供だった。

 何故?どうして?と疑問が私の頭をぐるぐると回る。そもそもこの屋敷は村の完全な管轄外かんかつがいで、こちらから招かないと人は滅多に来ないはずだ。それなのに、一気に五人も子供が来るなんてどうしたものか。

 しかし、先生は動揺することなく、いつもの険しい表情で子供に詰め寄る。


「ここはお前達が来るようなところじゃない。とっとと帰れ」


 鋭利えいりな視線を瞬きせずに送りながら、先生は冷ややかに突き放す。

 子供達は顔を見合わせて、


「ばっ、ばけものだ!!」


「ばけもの屋敷の幽霊だ!」


たたられるっ」


 と、口々に怖がって一目散に立ち去った。

 そして先生は一人玄関に放置された。


「ん?」


 私は素の声を漏らしてから、子供達が叫んだ言葉を繰り返してみる。


 ——ばけもの屋敷の幽霊、と。


 「ばけもの屋敷」はこの屋敷の蔑称べっしょうだ。すたれた竹林にたたずむ、所有者の分からない古びた建物。村から見放された山の一軒家。たしかに先生の存在を知らなければ、近寄るような屋敷ではない。

 何故あえて「ばけもの」と呼ぶかは知らないが、大方カンテラが火の魂に見えたり、洗濯物を幽霊の服と見間違えたりしたのだろう。もしくは単純に、子供を近寄らせない為かもしれない。


 しかし、先生が住んでいるのになんたる言い草だろうか。

 徐々に怒りが込み上げてくる。あの子供達に一言「ばけものなんて住んでない」と伝えてあげたい。いや、それよりも先生の居住地を「ばけもの屋敷」と呼ぶ村人に物申したい。


「人が住んでいるのに、ばけもの屋敷とはいかがなものでしょうかっ」


 まるで先生の居場所を奪うみたいで……許せません。先生は私と一緒にここに住んでいて穏やかな毎日を送っているのに、です。


 拾われた私でさえこんなに嫌な気持ちになるなら、先生はもっと不快になるのではないか。先生は何を言っても表情を変えないだろうが、胸中が気になってしまう。今、玄関で溜め息を吐いている感情も気になる。


「相変わらず筆の進みが遅いようですね、隠世かくりよ先生」


 不意に私の数少ない聴き慣れた声が聞こえ、反射的に木の影に隠れた。沈んだ気分では絶対会いたくない、不愉快な人物がこんな時にやってきた。

 子供といい彼といい、普段は閑散かんさんとした屋敷に何故同じ時間に訪れるのだろう。示し合わした、と言われたら信じてしまうくらいだ。


「……絹川きぬがわ


 先生は心底鬱陶しそうに、小柄な男性の名を呼んだ。私は罪悪感を持ちながらも、こっそりと覗く。

 絹川さんは、先生の小説を受け取りに来る人。いつもキャスケットを目深に被っていて、季節を問わず分厚いとんびを羽織っている。私の出会った人の中では、一番ハイカラな服装の人だ。

 でも彼がどんな職業か、どんな人柄かまでは知らない。ただ先生にとってまわしい対象であるのは間違いない。

 だから私は彼のことが苦手きらい——と、思うようにしている。


「見ての通り忙しいんだ。今日は出してやる茶菓子もない。帰ってくれ」


「僕には忙しそうに見えないですね。子供と駄弁だべっている大人としか思いませんでしたよ」


 先生と絹川さんの会話は心臓に悪い。だから二人は会わせたくなかったなと、私は過去の自分を悔いる。

 ——悔いても、二人の会話は止まりませんけど。


「ふん。何しに来た、まだ期限じゃないだろう」


「いえ、たまには先生のお顔を見にこようかなと」絹川さんは手を組みながらわざとらしく口角を上げた。「そんなことより先生、いつもより顔色が良いですね?充分な睡眠と食事でもれたんですか?」


「……お前にとって期限はそんなこと、なんだな」


「言葉の綾ですよ」


 舌打ちをする先生。

 だが、絹川さんは気にせず続ける。


「先生方の体調管理もぼくの仕事ですので、隠世かくりよ先生が快調ならそれだけで嬉しいです」


「私の体調ことは私が一番わかっている。他人に管理云々を言われるものではない。……もっとも、お前が私の体調を心から心配しているとは思ってないがな」


「そんな冷たいことおっしゃらないでくださいよ」言いながら、絹川さんは目を細めた。「ぼくみたいに冗談が上手く言える人間は少ないんですよ?隠世かくりよ先生だって僕がどんな人柄か分かってるはずですけれど」


「微塵も分からん。知らん。分かりたくもない」


 先生は相変わらず容赦ない。

 今みたいに無関心なんて言われたら、私はきっと立ち直れないだろう。まだそこまで直接的な拒絶をされていない現実が、少しだけ嬉しくなる。

 ……絹川さんはどうだろう。やっぱり、厳しい言葉は辛いのだろうか。


「そろそろぼくにも興味を持ってくださいよ、ぼくと先生の仲じゃないですか。雑誌だって、ぼくの口利きがなければ参加できなかったんですよ?」


「まぁ、その点だけは感謝しよう」


「それ以外の感謝も待ってますね」


 こんな刺々とげとげしい会話でも、お二方の表情は変わらない。冷え切った先生の無表情と貼りついた絹川さんの笑顔は、客観的に見れば気味が悪いと思う。でも私は「よく表情を変えずに毒を吐けるな」と素直に尊敬してしまっている。


「あなたは本当にあまのじゃくですねぇ」


「じゃあな」


「あっ、ちょちょっ、先生!いきなり閉めないでください!えーっと……あー、もう他は良いから、最後に一つだけ言わせてください」


 突然扉を閉められて、絹川さんは扉を掴んだ。がちゃん、と引き戸がうなった。

 先生は眉を寄せるが、絹川さんは気にしない。私が耳をすませば聞こえる程度の小声で、絹川さんが囁いた。


「……実は先生の『枝垂しだれ桜』が話題になってますよ。やはり貴方に不幸ものを書かせると右に出るものはいないですね。実は今日は先生の小説が珍しく評判だったので、伝えておこうかなという、ぼくのちょっとした良心からの訪問で——」


「それははなはだ迷惑だな」


 ぴしゃり、と玄関の戸が閉まる音。

 先生は誰に対しても思い切りが良い。それは長所でも短所でもあるだろう。思い切りの良さには私でさえ思うところがあるのだから。

 追い払われた絹川さんは数秒玄関前に留まっていたが、大人しく踵を返した。


「おや」


「あっ」


 離れる機会を逃した私は、案の定絹川さんと目が合った。

 さりげなく身を引くが、先生にも動じない彼には通用しない。絹川さんは「これはどうも蛍さん」と流れるように挨拶をした。


「ぁ……こほん、はい。こんにちは」


「貴方も大変ですね、あんな頑固で卑屈な小説家の世話人なんて」


 早々飛び出た先生への侮辱ぶじょくに目を丸める。でも私は冷静なので、強気に言い返したりはしない。


「いいえ、苦ではありません。むしろ私なんかが先生のお役に立てているなら、喜ばしい限りです」


「そうですか」


「はい、そうなんです」


「よほど先生のことを尊敬なさってるんですね」


「それはもう!先生ほど私が敬う存在はありません!先生は私が落ち込んだ時になぐさめてくださいますし、思い上がった時にはいさめてくださいます。時には冷たい時もありますが、先生のお言葉からは優しさが滲み出ているんですよ。結局突き放されるんですが、そのつっけんどんさが逆に私の心をき乱すと言いますか……」


 絹川さんの微笑を見て、私は我に返った。


「良いじゃないですか。もっと教えてください」


「い……い、いえ。申し訳ございません、黙ります」


 私ったら顔見知り程度の相手に何を語っているのだろう。

 顔から火が出そうなほど恥ずかしい。穴があったら入りたい。いや、いっそ穴の中に放り込んでいただきたい。


「蛍さんは物好きですね」


「そ……そんなことない、と思います」


 言葉に詰まったのは、自分が物好きだと自覚しているのは言うまでも無い。彼も分かって言ったようで、当然のように頷いていた。


「じゃあ、物好きな蛍さんに質問を二つほど」


「質問?」私は耳を疑った。「先生についてなら答えませんよ。気になるのでしたら、直接伺われてはいかがですか」


「いえ、ぼくは貴方に質問があるんです」


「……私、ですか?」


「はい、蛍さん。貴方にです」


「わ、たしに」


 急に絹川さんを直視できなくなって、私は下を向く。

 まさか私に質問だなんて。

 他人から興味を持たれたことがないから、どう返せば良いのかが分からない。それも、先生が(おそらく)敵視している人からの質問だ。一つ間違えれば、今後顔を合わせるたびに気まずくなってしまう。


「——」


 いえ、冷静に考えて何故先生以外に緊張しているのか。そもそもおかしいですよ、私。

 急に冷めて「どうぞ」と私は顔を上げた。


「ただあまり持ち場を離れると良くないので、手短にお願いできますか?」


「もちろん」絹川さんは帽子のつばをくいっと持ち上げた。「では一つ目。蛍さんはどうしてここで働いてるんですか?」


「どうして……とはどういう意味でしょうか」


「言葉通りです。働き口なんて、正直いくらでもあるでしょう?なのに、どうしてこんな山奥で働いてるんですか」


 そんなこと、考えたことがなかった。

 拾われたお礼として家事をこなすのが当然だと思っていた。むしろ「どうして」と聞かれたら、恩返しとしか答えようがない。


「せめてもの恩返しです。私はもう帰る場所がありませんから、先生に出て行けと告げられない限りは先生に尽くします」


「そうですか。では二つ目」


 絹川さんは興味なさそうに次の質問に移った。切り替えの早さに呆気に取られつつも、私は聞き逃さないよう注意する。


「蛍さんの出身はどこですか」

 

「出身?ええと、この近辺だと思います。詳しい地名まではなんとも……」


「ほほう」


 絹川さんが帽子のつばを下げる。

 会話をする時は人の目を見て話すようだ。ずっと不快な印象しかもっていなかったが、少し見直した。


「なるほど、満足しました。貴重なお時間をいてくださりありがとうございます。先生のお手伝いさんでも、無駄話する自由はあるんですね。安心しました」


 ——前言撤回です。

 ぴし、と空気が凍った。彼は変わらず笑顔を浮かべているが、心に土足で踏み込まれたような不快感で、私は作り笑いさえできなかった。

 私はきっ、と絹川さんを睨む。


「……き、絹川さんこそ、こんなひなびたお屋敷までご足労いただき、あ、ありがとうございます。それと先生は……そ、束縛なさいませんので、考えを改めてくださると幸いです」


「は……」絹川さんは数回瞬きをしてから言った。「ええ、精進しょうじんします」


 慣れない悪口は言わない方が良い。今学んだ。絹川さんの「精進します」が慰めにしか聞こえない。私は誤魔化そうと、結んだ髪をいじる。

 絹川さんは大仰おおぎょうに肩を竦めた。やれやれ、といった具合に。


「すみません、つい失礼なことを言ってしまって……」


 私は本能的に謝罪した。絹川さんは「お気になさらず」と興味なさそうに身体の向きを変えた。


「ではまた後日、先生の小説をいただきに参ります」


 そうして彼は丁寧にお辞儀をして屋敷を去っていった。

 絹川さんの後ろ姿が見えなくなってから、私は縁側に座り込んだ。


「はぁ」


 先生以外の人と話したのが久し振りだったからか、どっと疲れた。今日は素早く洗濯と炊事を終わらせて、比較的楽な裁縫に勤めよう。それから、気分が沈んでいるであろう先生を励ましに向かおうと思う。

 先生には申し訳ないが、今日お会いできることが私の一番の楽しみになった。


 ——もちろんこの時の私は、質問の意図を深く考えていなかった。

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