第8話 野球と悪魔の話題はご法度

10時から16時、休憩を挟んで5時間にも渡るハードなレッスンを終えた土曜の夕方。

学園に戻ってきた一馬は、バスを降りるなり翠に声をかけられた。

「ねえねえ明日時間あったりする!?」

切羽詰まったような声の調子と表情をしている翠を見て、一馬は恐る恐る「ありますけど…」と返す。五星学園に編入してからというもの、慌てた学内関係者を見るとつい身構えるようになってしまっていた。


「あのね、今手元に明日の縦浜コズミックと京阪パンサーズの試合のチケットが2枚あるんだけど、一緒に行く人がいなくって、それでその」

「…なんて?」


翠の慌てぶりからおそらく事件性のある何かだろうと考えていた一馬は、拍子抜けした様子で翠に聞き返した。

「卓先輩とか野球好きなんじゃないですか?」

「一番最初に声かけたけど、適当にはぐらかされたんだよね…」

卓以外の他の生徒にも声はかけたが、海生には塾があると、翔には美容院の予約を入れてしまったと言われ、火耶はそもそも仕事で土日も校内にいないことの方が多い、とのことだった。

「あたしを助けると思ってさあ!」

とうとう後輩にとるとは思えないくらいの低姿勢で一馬に懇願する翠。

基本的に頼まれると断れない質の一馬だが、プロスポーツをテレビ以外で観たことはないし、こういう頼みならむしろ大歓迎だった。

「明日なら何もないんで、大丈夫です。それにプロ野球生で観るの初めてだし」

「本当!?ありがとうすっごく助かる!何!?天使!?」

いや悪魔ですけどね半分…と若干の苦笑いを交えて返す一馬。こうしてスポーツ観戦デビューの日はいきなりやってきたのだった。


次の日の9時頃バス停に行くと、黒地に鮮やかな花の写真がプリントされたVネックの半袖Tシャツに膝下10cm程の薄緑のプリーツスカートといった、外出するにしてはラフな格好の翠がすでに待っていた。無論応援グッズも完備だ。形状記憶タイプの水色の七分袖ワイシャツにチノパンな自分は何か間違えてしまったのか、と一馬は不安になる。

「まあ今回で学べばいいけど、球場それなりに人いるし、その服装だとちょっと暑いかもよ?」

「もう少し気軽な感じでもよかったんですね」

「まあ盛り上がってくると立ったり座ったりがあるし、そもそも球場内の階段の上り下りとかあるしね」

これは思っていたより多くを学ぶことになるかもしれない、と思いながら、一馬は翠のあとに続いてバスに乗り込んだ。

「この間も食堂でバレーの中継にくぎ付けだったし、休み時間に陸上の結果チェックしてたし、スポーツ全般好きなんですか?」

「昔からするのも観るのも大好きだったよ。今はするのはアーチェリー一本だけど」

バスの中、一馬は翠に尋ねる。

聞けば何かスポーツをやらせたいという両親の意向と、自分もそれを嫌と思わずむしろよしとしたこととがあり、翠は幼少期から多種多様なスポーツをかじっており、意外なところでは少年サッカーのチームにも2年ほど在籍したりもしていたという。色々な種目を経て中学1年生の夏にアーチェリーに出会ってから、レラジェのお陰もありめきめきと頭角を表していった、とのことだった。

「今回野球誘ってくれましたけど、どっちかが好きな球団だったりするんですか?」

「特別好きなチームがあったり、好きな選手がいるってわけじゃなくて、試合にかける気持ちを肌で感じるのが好きって感じ。…あっでもフィギュアスケートの黒瀬恵司(くろせけいじ)は割と好きかも」

自分が演奏したことがある曲が使われるかもしれないということもあり、一馬もフィギュアスケートはよくテレビで観てはいたが、その黒瀬恵司という選手は階級はまだジュニアではあるものの昨シーズンからじわじわとシニアの大会に殴り込みをかけていて、その上顔もいいという天から二物を与えられたシンデレラボーイだった。男勝りな部分が目立つが翠もやはり女子なのだ、と一馬は思った。

「まあフィギュアってチケットすっごく高いから、流石にまだ手は出せないんだけど…」

「そんなに?」

「この野球のチケットの3倍くらいする席もあるよ」

「そんなに!?」

大事なことなので2回言ったような形になってしまったが、驚いたものは驚いたので仕方が無い。通常のスタジアムに氷をはったりなどの準備のせいもあるだろう、と翠は一馬に説明した。

やがてバスは北盤馬駅に到着し、二人は相場が「デートかー?」と茶化す声を背にバスを降りた。

北盤馬駅から盤馬駅、さらにそこから乗り換えを経てスタジアム最寄り駅に着くと、すでにたくさんの人がスタジアムに吸い込まれるように入っていくのが見えた。コンクール会場になるホールとはそもそものキャパシティが違うのだが、一馬はつい人の入りをコンクールと比較してしまい、開いた口がふさがらなくなってしまう。

「ちょっと何してるの?ひとまず席を確認しないと!」

翠の声に我に返ると、親鳥の後を一生懸命ついていくひな鳥のように一馬はそのあとを追う。彼女曰く『ホーム席』の一角に席をとっていたようで、試合の全体像がよく見えそうな場所だ。

適当に飲み物を買ったりしているうちに試合が始まったのだが、野球好きなはずの卓が翠の誘いを適当にはぐらかし断った理由を嫌というほど思い知ることになろうとは、一馬は思ってもいなかった。



「行け!行け!行け!!っしゃーーーーー!!!やったーーーーーー!!!」

「…」

二塁から一気にホームに滑り込んだ縦浜コズミックの選手を見て、翠はかなり興奮した様子で叫び、隣の一馬の肩を今の見てた!?とゆする。ホーム席はもともと球場を所有する球団のファンたちが座る場所らしいので周囲もそれなりにテンションは高いが、それでも彼女はひときわ目立つ。そしてとにかくうるさいのだ。これが自分の親きょうだいだったら他人のふりをしたくなるところだ。

次の打席に立ったのはコズミックの四番打者だ。花形の登場にホーム席は大いに盛り上がる。

「ーーーーーーーーー!!!」

周囲の声量もあるとは思うが、ボルテージが最高潮に達した翠の黄色い悲鳴はもはやなんと叫んでいるかすら分からない。今の一馬にできることは、カンフーバットなるものを応援のリズムに合わせて正確に叩くことだけだった。

黄色が基調のやや派手なユニフォームを身につけたパンサーズの投手が振りかぶってスライダーを投げると、コズミックの四番打者のバットはそれをしっかり捉えボールを前方に弾き出す。守備についたパンサーズの選手に取りこぼしがあり、その打球はめでたくヒットとなった。

しかしコズミックの四番打者が一塁にたどり着いたと同時位に、グラウンドに異変が起きた。両チームの選手は一斉に引き揚げ、またスクリーンからも徐々に得点や選手名の表示が消えていった。

『選手の皆さま、及び関係者の皆様にお知らせします。現在スタジアム内において水道管が破損し、大規模な水漏れおよび一部設備の停電が発生しております。試合再開まで今しばらくお待ちください。』

起きている事態の割には冷静さを保ったウグイス嬢の声が響く。

「こんなことあります?」

「試合がある日なんか、普段より設備確認には力入れると思うんだけど…」

一馬と翠は各々不思議そうな表情をしながら顔を見合わせる。

『繰り返します。現在スタジアム内において大規模な…えっ地下フロア水没!?1階にも水!?』

先ほどまで冷静に今おかれている状況を伝えていたウグイス嬢の声色に急に素が出始めると、1階席にいた観客たちが慌てて一馬たちのいる2階席に向かって移動を開始した。その中には選手の姿も混ざっている。グラウンドにまで水が染み出すのにそう時間はかからなかった。

『試合の途中で大変申し訳ございませんが本ゲームについては急遽中止とさせていただきます。2階フロアから避難梯子を降ろしますので、皆さまどうかおちついて避難をお願いいたします。』

「ええー…いやしょうがないけど…ええ…マジ…?てか誰こんな悪戯したの…許せないんだけど…」

ウグイス嬢のアナウンスを聞いた翠が消沈しながら、しかし怒りのこもった声で呟く。一馬もそのあとを追って避難を開始した。

1階席にいただろう観客の中には、すでに靴やズボンのすそがずぶ濡れの人もちらほらいる。寿司詰めのスタジアム内をゆっくり歩くその間にも、ドッというおそらく水道管の破裂する音と水音が聞こえてくる。

「うわっ…」

音楽一辺倒で生きてきたこともあってか、一馬の聴覚は平均より敏感だ。破裂音の度に肩をすくめながら反射的にその音の方向を向いてしまう。

「あ」

先ほどの破裂音のした方向に、一馬は黒くかつハロウィンのかぼちゃのような顔をしたスライム状の化け物の姿を見た。まごうかたなき下級の悪魔だ。その下級悪魔は避難する人間を小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、スッと物陰へ消えた。

一馬は翠の肩を叩くと、彼女の耳元で「いました」とだけ呟く。やっぱそうかと翠がつぶやくと、二人は周囲に悟られないよう一番近くのトイレに一度身を潜めた。



一般客や選手がいないか確認してから、一馬と翠はそれぞれ馬のパーツを持つバイオリニストと緑の弓手に変身する。

「あんの野郎本当にただじゃおかない…全身の傷という傷化膿させてやるから苦しんで死ね…!」

試合の中止が決まった段階でもうすでに翠は怒っていたが、変身したことで悪魔レラジェの攻撃性が解き放たれたのか、親や先生から「そんなことを言うんじゃない!」と怒られるだろう言葉が次から次へと出てくる。

「選手にとっては一試合一試合が、いや一球が、一打が、人生そのものなんだ…そのために努力して、生きてきてるんだ。それを…それを…!」

一馬なりに72柱について理解しようとしてネット百科事典で得た知識なのだが、レラジェはこれもある種の闘争であるスポーツを愛し、また人間にそのいろはを教授してくれる悪魔としても知られていたという。過去にはいい記録が出るよう、大事な試合の際にレラジェを表す紋様が描かれたお守りを持ち込む競技者もいたくらいなのだそうだ。

そんな悪魔にとって聖域――という言葉がそもそも悪魔にふさわしいかはおいておくが――のようなものであるスポーツの場を蹂躙されたとあってはカンカンに怒るのも理解できるが、ここまでとは思わないし聞いていない。

2柱はひとまず1階エリアに下りたが、すでにふくらはぎ辺りにまで迫っている水をも厭わず、レラジェはアムドゥシアスを置き去りにする勢いでスタジアム通路をどんどん進んでいく。歩きながら観客の手荷物用ロッカーやトイレの個室など、身を潜められそうな場所を片っ端から開けて下級悪魔の居所を探るが、最悪の効率の方法をとっていることもあり一向に見つからなかった。

「あのー…」

「なに?」

アムドゥシアスがレラジェに声をかけるが、話しかけるなという空気を伴ったままにらみつけられた。

「それだと効率が悪くて、しかも水でどんどん探りを入れられる範囲が狭くなります…ちょっと待っててくれます?」

えー?という不服そうな声を上げるレラジェをよそに、アムドゥシアスは静かに目を閉じ聴覚を研ぎ澄ました。音楽家であり草食動物のものでもある耳は、変身前より多くの音を正確に拾えるようになっていた。程なくして無事な水道管の中を水が流れる音に混じって、ゴボリという大きな音と呼吸音のようなものが聞こえてくる。

「こいつ水道管の中を移動してる!音がするほうに向かっていけば目的の場所がわかるかもしれない!」

「でかした!そのままあたしを先導して!」

前後を入れ替え、アムドゥシアスとレラジェは音の聞き取れる方へ向かって走っていった。


2階北エリアの男子トイレにたどり着いた2柱が見たものは、蛇口から頭だけを出して体を膨らませ、今まさに水道管を破裂させようとしていた下級悪魔の姿だった。

「全部台無しにしたのはあんたか!ふざけやがって!」

すかさず弓矢を構えたレラジェを、アムドゥシアスは全力で止める。

「いやこのまま刺激したら水道管がまた破裂するんでちょっと待ってください!出来たら耳もふさいで!」

「なんでよ!?」

「とにかく言ったとおりにしてください!」

「そこまで言うなら…その代わりささっとしてね!」

先走るレラジェを強めに諫め、耳を塞いだのを確認してから、アムドゥシアスはバイオリンを奏で始める。

『ごぼぼぼ…』という音をあげながら、下級悪魔の全身が蛇口からそれこそ水がゆっくり流れるかのようにずるりと水道管から出てきた。そのまま床の上に横たわった下級悪魔からは、起き上がる気力すら感じられない。下級悪魔が何もしてこなそうなことを確認してから、アムドゥシアスは「もういいですよ」の意味でレラジェにサムズアップを向けた。

「…さっきなに弾いたの?すごくだるそうにしてるんだけど」

「…浜栗さんの次回予告…」

「…」

核家族化の進んだ現代日本においては極めて珍しいものとなった家族形態を描いた国民的アニメ『浜栗さん』。

毎週日曜の19時から30分間、20年以上もお茶の間をにぎわせているのだが、このアニメが終わり次回予告のテーマが流れると、明日からまた仕事や学校があるということを強く意識してしまい、その結果憂鬱になる『浜栗さん症候群』という現代病が取りざたされている。この病が生まれて7、8年になるだろうか。

「まさかこんなのにも効くとは思わなかったけど、とにかくこれで水道管は大丈夫だと思います」

それを聞いたレラジェは、床で気だるげに横たわる下級悪魔にゆっくりと歩を進めた。そしてそのまま力を込めて踏みつけたかと思うと、

「…てめえこの野郎!選手も!ファンも!どんな思いで!ここに来たか!分かってやったのか!選手の!一級一打を!人生の一瞬を!ここまでに至る努力も!そもそも!スポーツを!なんだと思ってんだ!この!」

――トゲだらけの言葉を投げつけながら、ゼロ距離で矢を撃ちこみはじめた。そしてその傷は瞬く間に、縫合が必要になるレベルまで開いていく。

水道管内にいたときに体についた水分が傷にしみるのだろう、水音と獣の鳴き声が混ざった悲鳴を上げながら、下級悪魔は水揚げされたての魚のように床で大暴れしている。しかしどんどん悪化していく傷のせいか、自身を強く踏みつけているレラジェを振りほどくまでには至らなかった。

「二度と!こんな真似!できないようにしてやるからな!この!バカ野郎!苦しめ!たっぷり苦しんで死ね!」

「もう死んでる!!死んでますったら!!あー中身出てる!!あああ!!!」

中身といってももつ煮の材料ではなく黒一色の無臭のものが流れ出しているだけなのだが、それでも気分が悪いことには変わりなかった。

やがてその中身と一緒に下級悪魔が霧散すると、レラジェはそれを「ふんっ!」とだけ言って一瞥した。



「お前ら二人で観にいった試合、いきなり中止になっとったけどなんかあったんか?」

初秋の空気が気持ちのいい月曜日の朝、卓はいきなり翠の地雷を踏みぬいた。

「思い出させないで。正直まだすごくムカついてるから」

変身していないにも関わらず、翠の声と視線は氷のように冷たい。

「うっわ怖。もうハンターがモンスターやんけ」

最近人気のハンティング系アクションゲームのこと、レラジェが狩人、つまりハンターの悪魔であること、その二つを踏まえたパーフェクトなネタであると完全に信じ切っていた卓はどや顔を隠し切れずにいる。

しかし翠の反応は卓が思っていたものとは全く違った。彼女は机を両掌で強く叩いたかと思うと、立ち上がって卓の肩をつかみ思い切り叫んだ。

「人の地雷踏んだうえで取りに行く笑いなんかもう古いよ!もう一回その話題に触れたら、もう一回さっきみたいな笑えない冗談言ったら、今度はあんたをひと狩りしてやるからねこの泥棒鳩!」

「ひえっごめん!ごめんて!…あかん皆助けてくれ!ほんまに狩られるわ!!」

しかし時すでになんとやら、教室の空気はお前が悪いで満場一致だった。

哀れ狩人に狙われた鳩は、命は助けてもらえたものの土下座まではさせられたそうな。

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