第18話 100歳まで生きる準備はできていますか?

「なあ華薔薇、人生って長いんだよな。長生きする方法も見つかって、ますます長くなるよな。その長い人生は何をして過ごしたらいいんだ?」

「あら、今日はどこぞの悩み相談はないようね」

 ある日の放課後。

 雑談部の部室にて、桔梗は漠然とした将来の不安を吐露した。今回は悩み相談はお休みらしい。

「そうね、2007年生まれの日本人の平均寿命は107歳と推定されている。桔梗の時間は90年近く残っていることになるわ」

 あくまで平均なので、事故や病気で早くに亡くなる人がいる。一方で生活環境や遺伝子に恵まれて平均より大幅に長生きする可能性もある。

「90年もあるのか。この長い時間の使い方が全くわからん。途方もなさすぎて、見当はつかないし、理解も及ばない」

「喜びなさい。長生きすればするだけ、やりたいことはできるし、失敗だって取り返せる。日本は他の先進国よりおよそ3年平均寿命が長い。長生きできることを悲観するより、感謝しなさい」

 むしろ90年しかない、と華薔薇は人生の短さを儚く思う。

 2007年のデータによるとアメリカ、イタリア、フランス、カナダの平均寿命は104歳。イギリスは103歳、ドイツは102歳との試算が出ている。

 3年あれば新たなスキルを身に付けられるし、世界一周旅行だって行ける。

 また平均寿命は今後も延びると予想されている。

 1914年生まれの赤ちゃんが100歳を越える確率は1%だったが、現在生まれる子供の大半は100歳を越えるとされる。

 約100年の間に100歳を越える長寿は夢の話ではなく、ありきたりな現実に落とし込まれた。

 健康、栄養、医療、教育、テクノロジー、衛生、所得と多分野の状況改善が平均寿命の上昇に寄与している。

 この中で、感染症の媒介生物の駆除、医薬品、予防接種などの公衆衛生の改善が大きな要因として考えられている。

「そもそも桔梗は何が不安なのよ? いえ、不満なのかしら?」

「だってさ、90年もあったら暇を持て余しそうだし、おじいちゃんになって体が動かないのはきつい」

「どっちも問題なしね。人間の探求心が尽きることはないし、不健康な老人も数が減ってきている」

 人類の歴史は膨大だ。人一人が生涯をかけても全ての知識や経験を収集するのは不可能だ。それに新しいテクノロジーが尽きることはない。

 好奇心さえ忘れなければ、人生において暇を持て余すことはない。

 アメリカの1984年から2004年まで調べたデータによると、日常生活を送るのに不自由な人の割合は85歳から89歳の人なら22%から12%まで低下している。

 95歳以上の高齢者でも52%から31%まで減っている。テクノロジーの進歩と公的支援で不自由な生活を経験する人は減っている。

 桔梗が高齢者になる頃には不自由な生活とは無縁になっている可能性もある。再生医療や体の動きをアシストしてくれる機械によって、亡くなる前日まで若者に交じって活動する日は遠くない。

「だいたい、今から遠い未来のことを心配するのが無駄なのよ」

「心配なのは心配じゃん。何が悪いのさ」

「未来のことは未来に考えればいいのよ。起こるかどうかもわからない未来を心配するより、今に目を向けなさい」

 これから何が起こるかわからない人生で遠い未来のことを心配しても仕方ない。町を歩いていて自動車に轢かれるかもしれない、明日地球に隕石が降ってきて地球が滅亡するかもしれない、なんて考えていたらまともに生活を送れない。

 遠い未来の可能性よりも、今現在に起こっている現実に目を向けた方が建設的だ。

「あー、言われてみたらそうだな。将来なんて誰も予想できないなら、予想するだけ無駄だな」

 桔梗の不安の原因は漠然としたものだった。ニュースで聞いた、雑談のネタで話した、教師が言っていた、などの根拠もなければ深い意味もない不安だった。

 不安という幻想に取り憑かれていた、と言い換えていい。元から不安が小さかったので、悩む意味がないと聞けばあっさりと納得してしまう。

「不安はなくなったけど、何も未来のことを考えずに生きていくのはヤバくないか?」

「ある程度の人生設計は必要でしょうね。でもね、今まで先人が築いた設計図は役に立たなくなった。この100年で人類はとてつもないスピードで進化してきた」

 従来なら20歳前後まで教育を受け、60歳頃まで働き、残りを余生として過ごす。この3つが基本だった。

 現代では働く期間が延びているし、定年までひとつの同じ会社で働き続けることも難しい。

 仕事を引退してからの生活が長いため、生活コストはたくさんかかる。病気になれば医療費もかかる。年金だけを当てにしていては生活が破綻する。

「過去100年を振り返ると戦争は騎兵から航空機へ、電気の普及、ラジオの登場、テレビのカラー化、身近な移動手段の飛行機、地球外に出た月面着陸、世界を繋げたインターネット、自動の洗濯機、自動の掃除機などが当たり前になった」

「いやー、すんごい進歩したんだな。感謝感激雨霰」

「100年前にこのような世の中になると誰が予想した。半日で世界の裏側に行けると誰が予想した。世界の裏側の人とリアルタイムで繋がれると誰が予想した。過去の人が現在を予想できなかったように、現代の人は未来を予想できない」

 テクノロジーの進歩の速度は年々早くなっている。20年前からの10年間より、ここ10年の方が進歩しているし、これからの10年は過去の10年より大幅に進歩するとされている。

「えっ、それじゃあ、将来の設計図は全く役に立たない……」

「そんなことはない。時代が変化しようと有用なスキルはある」

 時代が変化し、AIが登場しようとも人間にしかできない仕事はある。AIが代替できないスキルは今後重宝される。

「無形資産よ」

「無形、資産? 形のない、お金ってこと?」

「資産=お金の考え方は安直すぎる、もう少し頭を使いなさい。資産と言ってもお金のことじゃない。お金や不動産などの形あるものは有形資産というのだけど、無形資産は形のない価値あるもの。言い換えれば、個人が持つお金に換算できないスキル」

 お金や不動産は定義したり測定したりするのが容易なので、価値がわかりやすい。つまり売買も成立しやすい。

 対して無形資産は形もなければ、目に見えるものでもない。個人の努力や経験に依存するので価値を計るのも難しい。

「無形資産は3つにカテゴリーできる。ひとつめは生産性資産、仕事で生産性を高めて成功し、給料に直結する知識や経験のこと。ふたつめは活力資産、肉体と精神の健康と幸福、これには若々しい肉体だけでなく友人関係や家族や恋人との親密な関係も含まれる。みっつめは変身資産、自分自身についてよく知っていること、自分の持ち物や性格をきちんと把握する自分の知識が該当する」

「生産性資産、活力資産、変身資産のみっつが必要か。それじゃあ、その無形資産とやらがあれば、有形資産はいらなくなるのか」

「そうでもないわ。無形資産と有形資産は密接に繋がっているから切っても切り離せない。お金があれば、新しい無形資産、特に生産性資産を習得するためにはお金がかかせない。料理、英会話、プログラミングなどのスクールに通うには授業料が必要。独学で学ぶにしても、教材を購入する必要がある」

 新しい知識は能動的にならないと手に入りにくい。生きていくだけで入ってくる知識は他の誰かが持っている。誰もが持っているものには価値はない。

 価値あるものを手に入れるには普通の人がやらないことをしなければならない。だが、得てして人がやらないことにはお金がかかる。興味があってもお金がなければ行動に移せない。

「知識や経験、もしくは人脈という無形資産を持っているとお金、つまり給料が上がる。人より仕事が早い、人より健康的でたくさん働ける、人と人を繋げることができる、これらは重宝されるものよ」

 仕事ができる人はたくさんの給料を払ってでも引き留めたい。その人の代わりがいないのなら、価値は計り知れない。

「結局さ、無形資産と有形資産はどっちが大事なんだよ!」

 桔梗が知りたいのは長い人生で必要になるもの。無形資産か有形資産のどちらに重点を置くのか知りたい。

「そんなの、両方に決まっているじゃない」

「ですよねー」

 薄々は桔梗も気づいていた。無形資産と有形資産が密接に関わっているなら、どちらかが欠けたら成立しなくなる。

「いいこと桔梗、AかBか、どちらかを選ぶような選択肢の際はCという両方のいいとこ取りな第三の選択肢を考えなさい」

 恋人を取るか、仕事を取るか迫られたなら、恋人を幸せにして仕事を完璧にこなす第三の選択肢から考慮すべきだ。

 人生は無限の可能性に満ちているのだから、まずは両方のいいとこ取りを諦めてはいけない。

「華薔薇はわがままだな」

「わがままじゃなくて、桔梗の創造力が欠如しているのよ」

 人生には抜け道はいくらでもある。一方を切り捨てて成功するより、全てを掴み取って成功するのが一番だ。

「私からすれば、どうして必要なものを捨てるのかが理解できないわ。必要なもの、欲しいものは全て手に入れたらいい」

「そっか、そうだよな。自分で自分の可能性を狭めてたら世話ないな」

 大抵のことは知識や知恵、もしくはお金があれば解決する。決して捨てたり諦めたりする必要はない。

「それで、どうしたら無形資産はゲットできる?」

 いくら大事だと主張されても具体的な入手方法を知らないと意味はない。

 欲しい商品がネット販売されていても、ネットの使い方がわからなければ購入することはできない。欲しいだけではいつまで経っても手元に来ることはない。入手方法を確認して実際に行動しないと欲しいものは永遠に憧れのままで終わる。

「では無形資産の生産性資産からね、生産性資産は一番給料に直結するから、桔梗も欲しいでしょ?」

「滅茶欲しいです! でもそれって、あるのとないのと、どれくらい変わるんだ?」

 欲望に忠実な桔梗はピンと手を伸ばして主張する。実に清々しい。

「知識の有無で一番分かりやすいのは高卒と大卒の年収でしょう。高卒の初年度の年収は約210万円、対して大卒の初年度の年収は約260万円」

「なるほどな、大卒の方が給料高いのは知ってる」

「高卒と大卒が定年まで働いたとして、生涯年収はおよそ4000万円から6000万円の違いが出てくるわ」

 あくまでデータの数字にすぎない。高卒でも出世したり起業したりする人はいる。大卒でも会社を辞める人はいる。

「手っ取り早く生産性資産を手に入れたいなら大学を卒業することね」

「大学かぁ。お金は欲しいけど、勉強は好きになれないんだよ。他に方法あったりしない?」

 桔梗は典型的な勉強が嫌いなタイプ。一方で華薔薇の雑談に付き合うことは苦にならない。教室で受ける画一的な授業が嫌いなだけで、新しい知識を得られる雑談部では貪欲だ。

「これからの時代単純な知識はAIに取って変わられるから、創造力が重要になってくる」

 19世紀は物量が経済を推し進めた。

 20世紀に入ると教育を受けたエリートが重宝された。

 21世紀は人も物も溢れているから、他とは一線を画すアイデアが価値になる。

「だったら俺は勉強を頑張るより、創造力を鍛える。俺はアイデア王になってみせる」

「そう。好きにしたら」

 華薔薇は桔梗の決意に素っ気ない。アイデアがポンポン出てくるようなら、個人や企業から引っ張りだこだろう。

 得てしてアイデアを湯水のように溢れ出せる人はインプットも凄まじい。言い訳をして勉強を逃れようとしている桔梗にアイデアを出す下地がない。

 桔梗がアイデア王になるのは無謀と思えたから、華薔薇は好きにさせるのだ。十中八九失敗すると思っても、やりたいことを否定する権利は華薔薇は持ち合わせていない。

「生産性資産は知識だけじゃないわよ。経験も資産だからね」

「経験が資産になるのか?」

「知識だけの頭でっかちの人より、知識と現場で実際に体験をしている人の方が重宝されるのは想像に難くない」

 たとえばITの現場だと、プログラミングの知識はと資格を取得している現場未経験より、資格はないが現場で実際にプログラミングを組んだ経験がある人の方が重宝される。

 百聞は一見に如かず。知識は溜め込むだけでは意味がない、実際に使ってみて初めて使えるかどうかがわかる。

 知識を活かせるかは使った後にしかわからない。

「経験が資産になるなら、釣りとか乗馬とかスキーとかサバゲーとかもありなのか?」

「もちろん、ありよ。人とは違う体験は十分資産になり得る」

 また経験は後からでも思い返せし、幸福度も高い。資産以外の価値もある。

「スカイダイビングもバンジージャンプもジェットブレードもスキューバダイビングもセーリングもキャニオニングもカヤックもサーフィンも資産になる?」

 後半は水辺のレジャーだけになっている。桔梗は山や森より海や川が好きなのだろう。

「なるなる。そこで一緒に遊んだ人と友達になったら人脈も得られて一石二鳥よ」

 人脈も立派な無形資産である。桔梗は初対面の人に物怖じしないので、一緒に遊べば仲良くなれる。

「えっ、あっ、うん。得難い体験をしに行くのに、人脈作りと言われるとちょっと……」

「なんでそこで引かれるのよっ!」

 遊びに行って楽しむのに人脈作りは無粋だ。結果的に仲良くなるのはよくても、最初から人脈作りを目的にするのはどうかと思う桔梗だった。

「失せたわー、桔梗の一言でザツダンする気力が一気に失せたわ」

 棒読みとジト目で華薔薇は態度を示す。

「いや、ごめんって。謝るから許して、この通り」

 手を顔の前で合わせて謝る桔梗。華薔薇は気力を失ったのであって、怒っているのではない。謝られるのは筋違いだ。

「まあ、いいでしょう。それで、どこまで雑談を進めたかしら? ……ああ、そうそう、無形資産には評判も含まれるのよ」

「ひょうばん? この雑談も終わり間近か」

「それは終盤。じゃなくて評判よ、評判。ブランドと言い換えれる」

 人は少なからず評判に影響される。知らないメーカーが出している商品より、よく知っている大手企業が出している商品を選ぶ。

「桔梗は靴が欲しくてお店に入りました。気に入った靴がふたつ見つかりました。ふたつの靴は見た目も値段もほとんど同じでした。店員に説明を聞いたら、ひとつはどこの誰が作ったかわからない靴、もうひとつは有名ブランドが販売している靴。桔梗はどちらの靴を買いますか?」

「そりゃ、有名ブランドの靴だ。誰が作ったのかわからない靴は不安になる。……逆に、有名ブランドの靴は安心感がある……?」

「もしかしたら誰が作ったわからない靴の方が高品質な可能性は捨てきれないけど、有名ブランドなら実績と信頼感がある。これが評判の力よ」

 評判には人を引き付ける力がある。逆に悪評が多いと選ばれない。

 せっかくの知識や経験も評判を得られなければ活用できない。仕事はもらえないし、信用も得られない。

 知識やスキルが劣っていても評判がよければ頼られることは往々にして存在する。知識を溜め込むのもスキルを磨くのも重要だが、活用するには同時に評判も稼ぐ必要がある。

「とにかく評判を稼ぎなさい。コツコツ仕事を真面目にするのも大事だけど、評判は所属する組織にも左右される。有名大学の出身、上場企業に勤めている、世界大会優勝チーム、などね。組織に信頼性があると、所属しているだけで自信も恩恵を受けられる」

 ただし気を付けたいのは、評判を築くのは大変だが、失うのは一瞬だということ。コツコツ真面目に信頼を築いても、たった一度の不祥事で世間から見限られてしまう。

「イメージ作りは慎重に」

 情報が瞬く間に拡散する現代では、一度出し情報は即座に削除しても必ずどこかに痕跡がある。これくらいならいいだろうという油断は禁物だ。


「知識や経験がいくら豊富でも肉体と精神がズタボロなら話にならない。長い人生において健康はとても重要な要素。これこそ活力資産」

 近年多くの国では健康の関心が高まっている。長い人生を不自由な体で過ごすには大変な労苦を伴う。

 いつまでも若々しくいたいのは人類共通の悩みだ。

「健康って、どうせ食事と運動だろ」

「当たり前じゃない。健康に一番大事なのはバランスの取れた食事に定期的な運動習慣、その他はおまけでしかない」

 平均寿命が伸びたことで健康の価値は高まった。

 60歳で病気になり動けなくなったら、昔の平均寿命なら80歳なのでおよそ20年動けない生活を送ることになる。対して現代では40年動けなくなる。

 現代の方がダメージは大きい。

「なら活力の天敵は知っていて?」

「天敵? 健康の敵ってことだよな。うーん、ジャンクな食事と運動不足」

「それらは健康には害悪だけど活力を奪うとは限らない。活力を奪う一番の源はストレスよ」

 過度なストレスが病気のリスクを押し上げたり、脳が衰えるかもしれない研究もある。

 軽視してはいけないのがストレスだ。

 肉体と精神の健康と幸福の敵はいっだってストレス。

「それに、仕事で受けたストレスは家庭に向く。家庭で受けたストレスは仕事に向く。仕事とプライベートの両方が充実してこそ本当の活力資産となる」

 仕事とプライベートは切っても切り離せないが、プラスの面もある。家族との触れ合いで心身ともにリラックスできたなら、仕事にも前向きな感情を持ち込める。仕事で達成感を得られたら、家族とも暖かい心で向き合える。

 人生上向きな人はずっと上向きで、人生下向きな人間はずっと下向きになる。

 正のループなら活力資産は増え続け、負のループなら活力資産は減り続ける。

「私たちはまだ学生だけど、これって私たちにも当てはまるでしょ。だって学校は社会の縮図、というらしいし」

「ストレスを溜めない生活が大事なんだな。毎日楽しく過ごすのが一番」

 桔梗の発言はバカっぽいが一種の真理を突いている。

 つらい、だるい、めんどくさい、とネガティブな発言を繰り返すより、楽しい、面白い、嬉しい、とポジティブな発言をしている人の方が幸せに見える。

 難しく考えず、ストレスのない楽しい毎日を送れるようにするのが人生の正解かもしれない。


「無形資産のみっつめ変身資産について、何ができて何ができないか、何が好きで何が嫌いか、どんな性格をしていて、何を持っているか、これらひとつひとつがその人を形成し、その人のアイデンティティとなる」

 その人が他の人とは違う要素。他者との違いを自覚し、自らの強み弱みを知る。これこそが変身資産だ。

「難しいな」

 アイデンティティなど耳慣れない言葉を聞いて桔梗は混乱の極み。

「要は自分自身を深掘りすることよ」

 なんてことはない。自分の好きなこと、嫌いなことを書き出し、過去やってきたこと、今やっていること、将来やりたいことを言葉にする。これらが変身資産の第一歩だ。

「自分自身を知って、何に役立つんだ?」

 個人情報を理解しても何に役立つのかわからない。好きな食べ物はプリンです、この情報で出世できるなら苦労はない。

「変身資産が活躍するのは、社会や自分が変化する時よ。社会は目まぐるしいスピードで変化している。会社の寿命は昔は30年と言われていたけど、今では半分の15年とされている。また、結婚や家族との死別で否応なく変化がやって来る。そんな時に役立つのが変身資産」

 自分についてよく理解している人は周りに流されにくく、自分の主張や人生の意味に一貫性を保てる。

 好き嫌いがはっきりしていれば、やりたいことをやり、したくないことをしない。故に人生にトラブルが起きにくい。

「へぇー、そうなんだ」

 どうやら桔梗には刺さらなかったらしい。

「後は単純に仕事を割り振りやすくなる」

「なんで?」

「たとえば、この仕事やっといてと頼んだとしましょう。Aさんは二時間かかります、と答え。Bさんはいつ終わるかわかりません、と答えた。さあ、桔梗はどっちに仕事を頼みたい?」

 Aさんなら二時間で仕事を終えるので以降の予定を立てやすい。対してBさんの能力は未知数なので、30分で終わる可能性も4時間かかる可能性もあり、最悪終わらない可能性もある。

「それならAさんだろ。さすがにBさんに頼んで一か八かの賭けに乗りたいとは思わない」

「さらにもう一問、お土産に買ったドイツケーキのシュヴァルツベルダーキルシュトルテがあります。Cさんは普段から甘いものが好きだと公言しています。Dさんは甘いものは苦手だと主張しています。さて、桔梗はどのようにお土産を渡す」

 シュヴァルツベルダーキルシュトルテはドイツのお菓子。意味は黒い森のサクランボケーキ。シュヴァルツヴァルト地方の黒い森と特産品のサクランボをイメージして作られた。

「ケーキだろ、だったら甘いもの好きのCさん一択だろ」

「本当に? 今なら変えてもいいわよ」

「いやいや、変える必要はない。Cさんだ」

 桔梗の意思は固く、選択を変えるつもりは更々ない。

「残念不正解、正解はDさんよ。シュヴァルツベルダーキルシュトルテはクリームの甘さをは抑えられており、ココアのほろ苦い風味は甘いものが苦手な人でも食べられる。すなわちDさんでも食べられる」

「せこい。ケーキって聞いたら甘いものを想像するじゃん」

 実の所、華薔薇はどちらにでも正解にできるようにした。サクランボの甘酸っぱさを主張したら、甘いケーキにもなる。桔梗がDさんを選んだら正解をCさんにしていた。

 桔梗の敗因はシュヴァルツベルダーキルシュトルテの知識を持ち合わせていなかったこと。

 無形資産を多く持ち合わせた華薔薇の勝利だ。ただの意地悪な質問だったのは華薔薇の胸の内にしまわれる。

「桔梗がシュヴァルツベルダーキルシュトルテを知らないのが悪いのよ。それに私は選択を変えるチャンスを与えたし、シュヴァルツベルダーキルシュトルテについて聞かれたら答えるつもりだったわ」

「そんなの後からだったらどうとでも言えるじゃん。卑怯だ」

「卑怯だなんて心外よ。桔梗の無知と創造力の欠如が招いた必然よ」

 卑怯と相手を批判する前に自分の迂闊さを悔やむべきだ。社会に出たら、もっとあくどい手段で搾取する悪人が蔓延っているのだから。

「ともかく、無形資産が大事なのは理解したでしょ」

「えぇえぇ理解しましたとも。知識がなければ丸め込まれるし、ストレスは学校もプライベートもズタボロにするし、自分を知らないとお土産も貰えない。これでもか、ってくらい理解しましたとも」

 不服な思いをしながらも桔梗は理解している。今回は誰かの悩み相談ではなく、自分自身の不安が発端なので思い入れもひとしおのようだ。


「無形資産の生産性資産、活力資産、変身資産を手に入れたら人生安泰だってことはよーく理解しましたとも」

「無形資産はあくまで人生の難局を乗り越えるための道具でしかない。どんな人生を選ぶかは桔梗次第」

 無形資産や有形資産は持って困るものではないが、人生をよりよく過ごすための道具でしかない。

 あくまで人生を補助するためもの。人生設計は別問題だ。

「えっ、人生を選ぶ? 大学行って就職して、結婚して家庭を持って、最後は田舎で暮らすみたいな」

「旧来の生活が保証されているなら、桔梗の案も悪くないかもね。でもね、現代は多様化している。ありきたりな人生以外も容易に選べる。一所に腰を落ち着かせることなく、日常を飛び出せる。世界を旅したり、新しい出会いを求めたりすることで、既存の価値観を打ち破ったり、自分について深掘りしたり。長い人生において探求する時間も大切よ」

 学校の卒業と同時に就職する人生が間違いではない。自分をより深く知ることで今後の人生に活かす道もある。

 単に新しいものの発見のために未開地に飛び出してもいい。知らない景色を見て、価値観の違う人と出会い、新しいことを学ぶ、これらも長い人生にプラスに働く。

「そうだよな、世界を旅するのって楽しそうだな。別に働くのが数年遅れても、人生100年なら誤差だよな」

 学校の卒業と同時に働き出すのが普通だが、必ずしも従う必要はない。それに得難い経験をしている人を重用する人もいる。他人と比較する必要はない。余所は余所、うちはうち、ということだ。

「人生の選択肢には企業で働くことをせず、自ら仕事を生み出す側になることもできる」

「何それ、起業するのか?」

「少し違う。お金を稼ぐことを主目的にせず、会社に雇われることなく独立した立場で生産的な活動をする。要はやりがいや試行錯誤に重きを置いて、学習することが目的よ」

 失敗しても背負っているものが小さければ取り返しがつく。

 経験を得ることが目的なので、臆せず挑戦することが大事だ。

「会社に囚われない働き方か。自分のやりたいことをやる。やってみたいことはあるから、選択肢としてありだな。楽しそうな人生を送れそうだ」

「明確な目標や最終的な目的がある人におすすめね」

 会社に縛られないということは制限もないということ。ある意味やりたい放題である。

 ただし個人の活動の責任は全て個人に返ってくる。向こう見ずだけではやっていけない。


「人生にはひとつのことに専念する時期があるけど、逆に色んなことに興味を持つ時期もある。だから異なる活動を同時に行う人生だってある」

 単純に全く違う経験を同時進行することで互いを刺激する。複数の経験が新しい物の見方を教えてくれる。

 異なる業種を繋いで既存の枠組みから外れた新しい概念を生み出すことも可能だ。

「いいな、やりたいことが一杯あるから、どれかひとつに絞ろうかと思ってたけど、別に全部やってもいいよな」

 やりたいことがあるなら全部やっていい。昔と比べて人生は長い。十分時間は確保できる。毎日が刺激と興奮で一杯だろう。

 注意したいのは非効率な一面があること。ひとつのことに専念すれば簡単に身につくスキルも同時平行すると時間がかかるようになる。

「多様な活動を通じて自分らしさを知っていく。以前身につけたスキルが新しい場所で開花するかもしれない。集めた知識が新たな人脈を開拓するかもしれない。いろんな経験が人生を劇的にしてくれる」

「うーん、迷うなぁ。どの選択にも魅力を感じざるを得ない」

 世界は目まぐるしく変化している。終身雇用の崩壊や年金問題に否応なく巻き込まれている。

 だが桔梗はまだ学生だ。焦って決める必要はない。

 それに失敗は付き物だ。失敗しても取り返したらいい。長い人生で一度も失敗を経験しないなんてことはない。やり直すチャンスはいくらでもある。

「挑戦はいつだってできる。失敗は取り返せる。だから迷う暇があるなら、チャレンジしなさい」

「それもそうだな、やらないで後悔するより、やって後悔したい。よし、とりあえず今日は大食いに挑戦してくる。いっつも気になって仕方なかったんだ。俺は胃袋の限界に挑戦する。じゃ、ちょっくら行ってくる」

 何事も経験だ。大食いにチャレンジして、才能が目覚めるかもしれない。失敗しても、自分の胃袋の大きさを知れる。

「ふふ、いいじゃない」

 華薔薇は満腹まで食事をしたことはあるが、満腹になっても食べ続けたことはない。

「いってらっしゃい」

「ああ、行ってくる」

 華薔薇は自分の胃袋の大きさに思いを馳せながら桔梗を見送る。

 胃袋の限界を知る挑戦も悪くないと思いながら雑談部の活動が終了する。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る