第19話 緊張で頭が真っ白になりたくない

「今回のお悩みはラケナリアさんから、『すぐに頭が真っ白になって、言いたいことが言えません。人前で緊張しない方法を教えてください』ということです。人前に出ると緊張するよな」

 ある日の放課後。

 雑談部では習慣になっている桔梗のお悩み相談コーナーが開店していた。

「意外ね。桔梗でも緊張することがあったなんて」

「俺のハートは繊細なんだぜ」

 キメ顔で繊細とのたまう人は確実に繊細ではないと思う。

「桔梗のことはともかく、緊張が嫌なら人前に出なければいいじゃない。これで解決ね」

 人前に出ると緊張するなら、人前に出なければ緊張しない。人前に出ないような立ち回りをすれば緊張とは無縁になる。

「根本的な解決になってなぁーい。華薔薇はひねくれすぎ、ラケナリアは緊張を避けたいんじゃなくて、受け入れたいんだと思います」

「十中八九そうでしょう」

 緊張したくない、なら緊張することを他人に押し付けてしまえ、と考えられる性格なら誰かに相談することはないだろう。

 人前や本番で過度な緊張はせず、言いたいことが言えるようになりたいとラケナリアは願っている。

 そして、その方法がないか桔梗に相談した。さらに、巡り巡って華薔薇の元に辿り着いた。

「緊張で長年の努力が水の泡になることもあるし、ラケナリアは緊張感とはおさらばしたいんでしょう」

「うんうん、そうだね」

「今日は緊張について雑談しましょうか」

 大きく横道に逸れることなく華薔薇は雑談のネタを決める。

「珍しく早々に本題に入った。何かあったか」

 特段華薔薇に変化はない。変わったとすれば気分くらいだ。横道に逸れるのは雑談部の醍醐味だか、必ず横道に逸れる道理はない。

 時には道を真っ直ぐ進んでみるのも悪くない。長い人生には気分転換も必要だ。


「緊張して頭が真っ白になると、おおよそ損しかない。たとえば大量の資料を準備して挑んだ本番のプレゼンで頭が真っ白になって、しどろもどろな喋りで失敗したり。緊張して余計な一言を言って予定がご破算になったり」

 一度の失敗で評判が失墜することはままある。

「まじで恥ずかしいよな。緊張して失敗したら」

 恥ずかしいで済む学生は問題ないが、社会で致命的なミスをしたら復帰は絶望的だ。

 ミスができる学生の間に緊張しない方法を身につけると堂々とした社会人になれるだろう。

「緊張して失敗すると恥ずかしいかもしれないけど、緊張状態がずっと続くとパフォーマンスも低下するのよ」

「失敗と恥ずかしさと無能に襲われるって、どんだけ悪循環コラボだよ」

 緊張状態になると脳内ではノルアドレナリンが分泌される。

 ノルアドレナリンは生命の危機や不快な状況に対処するための物質。適度な量なら作業効率を上げてくれるが、過剰に分泌されると怒り、恐怖、不安、興奮の元になる。

 つまり冷静な判断ができなくなる。

 ノルアドレナリンはワーキングメモリに大きな影響を与える。

 ワーキングメモリとは短期の記憶を司っており、一定期間記憶を保つ機能がある。またメンタルのコントロールも行っている重要な部位だ。

 緊張するとワーキングメモリの機能も低下するので、人の話を覚えれなくなったり、怒りっぽくなったりする。

 過度な緊張は百害あって一利なしだ。

「緊張っていいことないな」

「正確には過度な緊張がダメなのよ。適度な緊張はむしろ脳の機能を高めたり、挑戦する心を育てるのよ」

 あくまで行きすぎが諸悪の根元。何事も適度な量ならプラスに働く。水も薬も過ぎれば毒となる。

「緊張して頭が真っ白の状態はワーキングメモリの機能が正常に働いていない、行きすぎた状態というわけね。こうなったら深呼吸して落ち着きましょう」

 深呼吸は手軽にできる緊張を解すテクニック。

「はいはい華薔薇先生、ちょっとした疑問があんだけど?」

 手を真っ直ぐ伸ばして桔梗が主張する。ここは授業中の教室ではなく雑談部。わざわざ手を上げて主張する必要はないが、華薔薇も教師役として対応する。

「では、桔梗君、何かしら?」

「人前で堂々と喋れる友達がいるんだけど、その両親も全然物怖じしない人たちだったイメージがある。緊張するしないって遺伝するの?」

 性格が遺伝するかどうかの疑問。

「アメリカのキャロリン・ザーン・ワクスラー博士の研究だと、両親が気分障害(うつ病や双極性障害)だと子供怒りっぽい傾向が確認された。逆に両親が穏やかだと子供も怒りっぽい傾向は低かったそうよ」

「それってやっぱり遺伝してるじゃん」

 ひとつの研究だと性格が遺伝することを肯定することになる。しかし研究には反対の主張をするデータもある。

「エピジェネティクスという研究があってね、DNAはタンパク質を含む様々な物質がくっていて何重にも折り畳まれている。これをクロマチン構造と呼ぶのだけど、このクロマチン構造が特定の状況で変化することがある。それが環境の変化、もしくはストレス」

 人体が環境の変化やストレスにさらされると、DNAメチル化もしくは脱メチル化という化学変化が起こる。するとDNAの遺伝情報に変化はないが、遺伝子の発現のオンオフのスイッチが切り替わる。

「ん? むむ、意味がわからん?」

「要は両親から怒りっぽい遺伝子を継承しても、環境次第では怒りっぽい特性が表に現れない」

 遺伝子は生まれたときには既に決まっているが、環境や友人関係も性格に影響を与えるということだ。

「結局、遺伝するの? しないの?」

「遺伝はする。ただし性格は環境要因も大きく影響する、が正解よ」

 性格をひとつの要因で語るのが間違い。複雑な要素が絡み合って性格は形成される。

「緊張する両親だったとしても子供は悲観する必要はなくて、物怖じしない両親だったとしても楽観してたら緊張するかもしれない、ってことでいいんだよな?」

「そうよ。そもそも、緊張なんて後天的に改善できるから遺伝子がどうこう悩むのは時間の無駄よ」

 遺伝子云々以前に緊張しない方法は努力で手に入る。両親がこうだからと決めつける必要はない。

「知りたい知りたい、緊張しない方法。何をしたら緊張しなくなる?」

 緊張して失敗した苦い経験があるから、緊張しない方法に飛びつく。桔梗の姿勢が前のめりになる。

「緊張したら、緊張している自分をイメージする。自分の姿でイメージできないなら、他人でも構わない」

「なるほど。自分以上に緊張している人を見ると逆に冷静になるって聞くな。でも緊張してる時に緊張してる自分を思い出すなんて、普通できないぞ」

 冷静な判断ができないから緊張している。緊張しながらも冷静な部分がないとできない対処法である。

「なら写真み見たらいい。イメージができないくらい追い詰められても、写真なら見れるでしょ」

 緊張している姿を自撮りするなり、友達に撮ってもらえばいい。

 写真を見れば、このような醜態はさらしたくない、と思って緊張が抑制される。

「効果があるのはわかった。やっぱり自分なり他人もそうだが、緊張している姿は見たくない、のが人の心情だろ」

 汚いもの、とまでは言わないが、よくないイメージの写真を見ることすら抵抗がある。できれば綺麗なものを見たいのが普通の反応だ。

 ゴキブリの写真より、自然の絶景写真を見たい。不細工な人より、美人を見たい。

「それなら家族や恋人、ペットの写真で癒されましょう。癒しの写真を見て、気分が上がれば、緊張も吹き飛ぶわ」

「そっちの方が断然いいじゃん。緊張が解れて、癒しにもなる、まさに一石二鳥だ」

 気をつけるのは、リラックスしすぎないことだ。本番前にリラックスして、いざ舞台に上がった際にだらしない表情をしていては台無し。

 過度な緊張はもちろんダメだが、緩みすぎても尊厳を保てない。ヘラヘラしては相手を不安にさせる。

「癒しの写真の効果がわかったから、華薔薇の写真撮らせてよ。華薔薇って超綺麗だし、めちゃんこ可愛いもん。ぜってー癒しになる」

「あら、ありがと。桔梗のような普通の人からしたら、私はさぞ優美でしょうね。でもね、写真撮影は断固拒否する」

「なんでぇ!?」

「どうして私が桔梗に写真を撮らせないといけないのよ。桔梗のスマホに私の写真が保存されていると思うとゾッとするわ」

 華薔薇の目的は雑談すること。桔梗に写真を撮られて、桔梗の癒しになるつもりはない。写真が撮りたければ写真部だ。

 幸いにして日輪高校には弱小写真部なる部活動がある。

「……仕方ない、こうなったら」

「ちなみに盗撮は犯罪よ」

「ギクッ!」

 桔梗が漫画のキャラクターのお調子者に勝るとも劣らない慌てふためきを披露する。

「はぁ、桔梗が捕まるのはどうでもいいけど、その際は雑談部の名前は出さないでね。私に迷惑かけようものなら、容赦しないから」

 徹頭徹尾華薔薇は自分を第一に考える。桔梗が逮捕されても迷惑がかからないなら、素っ気なく流すだろう。

「捕まってねーし、盗撮やらないからな!」

 桔梗が全力で否定する。風評被害も甚だしい。

 余談だが、盗撮は各都道府県が定める迷惑防止条例によって処罰される。対象となる行為や場所は各都道府県で異なる。

 一般的に通常隠されている衣服の中やトイレ、お風呂、更衣室などで撮影を行うと犯罪になる。また、近年では公共の場所も処罰の対象に定められている。

「くっそー、華薔薇の写真を撮りたいって言っただけなのに、とんだ藪蛇になったぜ。こんちくしょー」

「盗撮者桔梗に次の緊張対策を雑談しましょう」

「それ続くの!?」

 華薔薇が飽きるか、消費期限が切れない限りは桔梗はいじめられる運命だ。残念ながら桔梗の意思で終わりを迎えることは不可能だ。

「緊張したら距離を取りましょう。要は戦線を一時的に離脱する」

 一旦現場を離れて頭を冷やして、落ち着いてから現場に戻る。

「緊張していると自覚したら、休憩したり、トイレに行って頭を冷やしてから戻る。緊張して本来のパフォーマンスを発揮できないくらいなら、いっそ現場を離れてしまえばいい。ずっと緊張するより建設的ね」

 緊張を続けていたら失敗するのは自明の理。失敗して時間と労力を割くより、休憩してつつがなく進行することが大事だ。

「頭を冷やすのは大事だけど、本番中とか時間がないときは使えないじゃん。もっと即効性のある対策はないの?」

 プレゼンの最中にトイレと言って中座するのは難しい。大事なクライアントとの交渉中に休憩していたら、まとまる話もまとまらない。

 本番前の待機中、メールなどの直接対面しない対応など、使える場面は限られる。

「即効性のある方法だと、呼吸が一番よ」

「呼吸? 吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー、ってやつだよな。ラジオ体操の最後のあれ」

 呼吸がリラックスに効果があるのは数々の研究で証明されている。また集中力上がる効果も確認されている。

「息をゆっくり吸って、ゆっくり吐き出す。これだけで人間は落ち着けるのよ。注意点として吸う時間より吐く時間を長くすること」

「緊張してる時に深呼吸するのはよく聞くけど、やっぱ効果あるんだ」

「わざわざ深呼吸する必要はないわよ。あくまで息を吸って吐くだけ。深く吸い込む必要も、大きく吐き出す必要もない。これなら、人前でも悟られないでしょ」

 呼吸法には様々な種類がある。

 呼吸法①、等間隔呼吸法。

 鼻から4秒かけて吸って、鼻から4秒かけて吐く方法。

 シンプルな方法でありながら、血圧の低下や興奮した脳の沈静化、さらにストレス解消効果も認められている。

 呼吸法②、複式呼吸。

 右手を胸元、左手を腹に置く。6秒から10秒かけて鼻から吸って、6秒から10秒かけて鼻から吐き出す。この際胸が膨らまず、横隔膜が膨らむように意識するのが大切だ。

 呼吸法③、片鼻呼吸法。

 ヨガの呼吸法で指で鼻の穴を交互に押さえながらする呼吸だ。緊張よりも眠りを深くする効果が高い。瞑想に入る際にも使える。

 呼吸法④、タクティカルブリージング。

 米軍が戦場で使う呼吸法。口を閉じて鼻から4秒かけて吸う、4秒間息を止める、4秒かけて口から吐き出す、4秒間息を止める。

 4秒間隔で呼吸と静止を繰り返す呼吸法である。

「ただ、呼吸の真骨頂は本番前や本番中に行うことじゃないのよ」

「じゃあ、いつ、どこでやるのさ?」

「普段から習慣にするといいのよ。毎日10分以上呼吸に集中していると、本番に強くなる。不安は減るし、ストレスに強くなったり、集中力が上がったり、感情も安定するから、すぐに頭が真っ白になることもない。緊張と無縁になりたいなら、普段から呼吸に集中することね」

 練習でできないことが本番でもできないように、普段から落ち着く方法を知らなければ本番で落ち着くのは不可能だ。

 結局、地道にコツコツやるのが近道だ。

「最後には真面目な奴が勝つようにできてるんだな、人の世の中は」

 一発逆転という不確かな要素に頼るより、地道にコツコツやっていれば成果は必ず出る。緊張知らずのメンタルも真面目に取り組めば誰でも得られる。緊張しやすい体質に生まれたとしても悲観する必要はない。

「人生なんてプラスになることをやり続けていたら、勝ち組確定よ」

 マイナスを排除して、プラスを積み重ねていれば、人生の成功は約束されている。

「それができたら苦労しないって」

 わかっていてもできないのが人間だ。痩せれば健康になれるとわかっていてもダイエットができないように。

「なんでできないのかしら? よりよい未来が確定しているなら、普通できるでしょ」

 泥沼に嵌まっているのに泥沼から脱出しない精神の方がおかしいと華薔薇は考える。薔薇色の未来のために行動しない方がどうかしている、というのが華薔薇の素直な感想だ。

「まあ、いいわ。私は雑談するだけだもの」

 華薔薇には有象無象の意見に耳を傾ける暇はない。やりたいならやればいいし、やりたくないなら現状維持を続けたらいい。そこに華薔薇が介入する気はない。

 不健康な生活を続けて早死にしようが興味はない。

「緊張しないようにするには普段から気をつけて生活を送る必要があるわ。特にあれもこれもと手を伸ばすのは厳禁よ。ちまちました作業はワーキングメモリを圧迫するから、いざってときに考えられなくなる」

 ワーキングメモリは容量が決まっている。なんでもかんでも詰め込める高性能なワーキングメモリを持っていたら別だが、普通の人はそこまで大きくない。

「すぐに終わる作業はさっさと済ませる。覚えておかないといけないことはメモを取る。服装はあらかじめ決めておく。これらのひとつひとつは大したことないけど、塵も積もれば山となるのはわかりきったこと」

「そうは言われても、ついつい後回しにしちゃうよな。わざわざ今する必要があるのか、後でしても変わらない。これってダメだったのか、知らなかった」

 地道にコツコツの効果が発揮するのは何もプラスのことだけではない。ひとつひとつの小さなゴミも溜まれば大きなゴミの塊になる。

「だから朝の準備なんかは前日の夜にしなさい」

「朝からちまちました作業をしなくて済むように、か。それくらいなら俺でもできる、やってみよ」

 朝から着る服を決めて、鞄、財布、スマホ、その他諸々を用意していてはワーキングメモリに負荷がかかる。朝からバタバタして疲れる必要はない。

 夜に準備を済ませてしまえば、朝からバタバタしないで済む。何よりワーキングメモリに負荷がかかっても、寝ている間にリセットされる。朝から無駄に消耗する必要がなくなる。

「食生活からも緊張しない方法のアプローチもあるわ」

「へぇー、何を食べたら落ち着くかな? 濃い味だと興奮しそうだし、味気ないものがよさそうだ、豆腐とかどうだ」

 落ち着くイメージのある食べ物を思いつかなかった桔梗は連想ゲームで答える。

「残念ながら不正解。正解はトリプトファンよ」

「はて?」

 どんな食べ物だ、と桔梗はトリプトファンなる食べ物を想像する。しかしトリプトファンは料理ではない。

「トリプトファンは料理じゃなくて、必須アミノ酸のひとつよ。睡眠ホルモンのメラトニンと幸せホルモンのセロトニンの原料になる精神安定には欠かせない物質よ」

「ふむふむ、それでどうやったらトリプトファンとやらは手に入る?」

「トリプトファンは食べ物だと、卵、肉、魚、ジャガイモ、バナナなどに多く含まれている。チーズ、ヨーグルト、豆類でも摂れる」

「普通の食材だな。突飛な食材だとどうしようもなけいけど、どれもスーパーで買える食材だ」

 トリプトファンは健康的な食生活を心がけていたら不足するとはない。主食の代わりにお菓子を食べるような偏食でもない限り、問題ない。

 欲を言えば、肉は鶏胸肉、魚はタラかサーモンを選ぶといい。

「余談だけど、トリプトファンで他人への信頼感が増す研究もあるわね」

 他人への信頼感があれば初対面でも人見知りしなくなる。気安く話せない人とも緊張せずに話せるかもしれない。


「ここまで、色々な緊張しない方法を雑談したけど、やっぱり私的には慣れが一番大切だと思うのよ」

「それは一理あるな。最初は緊張してもいつの間にか緊張しなくなる。俺も最初は華薔薇と話すとき緊張したのを今でも思い出す」

 二人の出会いは華薔薇が桔梗に一方的に話しかけたのが始まりだ。華薔薇が雑談部員という名の新しいおもちゃを探していたときに桔梗を見つけた。

 桔梗は見知らぬ美人から声をかけられてテンパってあたふたしていたのが二人のファーストコンタクトである。

「あらそうなの? 桔梗が緊張していたなんて微塵も感じなかったわ。だって出会った当初からずっと間抜け面を披露していたもの」

「誰が間抜け面じゃい! 俺の顔はイケメン、百歩いや一万歩いやいや一億歩譲って普通じゃい!」

 二人の現在の関係は言いたいことを言い合える気心の知れた仲、だと思われる。

「桔梗がブサイクという悲しい事実は置いといて」

「余計酷くなってね」

「新しいことに常日頃から挑戦していたら、度胸はつくと思わない?」

 初めてのことは上手くできるか不安、失敗したらどうしよう、そもそも面白いのかわからない、数々の懸念から緊張してしまう。

 数々の緊張を経験したら、いずれは全く新しいことに挑戦しても酷い結果にはならなくなる。

 また、不安や緊張を克服した経験が成長に繋がる。特にネガティブな経験だと成長が著しい。

「さらに、新しいことに挑戦したら経験と知識も獲得できる一石二鳥」

 小さな成功体験を積み重ねていけば、新しいことも大したことがないと学習する。

「度胸がついて経験と知識を得る、俺もなんか新しいことやりたくなってきた。なんかないかな?」

 桔梗が感化されたのか意欲に燃えている。元より好奇心旺盛なので、新しいことに挑戦する際に躊躇がない。

「そうね、今からできることとなると……」

「できることは」

 桔梗は胸に期待を膨らませて体と心が前のめりになる。

「特に思いつかないわ」

「ずこーっ」

 前のめりになっていた桔梗が勢いそのままに体の前面から床にダイブする。

「なんで思いつかないのさ。華薔薇だったら絶対なんかいいこと言ってくれると期待したのに」

 起き上がった桔梗は汚れを落としながら愚痴る。しかし華薔薇とて全知全能ではないのだ。必ず桔梗のリクエストに答えられるわけではない。

「いえ、考えようとはしたのよ。でもね、前のめりになっている桔梗を見ていたら、そのまま転けたら面白そうだなぁ、って思いに支配されたの。私の思考は桔梗がどうやったら転ぶかに全力を注いだ結果、特に思いつかなかったの。つまり、桔梗が悪い」

「えっ、結局俺が悪いの? それはおかしくない」

「全然おかしくないわよ」

 どうして私がおかしいの、と華薔薇は非を認めない。むしろおかしい部分があるなら指摘して教えてもらいたい気分だ。

「は、華薔薇が純真無垢だと、何を企んでやがる」

「別に企んでないわよ、心の底から私はおかしくないと確信しているだけよ。だって桔梗の言動の方がよっぽどおかしいもの」

 桔梗のリアクションは少々オーバー気味だ。そのオーバーリアクションが華薔薇の思考をかき乱す。桔梗が大人しくしていれば悲劇は起こっていなかった。

「へいへい、だったら大人しくしてますよーだ」

「できるのかしら?」

「できるわいっ!」

 宣言した瞬間から大声で反応しているようでは大人しい桔梗を見る日はやって来ないだろう。

「完璧主義を捨てるのも大事よ」

「えっ、どうして、完璧の方が絶対いいじゃん」

 50点の平凡より、80点の優秀より、100点満点の完璧がいいのは誰の目にも明らかだ。

「完璧を目指すとミスしたらどうしよう、仕上がらなかったどうしよう、間に合わなかったらどうしよう、評価が低かったらどうしよう、なんて悪い方向に進むわ。どんどん自分を追い詰めてしまえば最後には焦ってしまって、結果が残せない」

 決して完璧が悪いのではない、完璧を目指す過程で自分を追い詰めることになることが悪い。

「あー、たまにいるよな、ノートに線を書くとき定規を使って綺麗にしてるの。俺はフリーハンドで十分だ」

 綺麗な線を書くのはいいが、それに時間を取られて最後に焦って書き写していたら世話しない。

 桔梗の適当なノートも綺麗に板書したノートも評価に大きな違いはない。それなら100点を目指して焦るより、80点で余裕を持ち続けたい。

 ノートの本質は情報をまとめること。字が多少汚くても読めるのなら問題ない。決して綺麗に書き写すことを目標にしてはいけない。

「適当なことで切り上げるのが大事よ。一定ラインを越えていたら評価に大きな違いはないのだから」

「そんなもんなんだ。それなら俺も安心だ」

「どうして桔梗が安心しているのよ。桔梗の適当さは最初から手抜きするいい加減なものでしょ。今回のはアスリートが予選で一位を確信したときにゴール手前で流すようなもの。一定の成果が担保されて初めて、早々に切り上げるのよ」

「うそーん!?」

 桔梗の適当さは最初から手を抜くこと。完璧主義を捨てるのはゴールラインが見えるまでは熱心に働いて、ゴールラインが見えたら手を抜くのだ。最後まで走りきらないのが完璧主義を捨てること。

 桔梗のように勘違いしては好成績は残せない。

「どうしたら俺は変われるんだ」

「さて次の雑談はノーリスクはないことを理解する」

「ちょ、待って、置いていかないでぇ!」

 待ってと言われて待つなら最初から待つ。つまり華薔薇の雑談は止まらない。

「安全なもの、100%と言われていたのに、危険が潜んでいました。なんて言われると焦るものよ。でもね、人生において絶対は存在しない」

「ちょう、ぅぇ、リスクがなんだって」

 置いていかれた桔梗がなんとか軌道修正しようと奮闘している。

「身近にあるものはリスクよりリターンが上回った結果よ。便利なもの、美味しいもの、安いもの、などには潜在的にリスクが存在する。いざリスクに直面した際には焦らないように」

 最初からリスクを折り込み済みなら、実は危険でしたと告げられても受け入れる余裕がある。往々にして日本人は商品やサービスが安心安全と思い込んでいる節がある。

 商品を買う際には得られる喜びに目を向けると同時にリスクにも目を向けたい。

「あっ、うん、リスク大事だよね」

 置いてけぼりな桔梗は気の抜けた返事をする。桔梗が理解しようが、蚊帳の外だろうと華薔薇は考慮しない。ついていけない桔梗が悪いのだ。

 雑談部に弱者救済制度は実装されていない。


「なんだかんだ言ったけどさ、結局準備が大切なのよ。緊張してから対処してたら遅いのよ。いかにして緊張しないかが大事なわけ」

「確かにそうだよな。本番でできることなんて限られてるよな」

 冷静な判断を失うから緊張するのであって、写真を見たり、呼吸をしたりできるなら苦労はない。

「緊張する状況を書き出してリストにして、それぞれに対処法を考える。あらかじめ緊張するとわかっていたら心構えが変わるでしょ」

 人間は想定外には弱いが、事前にわかっていて準備万端なら案外対処できる。

「リストを作ることで自分の苦手分野を認識できる。得意分野があって緊張しないシチュエーションがあるなら、それを苦手分野に応用もできる」

「それいいな、自分が実践してることなら経験がある。新しい対策より馴染み深い」

 わざわざ新しい対策を導入するより、既に自分が実践している手法があるなら、スライドさせて利用すればいい。

 雑談部でお喋りした内容に信憑性は担保されないのだから、既に効果が実証されている手法が確実だ。

「それに何より、人間は得てして失敗するものよ。だから、緊張して失敗したなら、すぐに謝ればいい。謝罪すれば、案外大事にならない。誠意を見せれば丸く収まる」

「確かに。華薔薇には何度も怒られてるけど、ちゃんと謝れば許してくれるしな」

「流石ね、謝り慣れてるだけはあるわね」

「それほどでも、って褒めてないよな」

 華薔薇は一言も褒めてない。桔梗が勝手に勘違いした。

「失敗を恐れて緊張するより、失敗しても取り返せる、と思ったら気楽に立ち向かえる。それが余裕の源泉よ」

「失敗したとしても死ぬこともない。気楽が一番だな」

「それでも、桔梗みたくお気楽すぎるのはどうかと思うわよ」

「いやー、照れるな、ってやっぱり褒めてないよな」

 華薔薇は一言も褒めてない。桔梗が勝手に勘違いした。(二度目)

 また、失敗は大切な経験だ。次に活かす糧にすれば、緊張の度合いも減っていく。

「私から言えるのは、とにかくガンガン挑戦して場慣れしなさいってこと」

「結局、慣れに勝る対策はないのか。世知辛い世の中だぜ」

 普段から緊張しないように内面を整えて、自ら緊張する場面に飛び込んでいくしかない。

 付け焼き刃の対策では一時しのぎになっても根本の解決にはならない。

「真面目にやれば成果が出るのよ、どこも世知辛くない」

 向き不向きはあれど、努力に対して成果が出る。世知辛いと思うなら自分を変える努力をすればいい。

「勝手に自分の可能性を狭めている言い訳を世間の所為にしないように」

「はーい」

 返事だけは一人前な桔梗であった。


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