第16話 交渉はポイントを押さえれば上手くいく
「今回のお悩みは弱小写真部のシバザクラさんからです、『もっと部費がほしい』だそうです。とてもシンプルです」
部活動を行うにはお金がかかる場合もある。ましてや弱小部なら尚更だろう。
「私に言われても、部活の予算の権限なんてないわよ。生徒会なり、財務や経理を担当している教師に頼みなさいな」
ある日の放課後。
桔梗が持ち寄った相談を華薔薇が突っぱねる一連のお馴染みなお決まりが繰り広げられる。
「シバザクラが聞きたいのは担当者が誰かじゃなくて、どうやって部費を上げるかの交渉の仕方について知りたいそうだ」
「あらそうなの? 一言も交渉なんて単語は出てきてなかったわ。部費がほしい、という言葉にそんな裏があるなんて、天地がひっくり返る驚きね」
華薔薇の軽いジャブ。さすがに部費がほしいの一言で交渉の仕方を察するのは不可能だ。
雑談部なら言葉を蔑ろにするな、という牽制だ。
「ちなみに交渉を頼みたいなら弁護士がオススメよ。上手いこと部費を上げてくれるでしょう」
「それで部費が上がっても弁護士費用で大赤字だろうな」
桔梗は部活の予算も弁護士費用の相場のどちらも知らないが、弱小写真部の予算で弁護士が雇えるとは到底思えなかった。
部費を上げて、赤字を増やしていたら本末転倒甚だしい。
「弁護士が無理なら、そうね、相手の弱味を握ればいいじゃない。部費くらい上げてくれるでしょ」
「それって脅迫じゃねえか。ミスったら別の意味で弁護士のお世話になるぞ」
刑法第222条。
1、生命、身体、自由、名誉または財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、2年以下の懲役または30万円以下の罰金に処する。
2、親族の生命、身体、自由、名誉または財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者も、前項と同様とする。
いわゆる脅迫罪。脅迫は歴とした犯罪である。
「知り合いに犯罪をオススメできるかっ!」
「犯罪を唆したら、幇助と言って、こちらも違法よ。まさか雑談部から犯罪者が出てしまうとは……」
「だからオススメしないって!」
華薔薇は己の不甲斐なさを嘆く。身内からの犯罪者に未熟さを痛感し、至らない部分を反省する。
友達や後輩などに何故止められなかったのか、と責められる。教師でさえ庇ってくれず、途方に暮れる妄想で楽しむ。
実際に桔梗に何かあったら華薔薇は、飛び火しないように無関係を貫くか、関係者だとしても被害者を演じるだろう。桔梗を助けることはせず、のうのうと生きていくシミュレーションは何通りも想定している。
「わかってる、私を巻き込まないように配慮してくれてるんだな。桔梗は優しいな。うんうん、いい部員を持った」
華薔薇は親指を桔梗に向かって立てる。桔梗の考えはお見通しとばかりに後押しする。
「違うから! 俺が聞きたいのは交渉の仕方について。弱味の握り方でも、脅迫の仕方でもない」
「大丈夫よ。私は桔梗を蜥蜴の尻尾切りするから」
清々しい笑顔でとんでもないことをのたまう華薔薇。悪気なく切り捨て発言ができる華薔薇は端的に言って、常軌を逸している。
「見捨てる気満々かよ!」
雑談部の仲間を躊躇なく切り捨てる発言に桔梗も驚くばかり。たとえ冗談でも躊躇したり、申し訳なさそうな態度になりそうなもの。華薔薇には躊躇も遠慮もなく、思い切りしかない。
「…………マジか」
華薔薇が普段から冷淡な発言をしているのを知っているのに存外ショックを受けている桔梗。
華薔薇から信頼されていないこともショックだが、華薔薇の言葉で本気で落ち込むことも意外ではあった。放課後に会うだけだか、思っている以上に好意を持っていた。
「どうして、しょげているの?」
「……いや、なんでもない」
華薔薇に話しても解決しない、桔梗が自ら答えを見つける問題だ。
桔梗が華薔薇をどう思っているかなんて、桔梗以外の人が解決できる問題ではない。悩み抜いたら答えが出るのか、時間が解決してくれるのか、神のみぞ知る。
「はぁー、仕方ないわね。しょげてる桔梗のために、今日は交渉について雑談しましょう。特別よ」
特別とは言うが、桔梗が持ってくる悩み相談にはすったもんだの末、答えている。つまり特別にさほどの意味はない。
「おお、マジか。ラッキー」
ただ、特別と聞いて喜ぶ人種も一定数いる。
「さて、交渉は対面したときが始まりじゃない、準備が大事なのは言わずもがな。では桔梗に問題、交渉の準備で大切なことは何?」
「前段階で必要なこと、つまり気合いだ」
「このおバカ。気合いで交渉が上手くいくなら、誰も苦労しないでしょ。交渉の準備で大切なのは、明確な目標を決めること。どのラインならOKなのかわからないと、着地点がわからないでしょ」
目標を決めれば、達成したか、未達成なのかわかる。事前目標を越えていれば、交渉は上手くいっている。逆に越えられないようなら、目標が高すぎたのか、相手を甘く見積もっているのかわかる。
また目標が達成できたら、以後の駆け引きは必要なくなる。時間や労力の短縮になる。
「目標を決めるのはいいけど、自分勝手に要求を通すだけでもダメ。相手にも利益を与えないと、長期的には不利になる」
交渉相手も人間である。一方に不利益を被ると以後の取引ができなくなる。一回こっきりの交渉で、評判を省みないのなら、相手からむしりとる一手がある。しかし諸刃の剣であることは忘れてはいけない。
「明確な目標も相手の利益も考える。言われてみれば当たり前だよな」
弱小写真部の場合、具体的な部費の金額の設定。また部費が上がった際の弱小写真部の貢献内容を説明しないといけない。
「最低限の装備を整えたら、いよいよ交渉よ」
「最低限なのか? 他に準備があるなら、準備したほうがよくない?」
「そりゃ相手の戦力やライバルの動向が知れたら万々歳よ。でも弱小写真部に何ができるのよ。労多くして功少なし、交渉に注力した方が賢明よ」
部活動に配分する予算に限りはあるし、部費がほしいのは何も弱小写真部だけじゃない。事前に情報を得られたなら、いくらか交渉を有利に進められるかもしれないが、大局は左右しない。
なぜなら相手側の事情は交渉を進めたら、見えてくる。自分達の要求を通せばいいので、ライバルは出し抜く必要がない。
以上の理由から、わざわざ情報を集める積極的な理由はなくなる。部活動なら、情報収集に時間を使うより、実際に写真を撮ったり、写真の技術を磨いたりした方が、積極的に活動していると好印象を持たれる。
情報収集にかまけて、本業を疎かにしてはいけない。
「交渉って手ぶらでいいんだ。もっと臨戦態勢を整えないといけないのかと思ってた」
手ぶらでオッケーかは時と場合による。弱小写真部には無用なだけ。
「自分の立ち位置を決めたら、いよいよ交渉よ」
目標を決めて、終わりではない。相手に自分の要求を通す必要がある。
「交渉において必要なのは相手を言い負かす話術でも、萎縮させる強い態度でもない。相手に好かれる、この一点で交渉は有利に進められる」
言い負かされた相手は、いくら正当性を主張されようと心にしこりが残る。強い態度で脅迫すれば、白い目で見られるようになる。
逆に好かれれば、贔屓してもらえる。要求が過大でも、この人のためならと動いてくれたりする。好意を持たれて損することはない。
「よし、なら現金を配って手っ取り早く好感度稼ぎだ」
「そうそう、部費の予算アップを見越して先に現金を配る、ってバカ! 部費アップのためにお金を使ってたら、プラマイゼロでしょ」
金の切れ目が縁の切れ目。金銭で繋がった関係は脆い。
お金で稼げる好感度なんて微々たるもの。やるだけ損な行動だ。
「普通に挨拶するとか、笑顔で接するとか、制服は着崩さないとか、基本的なことをやってればいいのよ」
「それなら俺もできる。(ニコッ)」
「今さら取り繕っても無駄よ」
相手に尊敬されて、この人についていきたいと思わせる必要はない。親しみやすい、話しやすい、と思ってもらえれば問題ない。
既に印象が決まっている知り合いには通用しないので要注意だ。
初対面なら、人として基本ができていれば、相手に悪印象を抱かれることはない。最初を突破すれば、後はよくある交渉テクニックを駆使するだけ。
「後は相手の話をしっかり聞いて、適度な相づちであったり、内容をコンパクトにまとめたりして話を聞いてくれていると意識させればいい」
話を聞くことで相手の心を掴むことができる。手短な質問をするとより好感が持たれる。
「そして、相手方のメリットを提示しつつ、自分の要求を通す。交渉なんて、最初に大きい要求を提示して、断られたら段々要求を小さくしていく、ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックを使えばいいんじゃない」
ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック、日本語では譲歩的要請法。
最初にどう考えても無理な要求を提示し、断られたところで少し下げた本命の要求を提示するテクニック。
元は1975年のケルン大学に行われた研究だが、有名になった現在でも有効性が確認されているテクニックだ。
「最初にビッグな要求をするのか。それなら、華薔薇もっと優しく俺に接してくれ」
「嫌よ」
「なら、少し優しくしてくれるだけでいいから」
「断る」
「ちょっびっとだけでいいから、配慮をお願いします」
「無理」
「嘘じゃねぇか。ひとつたりとも要求が通らねぇ!」
あくまでドア・イン・ザ・フェイス・テクニックは要求が通りやすくなる交渉のテクニック。必ず相手が同意するとは限らない。
「このように要求が通らないこともあるから、気をつけるように」
調子に乗らなければ、弱小写真部の予算が減ることはない。落ち着いた態度で臨めば、いくらかの部費アップは狙えるはずだ。
「とはいえ、どうしてもノーを突きつけられる可能性は否定できないから、ノーの種類にもいくつかあることを教えましょう」
「ノーの種類? そんなん嫌だからだろ」
桔梗の物言いは決して間違っていない。しかし、嫌の一言で済ませるほど、人間の感情は単純な仕組みではない。
「ひとつめは、とりあえずのノー。理由はいくつか考えられて、何も考えていない場合、もったいぶっている場合、問題が大きすぎる場合、責任者がいない場合、などか考えられる」
「わかるー。別に受けてもいいけど、なんとなく断るときあったわ」
反射的にノーと言ってしまう人もいる。一度ノーと言われても諦める必要はない。
「この場合の対処は簡単よ。もう一度アプローチする」
両者にメリットがある要求なら、考える時間を与えれば要求が通る可能性が増す。決して一度では諦めてはいけない。
「ふたつめのノーは、第一印象がひどい場合。強引に話しかけてきたり、時間に遅れたり、自分の都合を一方的に押しつけてくる、などで第一印象が悪くなって、以後の交渉に引きずるなんてざらよ」
「それもわかるー。第一印象で合わないと思った奴から、うまい話を持ちかけられても疑っちゃう」
第一印象というのは簡単には覆せない。一度悪印象がついた相手がボランティアに精を出していても、裏があると疑ってしまう。
「一度ついた悪印象は厄介よ。誠心誠意詫びて、信頼を取り戻さないとね」
関係をリセットして、また改めてアプローチするしかない。
「みっつめのノーは、自信のなさから来るノー。直接会話したら説得されてしまうから、最初にノーを突きつけて距離を取る」
「ああ、押しに弱いのか」
自信がないから断ったら悪いと感じて断れない。
「この手のタイプは直接話さえすれば押し通せる。あんまり無茶をすると爆発するから、そこだけは要注意ね」
あまり追い込むと何をするかわからない。一方的に押しつけるのではなく、相手の話にも耳を傾けないと痛い目を見る。
なんでも言うことを聞くからと言って、なんでも押しつけていい理由にはならない。窮鼠猫を噛むを忘れてはならない。
「よっつめのノーは、必要性が感じられないノー。いくらメリットを提示しても、欲しくないものには微塵も魅力を感じない」
「それもわかるー。クラスメイトに化粧水を力説されたことがあって、全然欲しくないから、ピンとこなかったんだよ」
どんなに素晴らしいプレゼンをしても、将来使う可能性がゼロのものは必要ない。
料理をしない人によく切れる包丁を販売しても買ってもらえない。需要と供給の見定めが必要だ。
「アプローチの仕方としては、将来必要になるだとか、必要になる新しい気づきを与えるなどで要求を通せるようになる。これはかなり手強い相手よ」
相手の考え方を変えないといけないので、いろんなたとえ話をしたり、意外なメリットを提示して興味を持ってもらわないといけない。
交渉相手としてかなりの難敵である。
「いつつめのノーは、不信感からのノーよ。個人の不信感と組織の不信感のふたつにわけられる。個人の不信感は以前やらかしたことから、組織の不信感は所属する仲間の不祥事や迷惑行為からくる。不信感を抱いている相手は何をしてなくても警戒される」
「それも、あるな。いっつもやらかしてる奴がいるけど、そいつが来ただけで警戒するもん。何しでかすか戦々恐々だよ」
不信感が誤解なら、第三者を通して誤解を解くしかない。仲間の不祥事の場合は切り離して考えてもらい、個人の信用を取り戻すしかない。
「とりあえず相手の話を聞いて、何に不信感を抱いているか特定すること。原因がわからなければ対処のしようもない。原因がわかれば後は、信用回復に全力で取り組む、これしかない」
全力で取り組んでいれば、相手も絆されてコロッと態度を変える。気長に取り組むのも悪くない。
「タメになる。ノーに種類があるなんて、普通に生活してたら気づかない。ほんと華薔薇は物知りだな」
「どういたしまして。ともかく言えることは、一度ノーを突きつけられても諦めないこと。ノーの種類は複数あるから見極めること。ノーをイエスに変える努力をすること。この三点を忘れないように」
「諦めない、見極める、ノーをイエスに、だな。よっしゃこれで俺も交渉のエキスパート待ったなしだ」
雑談程度の知識では残念ながら、エキスパートにはなれない。精々が日常生活を有利に進める程度だ。
交渉を専門にしている人には朝飯前の技術でしかない。
「いざ交渉となるとのらりくらりと回避してくる奴とかいるけど、そんな奴の対処法が知りたいんだけど?」
交渉においてノーと言わないこととイエスはイコールにならない。よりよい条件を引き出すために煮え切らない態度で譲歩を狙っていることはある。最初に決めた目標を下回らないなら、譲歩したらいい。相手は勝ったと思って恩を感じる。もし下回るなら交渉決裂だ。毅然とした態度でノーを突きつける。
他にも、決めたくても決められない可能性も考慮しないといけない。
「もしかしたら、決定権を持ってない可能性があるわ」
「決定権? 決める権限がないのに、交渉の場に臨むのか? いちいち確認してたら、時間の無駄だろ」
「ごもっとも。だから、いくら決定権のない人と交渉しても埒が明かない。速やかに決定権を持つ人を見定める必要がある」
組織などは簡単でより上位の役職を持つ人が決定権を持つ。家庭なら財布の紐を握っている人だ。
友人知人の集まりなら、よく視線を集める人が上位者である。
「交渉の窓口となる人と許可を出す人が一致するとは限らない。ビジネスの世界では担当者と打ち解けて、手応えを得られても、交渉が失敗に終わるケースなんて星の数ほど転がっているわ」
「なんてトラップなんだ。知らなかったら、尖兵に全力で突っ込んで、本丸で力尽きるはめになるとこだった」
窓口の人に一生懸命プレゼンをして通ったと思ったら上役に案内され、同じプレゼンをする。二度目のプレゼンは、精も根も尽き果てた状態で行うので精彩に欠ける。通る要求も通らなくなってしまう。
誰が何を担当しているか判断を間違うと交渉は失敗する。
相手を見定めることも交渉において大事である。
「気をつけるのは何も役割だだけじゃないわよ」
「まだ気をつけないといけないのかよ。俺には無理だ。そんなにあれこれ気を配れない」
交渉は互いに利益を得るために行うもの。どちらにも思惑がある以上、油断したら一瞬で食われる。
「交渉の結論を急ぐ人よ」
「それの何が問題が? 無駄に長引くより、早く終わるなら万々歳だろ。トイレに行きたいだけかもしれん」
一見スピーディーな交渉は早く終わってお得と感じるが、早く終われば相手側の事情が見えてこない。
「急ぐには急ぐだけの理由があるのよ。トイレに行きたいなんてちゃちな理由以外にね」
「うーん、急ぐ理由か。締め切りが近いとか?」
「それはあるかもしれないわね。いついつまでに納期しないとペナルティがある。これなら、足元を見れるから交渉は有利に進められるわ」
家庭では、すぐに現金が必要だから手っ取り早くまとまったお金になる車を売る。こんな事情を知られたら、ディーラーに足元を見られても仕方ない。
時間をかければ相場に持っていけるかもしれないが、タイムリミットも同様に迫っている。間に合わなくなるくらいならと、少し低めの金額で車を手放すことになる。
「相手方の喫緊な事情は足下を見るか、恩を売るか、とてもありがたい交渉になるのは間違いない。でもね、急ぐ理由はもっと他の退っ引きならない事情が隠されているのが常道よ」
「なんだって? もしかして、悪いことをしてるのか」
「正解。自分達の不都合な真実が露見する前に交渉をまとめたいから、交渉を急ぐ。裏の事情を読み取れないと、不利な条件で手を結ぶことになるでしょう」
時間をかけたら、不都合な真実に気づかれて、交渉そのものがパーになる。それくらいなら、多少不利な条件でも要求を飲む。
一度契約を結べば勝ったも同然。正式な手続きを交わしたのなら、後から不都合が明るみに出ても、契約書を盾に押し通せる。
ブラック企業や詐欺まがいの企業の常套手段である。
犯罪と立証できるなら警察や弁護士に駆け込めば取り戻せるが、本人の注意不足なら泣き寝入りしかない。
「交渉は自分一人でするものじゃない。相手もいることを忘れちゃダメ。そして、相手にも意図があることを忘れないこと」
「まったく、悪い奴等もいたもんだ。焦って決めたら損だな。どんな契約を結ばされるか怖くてトイレにも行けないぜ」
「えっ!? そんなにトイレが好きなの? トイレに行きたいなら、さっさと行きなさい。ここで漏らすなんて勘弁してよ」
桔梗の意外な一面に驚愕を隠せない華薔薇。個人の趣味にとやかく言うつもりはないが、迷惑だけはかけて欲しくないと切に願う。もちろん、わざと曲解しているのは言わずもがな。
「ちっがーう。別に今はトイレに行きたくないから。我慢なんて全然してない。俺をトイレ大好きキャラにするな!」
桔梗も高校生。監禁でもされて行動の自由を奪われない限り、漏らすことはしない。
「なんで、交渉の話をしてたら、トイレの話にスライドすんの?」
「それは決まっているでしょう。ここが雑談部だからよ」
「いや、雑談部の一言では片付けられんよ」
桔梗は否定するが、雑談部は横道にそれることも含めて活動内容だ。交渉の話からトイレの話に移行するなんて朝飯前だ。
「枠にとらわれるなんて、桔梗はまだまだね」
「なんかよくわからんけど、半人前の烙印を押されたっ」
自分の中で完結して詳細を語らないのは、華薔薇の悪い癖だ。華薔薇は納得するが、周囲はモヤモヤが残る。
けれども当人には悪癖を直す気はないから、余計に質が悪い。
「すぐに慌てふためくようでは、交渉人としては青二才ね」
「えっ、俺が悪いの? 華薔薇がやんややんや言うからだろ。俺だってやればできる」
「本当に? とても疑わしいわ。でも、そこまで言うなら交渉エリートの条件をいくつか教えてあげましょう。桔梗はちゃんと当てはまっているかしら?」
「どんとこい。俺にかかればパーフェクト間違いなし。全てを満たしたパーフェクトヒューマンと呼ばれるだろう」
やればできる、とこれからの桔梗に対し、華薔薇は当てはまる、とこれまでのことを指摘している。
いつの間にか話がすり変わっていることに疑問を抱かない桔梗である。
「まず始めに、約束の時間を守る」
「余裕余裕。俺は五分前行動が当たり前だ」
「あらそうなの? 知らなかったわ、桔梗が時間を守っているなんて。だって雑談部に来るのはいつも私より遅れているのに」
「うぐっ」
雑談部に開始時刻は設定されていない。厳密には約束をしていないので、約束を破っていることにはならない。
「続いて、挨拶は丁寧にする」
「おはようからおやすみまで、ちゃんと挨拶は忘れてないぞ」
「あらそうなの? 雑談部に来ては、挨拶するより前に誰とも知らない人の悩み相談を持ちかけている人は言うことが違うわね」
「ぐはっ」
帰り際の挨拶はしているが、入室した際の挨拶はかなりの確率でしていない。
「次は、身だしなみを整える」
「これは問題ないだろ。特に着崩してない」
「一番上のボタンが開いているけど許容範囲ね。……ちっ」
「舌打ちした。なんで、俺がクリアしてると舌打ちすんだよ。俺が何かしたか」
ボタンがひとつ開いているくらいではとやかく言われない。だが桔梗は華薔薇の舌打ちの方が気になるようで、身だしなみのことは忘却の彼方だ。
「……続いて、落ち着いた態度ね」
「舌打ちされた後に落ち着けるかっ!」
「普段から桔梗はうるさいからね。もっと落ち着きを覚えるように。幼稚園児だって、もう少しマシよ」
普段からテンションの行き来が激しい桔梗。この条件は疑う余地なく不合格。
「お次は、相手の話に相づちを打つこと。まあ、これは桔梗もできてるわ。むしろ雑談部なのに、相づちのひとつも打てないようじゃ、部員失格」
雑談部は雑談のトレーニングをする部活ではなく、雑談を実践する部活。雑談ができない人はお断りだ。
「話を聞くのは得意だ。ふふん」
華薔薇に褒められてドヤ顔を決めている桔梗はとてもうざかった。雑談部では聞き役に回ることが多いから、知らず知らずに鍛えられていた。
「続きまして、いきなり相手の発言を否定しない」
「したことあったっけ? あったような、なかったような、全然覚えてない」
「これについては△かしら。完全に否定したりはないけど、否定そのものはあるからね」
雑談部では発言を否定することは問題ない。ただ交渉においては相手の印象を悪くするタブー行為だ。
「さらに、相手を複数人いる中で酷評しない」
「それなら大丈夫だ。そんな酷いことは一切しない」
「しないんじゃなくて、語彙力が少ないからできないの間違いでしょ」
桔梗の語彙力が貧弱なのは揺るぎのない事実だが、それと酷評するかは別問題。罵倒なら小学生レベルの言葉十分である。
実際に行おうものなら、知能の低さが露呈するので百害あって一利なしだ。
「最後に、交渉相手から好意からの提案は素直に礼を言うこと」
「お礼は大事だぞ。何かしてもらったら、ありがとうございます、だな」
「不本意ながら、お礼を言える子なのよね、桔梗は」
何か裏があると思っても桔梗は必要なら、お礼が言える。
「全問終了したわね。後は結果発表ね」
質問しながら集計も済ませている。
「結果、8点満点中、3.5点ね。あら意外に点数取っているわね」
心底意外という表情を浮かべる華薔薇。
「俺をなんだと思ってるだよ。えっ!? いやいや3.5点だって? 華薔薇ともあろうお人が計算ミスしてるぜ、正解は4.5点だろ」
「見解の相違ね。私からしたら3.5点よ」
「いやいや、4.5点の間違いだろ。どう考えても俺の方が正しい」
華薔薇と桔梗の意見は平行線。どちらも譲らないから、議論がヒートアップしていく。間を取って4点で決着する生温い展開は望めない。
「そんなに言うなら、4.5点の交渉力で私と交渉してみなさい。できたら4.5点だと認めましょう。できないようなら、3.5点よ」
「その勝負乗った。俺が4.5点の男だと思い知らせてやる」
売り言葉に買い言葉。桔梗は華薔薇の言葉に乗せられて、不利な勝負に挑む。
ここに低レベルなバトルが勃発する。
そもそも勝負に乗った時点で桔梗の勝利は絶望的だ。華薔薇と言葉の勝負で勝つのは万にひとつも可能性がない。
「……交渉の基本はまずふっかける。両者のメリットを提示する。よし、覚えてる、俺ならできる」
雑談した内容をひとつひとつ思い出して準備を整える桔梗。対して華薔薇は静かに待つ。普段通りに雑談をするだけ。
勝っても得るものはなく、負けても失うものはない。気負う必要はない。
「いいか華薔薇、俺は4.5点の男じゃなくて、5.5点の男だ」
「なるほど。それで、5.5点の根拠を教えてもらえるかしら。ただ闇雲に言っているようだと認められないわ」
「えっ!? えーっと、俺なら5.5点くらいあってもおかしくないだろ」
根拠もなく、ふっかけたら説明ができない。しどろもどろな醜態を晒しては、不信感が募る。
大きく見せるのは大事だが、大きく見せれるだけの理由は必要だ。単に大きく見せるはったりは華薔薇には通用しない。張り子の虎はいかに騙すかが重要である。
「何それ。単に大きな数字を言っただけなのね。説明できるだけの材料を揃えてから、出直してきなさい。よくもまあ、貧弱な武器で挑む気になったわねーー」
逆に感心するわ、と華薔薇は褒める。虚勢の張り方だけは天下一品だ。
窮鼠猫を噛む、どんなに小さき者でも追い詰められたら反撃する。たとえ敵が強大でも一矢報いる気持ちは捨て去れない。
「5.5点は諦めるしかない。次だ、次。相手のメリットの提示だろ。……4.5点の俺なら交渉できるだろ。雑談部の交渉役を任せてくれ」
「数字が上がっても実力が伴わないと意味ないでしょ。因果が逆なのよ、実力があるから、点数が上がる。だから数字を上げても私は桔梗に交渉を任せない。いえ、任せられない」
点数というのは実力の指標になる。相手を知らない場合は判断材料が少ないから、点数も大事な指標となる。
しかし相手のことを熟知しているなら、点数より実力を重視する。わざわざ点数で判断する必要はない。
「てんでダメね。ふっかけるにしても、メリットを提示するにしても、全然自分を理解していない。桔梗はやっぱり3.5点で十分よ。むしろ3.5点でも過大かもね」
桔梗に交渉させても好ましい話題がひとつも上がらない。教訓にもできないと判断した華薔薇は反撃に出る。
無価値な交渉ごっこを終わらせるために。
「いいこと桔梗、世の中には桔梗よりも交渉が下手な人はいるの。さっきの条件にひとつも当てはまらない、0点の人もいる」
「ゼロ人なんてことはないだろうな、探せば」
能力地が極端に高い人、もしくは極端に低い人は必ずいる。桔梗にだってずば抜けて高い能力は確実にある。逆に全く適正のない能力も存在する。
「0点、1点、2点、桔梗はこの点数をどう思う?」
「可哀想だけど、交渉は向いてないと思う」
客観的に条件に当てはまらない人は交渉事に向かない。一般的な相手と条件をすり合わせて、着地点を探るやり方はできない。
「そうよね。なのに桔梗は3.5点もある。これって素晴らしいことじゃない」
「確かに。なんだか悪くないな」
「でしょ。決して3.5点は低くないのよ。誇っていいわ」
「そうなのか。よし、俺は3.5点の男。これからは3.5点で生きていく」
華薔薇の反撃終了。
自分より下と比べて優越感に浸るのはとても心地よい。自分が優れていると錯覚するので、全能になった気分を味わえる。
一度味わった快楽からは人は簡単に抜け出せない。
桔梗はただの高校生。一度優越感を覚えたら妥協してしまう。自分を完全にコントロールする術は持ち合わせていない。
ただし、華薔薇の方法にはとてつもないデメリットが存在する。それは成長を阻害してしまうこと。
人は下を見ると上を見なくなる。下を探しては優越感に浸り、下をどこからともなく探しては優越感に浸る。いつしか下を探すことに執着して、上を気にすることはなくなる。
上を見なければ成長はなく、いつまでも足踏みして同じ場所に居続ける。
「ふんふーん、俺ってば最強の交渉人。向かうとこ敵なしだ」
今すぐにでも鼻歌を歌いそうなご機嫌の桔梗。この極楽気分は長くは続かない。
なぜなら天狗にならないように華薔薇が鼻を叩き折るからだ。
「ウキウキのルンルンしちゃってるようだけど、桔梗は私に言い負かされてるのよ。交渉力は私の方が上だから。決して交渉が上手いなんて勘違いしないように」
「ねごじぇっと」
現実を突きつけられて桔梗は膝から崩れ落ちる。束の間の極楽は一瞬にして地に落ちる。いや、地面を突き破る勢いだ。
落差が激しい分、落ち込みも大きい。
「……そうだよな、俺なんかが交渉うまいわけないよな……がっくし」
「うん、やっぱり桔梗はこうでなくちゃ」
とほほ、な姿にご満悦な華薔薇。
調子に乗っている桔梗は見たくない。見たいのは虐げられて凹んでいる姿。
オチがついたところで雑談部の本日の活動は終了である。
華薔薇が最高の気分の余韻に浸るという個人的な事情により、雑談部は閉幕する。
残念ながら桔梗に、華薔薇の意見を覆せる交渉力は備わっていなかった。
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