第7話 決意

「ごめんね、雫由」

「っ……」


手元にある御守りを胸の前で握りしめる。沸き上がる感情に自身が呑まれぬように。


「ねぇ、弥くん。鏡花水月って知ってる?」


年上らしく、そして纈の許嫁らしく微笑みながら問う。辛いのは弥も同じなのだ。もうすぐ夜が明ける。そうすればこの時間も終わってしまうだろう。だからこそ、このまま悲しみに包まれた雰囲気では終わりたくなかった。最後に会う事のできるチャンスなら、最後は暖かい空気で終わりたい。


「え?ううん、知らない」

「鏡花水月はね、鏡に映った花と水に映った美しい月が元になってるの。目には見えてもそれは実際に手に取ることができないでしょ?その様子を表すみたい」

「雫由──」

「……触れられなくてもこうして視えて、話せてよかった。弥くんの願い……私絶対に叶えるから。受け継いで纈さんに届けるから」


視界がぼやける。誤魔化すように見上げると、空は朝焼けが滲み始め、瞬いていた星は消えかけていた。


「私、自分と纈さんを比べて踏み出せずに悩んでたけど、幸せになる道に進んでいこうと思う。返事をしようと思う。だから見守っててね」


決意したのは弥の後押しがあったからというのもあるが、それだけでは無い。ずっと受け身で望まれて期待された正しい道や、在るべき姿だけだけしか進んで来なかった自身が決めた道を進めるようになりたかったのだ。不意に過去に言われ続けていた言葉が雫由の脳裏に浮かぶ。


『お前は綾織家を継ぐもの』

『巫女としてやり遂げなければいけない』


数々の言葉。行先も人に委ねてばかりで己の感情など二の次だった。この選択は巫女としての雫由ではなく、綾織雫由としての選択なのだ。


「……ありがとう弥くん」


柔和な笑みを浮かべると、弥は驚いたように目を見開いた後、気遣うように雫由の様子を窺う。その表情は幼い頃に何度も見てきた表情そのものだった。


「雫由は本当にそれでいいの?後悔しない……?」

「しないよ。でも最後に一つだけ聞きたいことがあって……弥君はどうしてそこまで私達を応援してくれるの?」

「それはね、僕が幼い頃に二人を見てたら、すごく楽しそうだったから。雫由も兄上もずっと笑ってて……それ見て僕は嬉しかった。だって大好きな二人が、幸せそうにしてたからっ……」


告げられる言葉とは裏腹に、弥の顔は泣き出しそうに歪んでいる。なにかを堪え、耐えるように。


「──雫由、兄上をよろしくね」


朝日が昇り、山を、町を照らしていく。まるで雨上がりの空のように光が雲間から射し込み始める。目の前が霞んでいるのは朝日のせいか、はたまた自身に異変が起こっているからかは分からない。ただ雫由の意識が途切れる瞬間、視界に映った弥は穏やかな笑みを湛えているように見えた。


***********

一方その頃。ひと晩泊めてもらった纈は挨拶するために部屋を出た時、雫由の部屋が騒々しいことに気づいた。慌てて声の方に駆け込むと、雫由の父である捷が切羽詰まった様子で入口に立ち尽くしていた。


「おはようございます。捷さん……どうかしましたか?」

纈が尋ねると普段の冷静さをかいた捷が恐る恐る振り返った。

「ああ、纈さん。実は娘が何処にもいないのです。部屋に入ったら綾織神社の記述が載っている本だけがあり。雫由は夜中抜け出したのかもしれないのですよ」


衝撃的な言葉に纈の思考が一瞬停止する。本の内容を見ると丑三つ時に神社に行くと霊験を視ると書かれている。そこで蘇るのは、昨夜の雫由の様子だった。突然山の事を聞いてきては思い詰めた表現をしていた雫由。嫌な予感が纈の胸に渦巻く。恐らく雫由は山に向かったのだろう。


「っ、僕に探しに行かせて貰えませんか。思い当たる節があるんです」

もっとしっかり止めておけば雫由は行かなかったかもしれない。


(……自分にも責任はある)


雫由は余程の事がない限り言いつけは破らない。昔から素直で何事にも一生懸命な彼女を見てきたからこそ、それは確信出来た。


「しかし、纈さん。場所によっては危険では……」

「出過ぎたお願いをしてしまい、すみません。ですがここは任せてもらえないでしょうか」


纈の決意に暫し逡巡していた捷はおもむろに頷く。


「纈さん、迷惑をかけてすみません。雫由をお願いします」

「はい……ありがとうございます」


一礼して纈は鳥居のある山へと急ぐ。無事でいて欲しい。ただその一心で駆けていると、やがて数メートル先に山が見えてきた。幼い頃に弥が向かったと思われる山。朝日が出ているというのに山道は薄暗い上に険しい。仮に雫由がこの道を突き進んだとすればそれは当然真夜中。無事でいる方が奇跡のようなものだ。


──もし足を滑らせていたら。


今にも崩れ落ちそうな足場を尻目に、恐ろしい思考が纈の脳を埋め尽くす。無理やりそれを振り払うと纈はただ前を見据え、再び山道を登り始めた。

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