36. さよなら親類

 扇風機の回る音が響く部屋で、ひかるとみことは向かい合って座っていた。そのようにして兄の顔を見るのは、ひかるにとってずいぶんと久しぶりのことだった。

「電話でもちょっと言ったけど」

 みことはわずかに頭を掻き、平坦な口調で話し始めた。

「叔父さん、もうそろそろ本当にまずいんだよ。おまえには連絡しなかったけど、三月の末に自殺未遂みたいなこともしてさ。最近なんか、言ってることもよく……ボケるにはまだ早いんだけどな」

 ふたりの叔父である久保多花寿タカヒサは、かつてそれなりに成功した音楽家だった。しかし、二十年ほど前に兄——つまりみことたちの父を亡くし、それをきっかけに精神状態がひどく不安定になってしまったまま今に至る。

「たぶん、来月には入院することになると思う。とりあえず報告だけになるけど、こっちはそういう感じだから」

 窓ガラスを越えきれずにくぐもった蝉の声がする。ひかるは一言「そうだったんだ」とつぶやき、つけ加えるように「ごめん、あんまり帰れなくて」と言った。

「いいよ、別に。おまえ、母さんと会いたくないんだろ」

 父の死やそれに関連して発生した諸問題はひかると母との間に軋轢をもたらし、その結果としていまだそこには浅からぬ確執が存在していた。それをみことは誰よりもよくわかっている。ひかるはそっと視線を落とし、フローリングの上に溜まった日差しを見つめる。

「うん……会いたくないわけじゃないんだけどね」

「まあとにかく、おまえが気にするようなことはないから、好きなだけ先生のとこで働いてればいいよ」

 その言葉にひかるは笑った。みことも弟の笑顔に頬を緩める。

 しばらくして沿島と白澤が帰ってきた。玄関のドアが開く音と同時に「久保さん」と沿島の呼ぶ声が聞こえ、みことたちは揃ってそちらへ顔を出す。

「あ、すみません。ええと、ひかるさんのほうです」

「なに、どうしたの?」

 白澤とみことが居間へ入っていったのを見届け、声をひそめながら「嗣形さんのことなんですけど」と沿島は言った。本人はひとり暮らしだというが、ペンション内に誰かがいるのを昨日も今日も目撃しており、そしてそれは町中に貼られている人捜しのポスターに載った人物と似ているように思われる、と。ひかるは首をかしげる。

「ぼくは見てないからなんとも言えないけど、もし本当に嗣形さんのペンションにあのポスターの人がいるとしたら、それってさ……」

 最悪の事態が思い浮かび、彼は口をつぐんだ。ほとんど同じことを考えていた沿島も神妙な顔をしている。彼らはよく陽光の差し込む廊下でしばし押し黙っていた。とはいえそれは不確かな推測でしかないため、みことや白澤に伝えるのはやめておこう、ということで合意する。

 昼食の時間になり、全員で食卓を囲む中、沿島が嗣形から花火見物に誘われたことを話すと、みことははしゃいで「やっぱり夏といえば花火だよなあ」と言った。白澤もまんざらでもない様子だ。ひかると沿島だけが顔をこわばらせていた。

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