35. 夏の明甚坂

 次の朝、適当な食事を済ませたあと、ひかるとみことが何やら身内のことで話し合わなければならないというので、白澤と沿島は邪魔にならないよう小一時間ほど外へ出ていることにした。

 日差しはやや強いが、木陰には涼しい風が吹いている。ふたりはあてもなく近所をうろつき、やがて嗣形のペンションに辿りついた。玄関先で掃除をしていた嗣形は、沿島たちを見るとにこやかに声をかけてくる。

「おはようございます。お散歩ですか」

「はい、ちょっと」

「いいですねえ。今くらいはまだ涼しいですけども、昼はまたかなり暑くなるそうですから、気をつけてくださいね」

 嗣形と沿島がとりとめもない話をする中、白澤はふたりから一歩離れた場所で黙って立っていた。ふと、嗣形が「そういえば」と言う。

「みなさん、東京へはいつごろお帰りの予定ですか?」

「ええと、あさってぐらいだったと思います」

「ああ、それはよかった。明日、ふもとのほうで花火をやるんですよ。ここの庭からよく見えますんで、よろしかったらみなさんでいらしてください」

「本当ですか。ありがとうございます」

 そう言いながらなにげなく建物を見上げたとき、沿島はまたも長髪の人物を見た。二階の窓からこちらを見下ろしているようなその姿は、しかしすぐに消える。唐突に蝉がうるさく鳴き始めたようだった。

「……ところで、こちらにはご家族でお住まいなんですか?」

 沿島の質問に、嗣形は穏やかな顔のまま「いいえ」と答える。

「独り身でしてね、寂しいもんです。久保さんやみなさんがいらっしゃってから楽しくて。ですから、明日はぜひどうぞ」

「あ……そうなんですね。はい、ありがとうございます……」

 ではあの人影はいったいなんなのかと訊けるような雰囲気でもなく、それからしばしあたりさわりのない言葉を交わしたのち、掃除を終えた嗣形は「では、また」とペンションの中へ引っ込んでいった。路上に残された沿島たちの肩に、蝉がいっそうやかましく声を浴びせる。

 ふたりがみことの家を出てきてから三十分ほどが経過していた。帰るにはまだ早い。そろそろ太陽が高くなってきたため、どこか屋根のあるところにでも入って時間を潰そうということになり、沿島と白澤はとりあえずコンビニエンスストアへ向かった。その途中でやや長い上り坂に差しかかる。沿島はまぶたの上に流れた汗を手の甲で拭った。まばたきをしたその目が、道端の電信柱に貼られた紙をとらえる。この町を訪れてから何度となく見かけている、『キザキナツ』を捜すポスターだ。キザキナツは、どこかピントの合っていない写真の中で、カメラのほうを見ているとも見ていないともつかない目をしている。歩いている最中を写したものであるのだろうか、全体的にぶれが生じているが、その背格好はどうも昨日今日と嗣形のペンションで見た人物によく似ている気がした。

「どうした、沿島。日射病になるぞ」

 考え込んで足を止めた彼に、白澤がそう声をかける。いえ、なんでもありません、と答え、沿島は再び歩き出した。

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