34. 幼年時代

 そのペンションは老若男女問わず人気の出そうな小洒落た外装をしていて、経営不振に陥るのが不思議に思われるほどだ。聞けば、祖父の代から受け継いできた旅館を改築したらしい。すごいですね、と沿島が言うと、嗣形は「いえいえ、そんなことは」と謙遜してみせた。

 少々お待ちください、という彼の言葉に従い、ひかると沿島はロビーでしばらく待つ。大きな窓から差し込んでくる陽光が、消灯されている階段や廊下をも薄明るく照らし出している。なんとなく廊下の奥のほうを眺めていた沿島の目に、ふとそこを通り過ぎる人影が映った。それは一瞬のことだったが、どうも嗣形ではない、何やら背の低い長髪の人物であったような気がした。嗣形さんの家族だろうか、と思い、そのことをひかるに言おうとしたとき、ちょうど嗣形が戻ってきた。

「すみません、お待たせしました」

 その手にはめんつゆの瓶だけでなくトマトやナスといった夏野菜の入った籠も抱えられていた。彼は「畑で採れたものなんです。ついでにどうぞ」と言って微笑む。ありがたく受け取り、ふたりは帰路についた。

 しかし土地勘のない彼らである、そうやすやすと帰ることができるはずもない。盛大に道を間違え、まったく見覚えのない場所へ出てしまった。スマホで地図を開こうとするが、電波状況が悪く読み込みが遅い。かろうじて画面の上半分に表示され始めた経路案内を見ながら歩みを進めていると、途中で大きな自然公園の前を通りかかった。地図上では『県立植戸北自然公園』となっている。「こういうところ、実家の近所にもあったよ」とひかるは言った。

「自然公園ですか?」

「そうそう。うわ、懐かしいなあ。池があってね、ボートに乗れるんだけど、そのボートがすっごくボロくてさ。転覆するんじゃないかって怖かったな……楽しいんだけどね」

「いいですね、そういうの。ご家族で乗ったりしたんですか?」

「うん、まあ、兄さんとね。あの人って器用だから、ボート漕ぐのうまいんだよ」

 兄弟姉妹がいないため、ひかるとみことの仲に若干の憧れがある沿島は「へえ! かっこいいですねえ」と相槌を打つ。ふたりはそうやって会話しつつ、三十分ほど歩いてようやく家へ帰りついた。玄関をくぐるより早く、窓を開けて煙草を吸っていたみことが彼らに気づき、大きく手を振ってくる。

「おかえり。どうした、だいぶ遅かったけど」

「コンビニになかったんだよ、めんつゆ」

 経緯を説明すると、みことは笑って「よかったなあ、野菜もらえて」と言った。

 その日の夕飯は夏野菜カレーであった。食事中、ひかるが先ほどの道中で自然公園の前を通ったと話したことを皮切りに、久保兄弟の幼少期の思い出話に花が咲く。

「——それで、その階段をひかるが自転車で降りようとして転んだんだよな。もう、なんであんなことしたんだか……」

「そんなこと言ったら兄さんだってブランコの上で無理やり逆立ちして落ちてたじゃん」

 ときおり笑いも起こるような和気藹々とした雰囲気の中、ゆっくりと夜は更けていくのだった。

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