夏休み編

31. 兄は気まぐれ

 八月となった。夏季休業期間真っ只中の八条目大学には太陽のもとサークル活動にいそしむ若者たちの晴れやかな声が飛び交っているわけであるが、そんな様子を尻目にハクタク研究室内の爽快でないことといったらもうとてもではないが言葉では表せないほどだ。いったいここで何が行われているのかというと、膨大な資料の山に埋もれて紛失した重要書類の捜索であった。ひかるのみならず、本来なら自宅で休暇を満喫していればいいはずの沿島までもが強制的に呼び出され、この世の終わりのような表情でたった一枚の紙きれを探している。

 そんな殺伐とした空気の中に、突如として軽快な着信音が鳴り響いた。ひかるが机上に置いてあったスマホを手に取る。

「もしもし? ああ、久しぶり。うん、元気だよ。そっちはみんな元気してる? 叔父さんは、うん、最近大丈夫? ……そう。うん。……あ、へえ、今? 埼玉? そうなんだ。ああ……うん、わかった。訊いてみる。……はい。じゃあね」

 電話を切った彼に、沿島が「どなたですか?」と尋ねると、「兄さん」という答えが返ってきた。

「あっ、お兄さんいらっしゃるんでしたっけ」

「うん。あれ、言ってなかったかな? 久保みこと。ここのOBだよ」

 そこへ白澤が割り込んでくる。

「みことがなんの用だ」

「あ、先生。来週って空いてます? 兄さん、夏の間だけ埼玉の山のほうで空き家を借りてるらしくて、久しぶりに先生にお会いしたいと……」

「それはなんだ、わたしに埼玉へ行けと言っているのか」

「簡単に言うとそうです。沿島くんもなんだけど、よければ泊まりにきてくださいとのことです。いかがですか?」

 沿島は目を輝かせて「ぜひ」と答え、白澤も「まあいいだろう」と了承した。かくして三人の埼玉行きは決定し、一時中断していた書類探しが再開される。

 それから数時間後、必死の捜索の甲斐あって無事に書類も見つかり、三人はコーヒーを淹れ一息ついていた。

「まったくひどい目にあった。なぜこの部屋はこんなにも整理整頓がなっていないんだ」

「ぼくがいくら片づけても先生がその上からどんどんものを置いていくんじゃないですか」

「片づけていると言うならどこになにがあるかくらい把握しておけ」

 白澤とひかるは口論に花を咲かせている。話を逸らそうとした沿島が「埼玉のどこなんですか?」と訊いた。

「ああ、なんかね、植戸北うえどきた市の反舞たんまい町っていうところだって」

 そう言いながらひかるはスマホを操作し「ここから電車で三時間ぐらいらしいよ」と補足する。

「へえ、結構かかりますね」

「だいぶ田舎だから、急行とかあんまり通ってないみたいなんだよね」

 ふたりの会話を聞いていた白澤は「どうしてまたそんなところにいるんだ、あいつは」と呆れ顔でつぶやいた。

「昔からそうなんですけど、辺鄙な場所が好きなんですって」

 変わってる人なんです、とひかるは自らの兄を評する。そしてコーヒーを飲み干し「ところでこれ、どうするんですか」と言った。先ほどの捜索活動によって地震の後のように荒れ果てた室内を見渡し、全員が無言になる。誰の心にもすべてを放置して帰りたいという思いが浮かんだが、散乱したものがドアの前にまで及んでおり、片づけないことには開きそうもない。

 結局この清掃にまた数時間を費やし、すっかり日も暮れてから彼らの散々な一日は終わった。

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