30. 一学期末に降る雨は

『……動物園では、双子のパンダ王王ワンワン龍龍ロンロンが——』

 六月下旬、八条目大学は期末試験期間に入っていた。試験という言葉の醸し出す圧迫感は、梅雨前線がのさばる空のけだるさと相まって、構内に薄暗く湿った空気をもたらす。

 白澤の研究室にはひかるがいた。適当なチャンネルに合わせたテレビから流れるニュースを眺めつつ、片手間に学生のレポートを仕分けしている。

『やっぱり元気に育ってくれるといいなって、思います』

 そこへ数十枚の答案用紙を抱えた白澤が現れた。「どうも、お疲れさまです」と声をかけるひかるをよそに、自席に答案を投げ出してコーヒーを淹れ始める。

 G.G.H研究会および金鏡会とのひと悶着から一ヶ月ほどが経ったのだった。ケシの栽培が警察沙汰になりG.G.H研究会が解体されたことは衝撃的な事件としてそれなりに学内を賑わせたが、すぐ話題にのぼらなくなった。夏季休業が終わるころにはすっかり忘れ去られることだろう。沿島が瑛美から聞いたところによると、あの後一度だけ麗美とふたりで訪れてみた例のビルはすでにもぬけの殻となっており、テナント募集の貼り紙が至るところにあったという。

『かわいいニュースでしたね。続いてはこちらです』

 作業が一段落したひかるは、午後一時過ぎを示す壁の時計を見て「ちょっとお昼買ってきていいですか」と外出の許可を求めた。

「だめだ。おまえにそんな暇はない」

 すげなく断られ、目の前に次の仕事を積まれる。ひかるは口を尖らせ、備蓄食料としていくつか棚に置いてあるカップ麺のうちから塩ラーメンを選んで取り上げた。湯を入れて三分待つ間に割り箸を探すが見つからない。

「先生、割り箸どこにやりました? 前、この辺りにまとめて置いたはずなんですが」

「なぜわたしがどこかへやったという前提で喋るんだ。おまえ以外にこの部屋の中のものを動かす人間はいないだろうが」

「ええ、ここの掃除をしているのはぼくだけですからね。たまには先生ご自身でやってくださいよ」

『なんと、突然の昏倒ということでね……』

 雨だれが窓ガラスに奇妙な模様を描いている。ひかるは棚と壁の隙間に落ちている何膳もの割り箸を見つけ、顔をしかめた。幸い袋に入っているので汚れてはないが、不快なものは不快だ。そうこうしているうちに三分が経過していた。律儀にも「いただきます」と手を合わせ、ひかるは簡素な昼食を始める。テレビ画面にはマイクを向けられて語る街頭の人々が映っていた。

『心配ですよね。大丈夫なんでしょうか』

 細い麺をすする合間に、細切れの野菜を箸の先でつまんで口に放り込む。楽しさのない食事だ。もっとも、今の季節特有の厚かましい湿気が充満した部屋では、どんなに豪華な料理を食べてもたいして楽しくはないだろう。

 コーヒーを飲み終えた白澤が答案の添削を始めようとしたところへ、ひかるは「そういえば」と話しかけた。

「三本木先生、今月末で退職されるそうですね。急ですねえ……なにかあったんですかね。そうだ、先生も聞きました? 三本木先生の本名。三木ミツキ淑夫トシオですって。ぼく初めて知りましたよ」

「ああ、そうだな」

『こちらのニュース、前田さんはどう思われますか?』

 ひかるは食事を終え、またもや丁寧に「ごちそうさまでした」と言う。雨はまだしつこく降り続いている。

『そうですね、やっぱり僕はね——』

 このとき以来、作家・三本木本三の名をおおやけに聞くことはなくなった。金鏡会はその名を変えどこかで存続しているという噂もあるが、それはこの話にはなんら関係のないことであるため、これ以上は触れない。

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