29. 神として軸がぶれている

 白澤は沿島たちを乗せたエレベーターが降りていくのを眺めていた。奥の部屋からはずっと山﨑と雁野の言い争うような音が聞こえていた。

「ハクタクさん」

 唐突に、朗らかな声が白澤を呼んだ。白澤は大きくため息をつき、その声の主を睨みつけた。それは三本木だった。彼は廊下の中途にある部屋の扉から顔をのぞかせ、白澤を手招きしている。いつものように明るい笑顔だ。

「三本木さん。あんた、つまらないことばかりするんだな」

 肩をすくめる三本木のもとへ白澤は歩いていった。

 部屋は狭く、上へ続く小さな階段がひとつあるだけだ。三本木の後についてそれを上る。そして辿り着いたのは、がらんとしてだだっ広い空間だった。隅にいくつかモニターらしきものがあるが、それ以外に特筆すべきことはない。ただ、壁一面にガラスが張られて大きな窓となっているのは異様にも思われた。よく見ればその枠には額縁のような装飾がなされてある。窓外にはちょうど大きな月が浮かび、さながら絵画だ。

「いやあ、迷惑かけたね。ごめんね、ハクタクさん」

 三本木は窓を背にして立ち、開口一番そう言って笑った。

「ああ、実に迷惑だ。あいつら、あんたの教え子だろう」

「そうだけど、よく覚えてたね。あの子たちがいたの、だいぶ昔だよ」

「望月のことだけは記憶にある。あいつは真面目な学生だった。わたしの授業もまともに受けていた」

 それを聞くと三本木はすかさず目を丸くして驚く。

「へえ! そりゃ覚えてるわけだ。珍しいもんね」

「喧嘩を売っているのか?」

 まさか、おれは平和主義者だよ、と言いながら彼はひらひら手を振ってみせた。白澤は鋭く舌打ちをする。

「あんたは加担しちゃいないだろうな。聞いていたんだろう、さっきの話。エレベーターを降ろしたのもあんただな。面倒なことに巻き込んでくれたものだ」

「うん、うん、ごめんって。いやあ、でもそもそも知らなかったよ。ケシねえ。そんなくだらないことしてたんだな。大きくなりすぎちゃうとだめだね、組織は。ハクタクさんの研究室くらいがちょうどいいよ」

「やはり喧嘩を売っているな。買うぞ」

「売ってないってば。好戦的だなあ、ハクタクさんは。人文系のくせに」

 三本木は微笑みを崩さないまま窓の外に視線をやり、ひとりごとのように話し出した。

「初めて会ったのって、三十過ぎたくらいのころだっけ? おれ、最初っからずっとハクタクさんと仲良くしたいと思ってさあ、いっつもこうやってフレンドリーに話しかけてたのに、全然仲良くなってくれなかったよね。おれはずっと根暗で陰気で友達のいない学生時代を送ってきたから……いや、友達がいなかったんじゃないなあ、友達になりたいやつがいなかったんだ……とにかくね、ハクタクさんとは友達になりたいと思ったんだ、だから頑張って笑顔を作るのに慣れて、喋るのも陽気にって心がけてさ。これでも親しみやすいって人気だったんだよ、ハクタクさん以外の人からは」

 白澤はそう語る彼をじっと見て、その言葉が途切れたところで口を開いた。

「ひとつ言っておこう。わたしがあんたを嫌いなのは、あんたがいつもそうやって腑抜けた顔をして、間延びした話し方をして、阿呆を装っているのが薄気味悪いからだ」

「……なあんだ」

 三本木は眉尻を下げ、悲しそうな表情を作る。

「そうだったのかあ。じゃあおれは二十年以上も無駄なことをしてきたんだね。でも今更直せないなあ、この顔つきも、この喋り方も……」

 それからしばらく彼は黙っていたが、ふと明るい声に戻り「長々と引き留めてごめんね、ハクタクさん」と言う。

「本当に悪いと思う心があるのなら、一度くらいわたしの名を正しく呼んでみたらどうなんだ」

「それもそうだね、ごめんねハクタクさん」

「おちょくっているのか? いや、答えなくていい。おちょくっているのは充分わかっている。……そういえば、わたしをハクタクと呼び始めたのはあんただったな」

 心底うっとうしいといった様子の白澤に、三本木は笑顔で「恨んでくれる?」と尋ねた。

「訊かれなくとも、すでに長いこと恨みっぱなしだ」

「そう。嬉しいね」

「つくづくおかしな男だな、あんたは」

「あはは……ハクタクさんほどじゃないよ」

 じゃあね、と手を振る三本木に背を向けて、白澤は階段を降りていく。振り向くことはなかった。

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