第44話 Epilogue

「澪! ついさっき、瑞稀さんが目を覚ましたって……!」


 病院の待合室で私が一人、ソファに腰掛けていると、別室で警察から事情聴取を受けていたカナが駆け足で戻ってきた。私は俄に前かがみになりながら「本当?」と訊き返す。


「うん。でもこれから検査があるからまだ面会はできないって。警察も話を聞きに行くだろうし、無事に対面できるまではまだ結構かかるかも」


「そっか。何にせよ、瑞稀さんが無事で良かったな」


 うん、と相槌を打ちながら、カナが私の隣に静かに腰を下ろした。普段は多くの患者で賑わっているであろう待合室だけど、今は人気がなくガランとしている。外来の受付時間をとっくに過ぎているからそれも当然なのだけど、なんだ寂寥感を覚えてしまう。外は既に夜の帳が下りていて、街灯の放つ白々とした明かりがブラインドの隙間からほんのりと差し込んでいた。


 お姉ちゃんの心象世界から帰還した私達は、息はあるものの依然として昏睡状態だった瑞稀のために救急車を呼んだのだけど、その結果、ちょっとだけ面倒な事態に陥ってしまっていた。というのも、私達は救急隊員から警察を呼ばれてしまったのだ。大した怪我ではないものの瑞稀の後頭部は出血していて、そしてカナの霊槍には血痕がついていた。傍から見れば、完璧に暴力沙汰である。通報されるのも無理はなかった。


「……それにしても、なんだかいっぺんに色んなことが起こりすぎて、びっくりしちゃった」


 日頃は獰猛な獣のような強気な表情をしているカナも、今は流石に披露の色を隠せないようだった。どちらからともなく肩をくっつけて、互いに体重を支え合う。


 私達はしばらく、天井に取り付けられた蛍光灯の光を眺めながら、ぼんやりしていた。


「ねえ、カナ。一つ訊かせてくれない? カナは、私とお姉ちゃんとのやり取りを傍観する中で、どんなふうに答えを見つけたの?」


「ああ、別に複雑なことじゃないよ。澪が急に切腹なんてやり始めるものだから、何が何でもとめなきゃって気持ちになって。でもそれってある意味で私の我儘っていうか、咲さんじゃなくて澪が生きるべきだっていう、独善なわけでしょ? 結局のところさ。私がすべきことは責任が取れないからって何もかも放り出すことじゃなくって、皆が良い終わりを迎えられるよう精一杯努力することだったんだよ。二人を見てて、それに気づいたの」


「……そっか」私は短く相槌を打つ。やっぱり、カナはカナだ。迷ったり悩んだりすることはあっても、最終的には自分の力で立ち上がって、自分の行きたい方向を目指して突き進んでいく。瑞稀さんが眩しい、と称するのも共感できた。ちょっとだけ、癪だけど。


「だけどさ、なんていうか……澪は、変わったよね」


「変わった? 私が?」私がきょとんと小首を傾げると、カナはこくり、と鷹揚に首肯する。


「うん。変わった。正直言うとさ、澪って、出会った頃は自分の世界に閉じこもりがちだったっていうか、あんまり他人のことに興味関心がないんだろうなって感じてた。でも、今は違う。澪は、心が折れかけていた私に前を向かせてくれた。自分の意志で、咲さんと向き合おうと決めた。なんだか今の澪って……陳腐な言葉で恐縮だけど、優しくなったって感じがするよ」


 それは、心象世界で自害しかけていた私に告げてくれた言葉と、似たような文言だった。


 私はあのとき同様、胸の詰まる思いがする。投げかけられた言葉を、頭の中で反芻する。


 私は変わった。優しくなった。……でも、本当に? 本当に私は、優しくなれた? 少しでも、あの日のカナに近づけた? 醜悪で自分のことしか考えられない私でも、ちょっとくらいいは誰かに、他人に優しくできるような人間になれたというのだろうか――?


 ……わからない。自信なんて、微塵も持てない。結局、死にたくはないという自分の我儘でお姉ちゃんの霊魂を踏みにじってしまった私なんかに、そんな言葉を投げかけてもらう資格があるのだろうか。私はなんだか怖くなって、ふるふる、と幼子みたいにかぶりを振った。


 するとカナは、もう、と苦笑するみたいな、柔らかい微笑を湛えて。


「まったく、ネガティブなのは相変わらずだな。もっと自分のこと、信じてあげなよ。澪はきっと、自分で考えているほど悪いやつじゃないって。――だって今の澪は、浮かべている笑顔も、流している涙も、どっちも呼吸を止めてしまいそうになるくらい、美しいから」


 言って、カナはゆっくりと、白く繊細な感触のする指先を、私の目元へと這わした。それで気づいた。自分がいつの間にか泣いてしまっていることに。カナの指先が、今度は口元へと移動する。やっと気づいた。自分がいつの間にか笑ってしまっていたことに。それで、わかった。


 ――ああ、そっか。私も、なれたんだ。ちょっとくらいは、あなたみたいに。


 それを実感すると同時に、とめどない思いが津波のように胸の底から押し寄せてきて、私は泣き崩れてしまいそうになる。でも私は、その感情の奔流をどうにか押さえつけて、滲んだ涙を拭ってから、今度は堂々と首を二度、横に振る。


「……でも、それはちょっとだけ違うよ」


 そう言うと、カナは面食らったように大きな両目をパチクリとしばたたく。


 その可愛らしい所作に私は軽く見惚れながらも、こんな言葉を続けるのだった。


「だって私は、変わったんじゃない。――きっと、皆が変えてくれたんだ」


 ……本当に。こんなにも感傷的で気障な台詞が、自分の口からすんなりと飛び出してくることがあるなんて、思わなかった。なんだか滑稽なように感じなくもないけれど、それ以上に、こんな安っぽい言葉を自分自身が素直に口走ることができるようになったという事実が、嬉しくて、嬉しくて、仕方がなくって。


 その言葉はまるで、福音のように。私の胸の中に染み入り、そして響き渡っていくのだった。

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二度目のさよなら、魂殺し。 赤崎弥生 @akasaki_yayoi

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