Epilogue

春の日の夢を見る。

「――なにをウトウトしとんねん。さっさと起きい、このド阿呆が」


 暖かな春の陽気に当てられながら船を漕いでいたところ、突如として凄絶な罵倒を投げかけられた。私はゆっくりと目を開く。そうして、ああ、と理解する。私は夢を見ているのだ。耐え難い冬を経た後の、生命を優しく祝福するかのような穏やかな気候。空から降り注ぐ柔らかな日差しに、吹き抜けていく春の香りを孕んだそよ風。ひらひらと桜の花びらが舞って、レンガ敷きの小路へと落ちていく。この世界に満ちる全ては慈愛に満ちていて、私がかつてあの子と過ごした遠い日のようでもあって。


 であればこそ、ここは夢に違いない。夢なのだから、敢えて目を覚ます必要もないだろう。


 私は半開きになっていた瞼を閉ざし、すぅすぅと寝息を立てて――


「だから、寝るな言うとるやろ! 二度寝すな、このアホ瑞稀……っ!」


「っ、ああもう⁉ なんだその理不尽は……って、待って。もしかして、真琴か?」


 急速に目が冷めた私は、勢いよくベンチから飛び跳ねて辺りを見回す。でも、その視界は白色の桜吹雪でカーテンのように遮られ、脳裏に思い浮かんだ彼女の姿はどこにも見えない。


 気づけば、私は無我夢中で駆け出していた。どこだ。どこにいるんだ。ほんの一瞬でもいい。彼女に会いたい。それが……それだけが、罪深きこの肉体を首の皮一枚のところで繋ぎ止め、亡霊のように突き動かし続けてきた願いなのだから。


「そんなに走ったところで、うちはどこにもおらへんよ。他ならぬあんたが、殺したんやから」


「……あ」どこからか聞こえてきたその声で、私は全てを思い出す。……そうだ。私は既に、念願だった彼女との再開を果たした。だけど誰よりも弱い私は、自分本位な我儘で罪や責任を投げ出すことができなくて、夢にまで見た彼女のことを泣かせてしまった。裏切ってしまった。


「……ごめん」私は呆然と足を止め、膝をつく。すると彼女は、大層憎たらしげな声で。


「ふんっ! 謝られたって赦さへんわ。瑞稀は結局、一番辛い道を選んだんや。うちもあんたも笑ったりなんかできへん、最悪の未来をな。……あんたは、ほんまに大馬鹿者や。瑞稀」


 淡々と責め立てるような物言いに、私は返す言葉を持たなかった。顔を俯むけて下唇を噛みながら、ごめん、とナンセンスな謝罪の言葉をこぼすことしかできない。


「あーなんやもう、辛気臭い! ごめんなさいはもう聞き飽きたわ。次言ったら呪い殺すで?」


「ご、ごめん……」


「だから、もうええ言うとるやろ⁉ 日本語わかっとるんか⁉ ……ああもうっ。うちは今、あの女に取り込まれた後も微かに残留しとった意識から、あんたの魂に語りかけとる状況なんや。既に女の魂は霧消し始めとるから、時間があらへん。あんま無駄なやり取りさせんといて」


「ご、ごめ……わかった」私がおずおずと頷くと、よろしい、と偉そうな声が降ってくる。


「だけど……どうして、話をしに来たの? だって私は、瑞稀のことを裏切って――」


「そんなもん、あんたに復讐するために決まっとるやろが」


 復讐と口にしてはいるものの、その声色に責め立てるような鋭さや冷たさはなかった。私はそれで、安堵と罪悪感の混濁した複雑な心持ちとなる。


「なあ瑞稀。あんた、最期の日にうちとここでした会話の中身、覚えとる? あのときのことで、あんたはまだ気づいてないことがあるんやけど」


 気づいてないこと? 私は怪訝に思いながらも、今なお鮮明なその時の記憶を呼び覚ます。


 あの日、私は真琴と二つの約束をした。死ぬときに手を握ること。一緒にいられるだけ一緒にいること。そのどちらも、私が愚かで弱かったせいで果たしてあげることはできなかった。いや、そもそも私は、それを約束とも思うことができていなかった。私は身を裂くような強烈な罪の意識を味わいながらも、一連のやり取りを頭の中で反芻してみる。でも、それらしいものは見当たらない。暗中模索を続けているような気分だった。


「なんや、ここまで言うても気づかんのか? ほんまに鈍い奴やな、あんたは」


「だけど、本当に何も思い当たる節がないんだ。一体、何について言ってるの?」


「そういうことなら、もう一つだけヒントをやるわ。一度しか言わへんから、耳の穴かっぽじってよう聞き。……あのとき、うちがあんたに言ったことは、全部本音やから」


 やけに恥じらいを感じさせる口調だった。それを私が胡乱に感じるのと、真琴が似たような調子で、ある言葉を私に投げかけていたのを思い出すのは、同時だった。


 降りたての雪みたいな純白を湛えたていた真琴の頬が、そのときだけは桜の花びらみたいなピンク色に染まっていて、私はちょっとだけ奇妙な心持ちになっていたのを覚えてる。


 私は口元に手を当てた。漏れそうになる嗚咽を必死で抑える。胸の奥底から凄まじい感情の激流がせり上がってきて、心臓が引き裂かれそうになる。だって、だとしたら私は、私は――


「あ、やっと気がついた? ……ほんま、遅すぎるっちゅうに。この女たらしが」


 拗ねたように吐かれたその台詞は、文句のようでもあり、照れ隠しのようでもあった。その反応で私は思い知る。自分がどれだけ、真琴に対して不誠実な態度を取っていたのかを。


 だって、真琴があの日に私に投げかけてくれた、あの言葉の本当の意味は――


「……そっか。真琴は、私のこと、好きだったんだ」


 ――うち、瑞稀のこと、好きやで。


 脳内でそのフレーズが克明にリフレインした瞬間、私の両目からは大粒の涙がボロボロとこぼれ出す。私はずっと、真琴の口にした「好き」の意味は、単なる友達としての「好き」だと思い込んでいた。でも、そうじゃなかったんだ。真琴はずっと、私のことを本当に好きでいてくれて、だからこそ六年もの間、私のことを待ち続けてくれていて――


「ご、ごめ、私……まさか真琴が、私のこと、そんなふうに思っててくれたなんて、知らなくて……それなのに私、私……」


 感極まった私が幼い子供みたいに泣きじゃくり始めると、真琴はひどく痛快そうに、「あはは! いいざまや!」と言って大声で笑い始めた。


「あー、スッキリした! あんたのことやから、これで向こう十年はうちのこと引きずってくれるやろ! 悪いなぁ、瑞稀。あんたの女盛り、うちが全部持っていくことになってしもたわ」


「っ、そんなの、いくらだってくれてやる……!」私は勢いよく立ち上がった。涙にけぶる視界を上空に向けながら、必死に叫ぶ。


「むしろ、たったそれだけでいいのかよ……⁉ だって私は、私は……真琴の人生の何もかもを、貰ってるっていうのに……!」


 真琴は記憶の中で言っていた。私と出会ったことで初めて本当の意味で人生を生き始めたのだと。だとしたら私は、真琴の全生涯を捧げてもらったようなものじゃないか。それが、たかだか私の女盛りと交換だなんて、いくらなんでも安すぎる。


「女盛りなんて言わず、どうせなら全部持ってけよ……! じゃなきゃ釣り合わないだろ⁉」


「ふん、うっさいわ! なーにが全部持ってけや、調子乗っとるんやない。うちは面食いや。あんたが一番綺麗なときだけ捧げてもらえば、それで満足なんや。……せやから、ま、そのくらいは自分のために取っときい。このくらいで、堪忍したるから」


 涙で歪んだ世界の中に、私ははっきりと幻視した。もうええよ、とでも言いたげな寂しげな苦笑を浮かべる真琴の姿を。


 何か言いたい。何か言わなきゃ。だって私には、まだ伝えられていない思いが山程あって、もっともっと彼女に何かを返してあげなくちゃいけなくて。だけど胸が一杯になってしまった私は、無様に鳴き声を漏らすことしかできなくて。どんな言葉も、出てきてはくれなくて。


 そのとき、一際強い風が庭園の中に吹き抜けた。それは地表を撫ぜていく風ではなくて、竜巻か何かのように頭上へ向かって突き抜けていく大風だった。髪の毛がバサバサと舞い、淡い桜の花びらが天へと続く梯子を伸ばすかのように、一斉に飛び立っていく。私は直感的に理解した。彼女の一生が、これで本当の終わりを迎えるのだと。六年もの間、大切に守り抜き続けてきた恋心という、特大の呪いと祈りを置き土産にして、彼女の魂が露と消えていくのだと。


「――じゃあな、瑞稀。あんたはうちの、最低最悪の初恋の相手やったよ」


 そんな憎まれ口を叩く彼女に、私は何が言えるだろう。私は必死で脳みそをフル回転させ、投げかけるべき言葉を、思いを、グチャグチャの心の中からどうにか手繰り寄せようと試みる。


 だけど私が告げるべき言葉を見つける前に、真琴はやけに呆けた声で、まるで追い打ちでもかけるみたいに、或いは独り言のように、こんな言葉を漏らしてきたのだった。


「……あ。うち、今になって自分のほんまの未練が何やったんか、わかったわ。うちは多分、この心底アホらしい初恋を終わらせるために、瑞稀のことを待っとったんやね」


 私は世界から意識が消えていく間際になって、やっとの思いでこう叫び返してやった。


 私にとって真琴は、健やかなる時もやめる時も輝いていた、星の光そのものだった、と――

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