第43話 心象世界(夜見塚咲) 第三幕

「――ちょっと待ったぁ……!」


 キン。耳をつんざくような音と痺れるような衝撃の後、脇差が手元から弾き出された。


「黙って外野から聞いてれば、手前勝手な御託をゴチャゴチャと! 何が私は澪に優しくしてほしかった、だ! 生者に仇なす悪霊のくせして、一丁前に被害者面するんじゃない……っ!」


 私もお姉ちゃんも、最初、それが誰だかわからなかった。


 何の前触れもなく空から落下してきたその人は、白銀の重厚な甲冑に身を包んだ、金髪碧眼の少女騎士だった。小柄なくせして重そうなロングソードを構えた彼女は、私のことを守護するナイトのように堂々と仁王立ちして、切っ先をお姉ちゃんの方へと向けている。


「大体あんたの話は、傍から聞いててめちゃくちゃムカつくんだよ! 偉そうに姉貴ぶってるけど、妹離れできてないのはそっちでしょ⁉ どんだけ粘着質なんだ、このシスコン!」


「は、はぁ⁉ この私が、シスコン⁉ ……っ、あんたねぇ⁉ 唐突に闖入してきたと思ったら、言いたい放題言いやがって……! 姉妹水入らずに割って入るな、この泥棒猫……っ!」


「はっ! 何とでも言えばいい! あーあ、いい歳して妹にべったりとか気持ち悪いったらありゃしない! こっち見るの止めてもらっていい? シスコンが伝染るから」


「こ、このガキ……っ! ああ言えばこう言いやがって……っ!」


 私一人を差し置いて、舌鋒鋭く言い争いを始める二人。私はようやく我に返って、「カ、カナ? どうして、ここに。傍観に徹するって話だったんじゃ……」と呆然とした声で呟いた。


 カナはくるりと振り返ると、ものすごく不機嫌そうに眉間に皺を寄せながら声を荒げる。


「そんなの撤回するに決まってるでしょ! 切腹なんて馬鹿げたことやり始めるんだから!」


「っ、で、でも……! 私は、その、お姉ちゃんに酷いこと、しちゃったから……。私って、本当に自分のことしか考えられてないんだなって、もううんざりして。私なんかが生きるくらいなら、お姉ちゃんが生きたほうが正しいことなんじゃないかって――」


「っ、澪の馬鹿!」パチン、という高い音。ほっぺたが焼けたようにジリジリ痛む。


 カナに平手打ちをされたのだと気づくまでに、私は数秒の時間を要した。ぶたれた頬に右手でそっと触れると、カナは凄い形相になりながら私の両肩に手を乗せてくる。


「そんなこと、二度と言わないでっ! あんな奴の世迷い言に惑わされちゃ駄目! 大義があろうが筋が通っていようが、そんなのは関係ない! 今を生きるべきなのはこの世にへばりついてる幽霊なんかじゃなくて、命ある生者に決まってるでしょ……!」


 私はハッとする。お姉ちゃんに責め立てられて心が折れかかっていたけれど、カナから改めてその原理を突きつけられたことで、目が覚める思いがした。


「それに、澪が他人のことを考えられない人間だって……⁉ 笑わせないで! そんな人間が、私の制止を振り切ってまでこの人の心象世界に足を踏み入れたりなんかしない……っ!」


 カナは私の肩から手を離すと、今度は両腕で力強く抱きしめてきた。甲冑越しだからゴツゴツした感触だけど、その抱擁は今まで受けたどんなものより温かく感じられて仕方なかった。


「何を卑屈になってるのか知らないけど、澪はそんなに悪い人間なんかじゃないよ。だって私、澪の優しいところ沢山言えるもん。……私に憧れてくれたこと。私を家に泊めてくれたこと。私に立ち直る機会をくれたこと。どれもこれも、澪が優しいからしてくれたことでしょ? 澪が自分で否定したって、私は絶対に認めないよ。澪に生きる資格がないだなんて」


「……それ、本当?」両目がじわじわと熱を帯びていることに気づく。それは決して哀しみや絶望の涙ではなくて、心が洗われていくような、とても優しい落涙で。


「うん、本当。だから、そんなに自分を責めないで。たとえ世界中が澪のことを非難しても、私だけは澪の味方をする。澪は私に優しくしてくれたって叫んでやる。だから生きろ、澪」


 ぽん、と。カナに背中を優しく叩かれた。そこから生まれた熱が全身にじわじわと広がっていき、いつしか私は、生きたい、という強烈な願いに支配されてしまっていて。


 私は一度、深く息を吐きだした。火事のせいで熱くなっている空気を吸い込んでから、改めてカナのことを見つめる。「もう大丈夫そうだね」とカナは屈託なく笑って、私からするりと腕を離した。私は力強く頷いてから、再び武器を出現させた。


 それは、二振りの脇差だった。一本だけでは自害するための刃でも、二本揃えば、防御をかなぐり捨てた生存への道を切り開く力強い武器になる。私は、私達はもう答えを見つけた。ならあとは、二刀流の精神で前に突き進んでいくだけだ。


 私とカナは横に並んで、二人でお姉ちゃんへと剣先を差し向ける。


 私はもう、迷わない。お姉ちゃんへの罪悪感も、後悔も、消えたわけでは決してない。だけど私にはカナがいる。私のことを優しいと言ってくれる他者が。私に対して生きろと行ってくれる現在が。なら私は、前に進む。たとえ過去の罪に後ろ指をさされようとも、二本の剣で前向きに活路を開いていく。


「……っ、巫山戯ないで!」


 お姉ちゃんが激昂する。足元に黒色の闇が生まれ、彼女の肌が見る見るうちにその漆黒に侵されていく。白色のパジャマから、悪の魔女のような暗黒の艶美なドレスへと服装が変化する。唇には赤色のルージュが引かれ、黒髪には骸骨をあしらった髪飾りが生まれた。


「何も知らない部外者が、知ったような口を聞かないで……! あんた、まだわかってなかったの⁉ あんたがやっていることは所詮、善意の押し付けに過ぎないんだよ!」


「だから何だって言うんですか!」


 カナがお姉ちゃんの言葉を真正面から否定する。その瞳には、昨夜のような弱さや迷いは見られない。初めて出会ったときに見たのと寸分違わぬ、いやそれ以上に激烈な、信じた道を敢然と突き進んでいく意志の炎が爛々と燃え盛っていた。


「善意の押しつけだなんて、そんなことはもう嫌というほど思い知りました。私のやっていることは単なる偽善に過ぎません。これは単に、私が欲しい未来を求めるだけの私のエゴです」


「っ、それがわかっているんなら、どうして……⁉」


「――だって私は、生きているから」


 静かな、けれどリンと鳴る鈴の音のように、よく通る声だった。


「自分の欲しい未来に手を伸ばすのは、生者だけの特権でしょう? なら私がすべきことは、最初から決まってた。第三者として傍観するのではなくて、自ら能動的に、欲しい未来を掴み取ること。それが私の役目だったんです。……瑞稀さんのときには、できなかったけど」


 最後だけ、俄に悔恨を滲ませた声で言う。でもそこ以外は非常に朗々とした重みのある口振りで言い放たれて、カナも自身の迷いに対する答えを見つけたのだということが伝わってきた。


 お姉ちゃんは忌々しげに私達のことを睨めつけてから、チッ、と舌打ちをする。


「ああ、そう。結局、愚か者には何を言っても無駄だってこと。――なら、いい! こうなったら力づくでも、あんたたちの息の根を止めてやる……! 私に生きる資格がないなんて、そんなことは言わせない……っ!」


 瞬間、足元の黒い影から大量の骸骨が躍り出た。先程までとは比較にならないほどの数の多さで、一体一体の俊敏さも遥かに向上している。だが私達は燃え盛る家屋の中で、赤子の手をひねるように容易く骸骨の軍勢を切り伏せていく


「澪、後ろお願い……!」「わかってる、カナ……!」私はカナの背後に迫っていた骸骨を右の脇差で両断し、開いたスペースに踊り込んでカナと背中を合わせる。カナの荒い息遣い、ギシギシという激しい足音、微かに聞こえる心臓の鼓動。言葉なんてろくに交わしていないのに、カナと心が通じ合っているかのように私達の動きは見事に連動していた。骸骨たちに付け入る暇など与えず、バッタバッタと手近なところにいる個体から動く骸骨を豪快に叩き切る。


「ああもう、役立たず共め……っ! あんた達も、無駄な抵抗しないでよ……っ!」


 業を煮やしたお姉ちゃんが、墨汁の海のような闇の中から、さらなる怪物を呼び覚まさんと腕を振るった。瞬間、目を見張るほどの数の怪物が、闇の底から生まれ出る。あるものは骸骨で、あるものは悪魔だった。またあるものは吸血鬼で、あるものは人形だった。終いにはジャバウォックじみた怪物まで飛び出したけど、私達はその尽くを一刀両断していった。


 私はカナと目配せしてから、炎上する家屋から暗黒に覆われた庭の中へと飛び降りた。立ちどころに湧いてくる敵たちを一糸乱れぬ連携で蹴散らして、臆することなく闇の海を突き進む。


 そして、ついに。


「――チェックメイトだよ、お姉ちゃん」


 私は、右手で持った脇差の切っ先を、お姉ちゃんへと突きつけた。お姉ちゃんの眼からはもう怒りの色も憎しみの炎も何もかもが消え失せていて、抵抗する気概はないようだった。


 私がゆっくりと剣を下げると、「……どうして」とお姉ちゃんはボソリと呟く。


「どうして……どうしてなのっ⁉ どうして澪は生きられて、私はこのまま消えなくちゃいけないの⁉ ……いや。いや、だよ。そんなのは、いや。だって私……まだ、何にもしてないのに。好きな服も着れてないのに。誰かに優しくしてもらったことも、一度も、ないのに……!」


 お姉ちゃんは泣き顔になりながら、私の胸に倒れ込むようにしてしなだれかかる。今になって、ようやく気づいた。いつの間にか私のほうが、背が高くなってしまっていることに。


 私は胸中から様々な感情がこみ上げてくるのを感じながらも、お姉ちゃんの背中を包み込むように両腕を回した。そうしなきゃいけないとも思ったし、そうしたいとも思ったからだ。


 だけどお姉ちゃんは顔を上げると、憎々しげな眼光で私のことを睨みつける。


「……っ、なによ今更! やめて! こんなこと、しないで! あんたは今まで、私がどれだけ辛い思いをしてようが、優しくなんてしてくれなかったくせに……!」


 その言葉は、私の心臓をグサリと貫く刃のようだ。だけど私は、逃げちゃいけない。心臓を斬り裂かれてでも、お姉ちゃんのことを離してはいけないと思った。伝えなくちゃいけない言葉を、まだ伝えられていないから。


「今になって懺悔しようが優しくしようが、私は絶対に赦してなんかやらないから……っ! あんただけは絶対に赦さない……っ! たとえ霊素に返っても、ずっとずっと呪い続けて――」


「――ありがとう、お姉ちゃん」


 お姉ちゃんがえ、と声を漏らす。同時に、背中の震えがピタリと収まる。


 それで私は、これでよかったんだな、と自らの行動に確信を抱く。私はお姉ちゃんの背中をゆっくりと擦りながら、一生分のありがとうの思いを込めて、丁寧に言葉を紡いでいく。


「ありがとう。私に、優しくしてくれて。私のことを、助けてくれて。ずっとずっと辛かったのに、それでも私の味方をしてくれて。私はそんなお姉ちゃんに、いつも救われてた。こうしてまた会えたのだって、やっぱり嬉しい。お姉ちゃんが昔みたいに手を引いてくれたことが、嬉しかった。私の愚痴を聞いてくれたりのも、ありがたかった。というかさ、怨恨を晴らしに来た割には、私のこと結構助けてくれたよね、お姉ちゃんは。……そんな優しいお姉ちゃんのことが、これまでも、これからも、私は心から大好きです。……ありがとう、お姉ちゃん」


 私が伝えなくちゃいけない言葉。それは犯した罪の許しを乞う懺悔の台詞なんかじゃなくて、お姉ちゃんの苦しみに、お姉ちゃんの人生に、意味を与えることができるような感謝の言葉だったんだ。謝罪は自分のために口にする言葉だけれど、ありがとうはそうじゃない。相手の為を思って投げかける、相手の為の言葉だから。私が言わなくちゃいけないのは、それだった。


「……っ、なにそれ、馬鹿みたい」


 呆れた、と言わんばかりの物言いだった。その口調から、先程までの悲壮感漂う色合いは完全に抜けている。口元にも朗らかな笑みが湛えられていて、でもそれは生前に見たような大人びたものとは少しだけ趣を異にしていた。多少の子供っぽさを思わせるような無邪気で可愛らしい屈託のない笑みで、私が今までに目にしたどんな笑顔より魅力的で、愛らしかった。


「そっかそっか。殺されるような目にあっても、それでも私のことが大好きだっていうのか、澪は。なんだりゃ。私もだけど、澪も相当なシスコンだね。いい歳こいて、みっともないなぁ」


 あはは、とお姉ちゃんは如何にも愉快そうに声を出して笑った。私も釣られて笑う。生まれてはじめてお姉ちゃんと真に通じ会えたような気がして、嬉しさと切なさを同時に感じた。


 ひとしきり笑いあった後、お姉ちゃんは今度は私ではなくカナの方を向いて話しだす。


「ねえカナ。今の聞いた? 澪、私のことが大好きだって」


「……は? 何ですか? 下らないことで喧嘩売ってる暇あったら、さっさと成仏して下さい」


「うっわ。本当に口悪いよね、あんた。最後くらい、もうちょっと愛想よくしてもいいのに。……でもまあ、さっさと成仏しろってのは、そのとおりか。ごめん、澪。あんまりダラダラしてるとまた怖くなっちゃいそうだから、そろそろ終わらせよっか」


 寂寥を感じさせる声色であっさりと口にして、お姉ちゃんは私の腕をそっと解く。それから私の右手に手を添えて、脇差の剣先を自分の胸へと向ける。お姉ちゃんと私の目が合う。殺して、と暗に言っているのは明白だった。偉そうな態度を取ったはいいものの、いざ切っ先を向けるとお姉ちゃんへの未練がどろどろと湧き出してきて、私の右手がガタガタ震える。お姉ちゃんはそんな私の右手を両手で強く握りしめて、その震えを止めさせた。


「……ねえ、お姉ちゃん。最後に、一つだけ訊かせてくれる? どうしてさっき、私に自害しろなんて言ったの? そんなことしなくても、自分の手で殺したほうが早かったはずなのに」


 それは私が本気で怪訝に思っていた疑問のようでもあり、単に最期の時を少しでも遅らせようとするための悪あがきのようでもあった。


「え? ああ、そのこと。……だって私、澪のことを手にかけられる自信、なかったんだもん。どうせ殺せないだろうなって薄々、勘付いてたから。ああするしか、なかったの」


 私は目を見開いた。……なんだ、それ。なんだその理由。それじゃお姉ちゃんは結局のところ、最初から最後まで、徹頭徹尾――


「それじゃ、バイバイ。……ま、元気にやりなさい、澪。私もあんたのこと、好きだったよ」


「――ずっと、優しくて妹思いのお姉ちゃんに過ぎなかったんじゃん」


 私がそれを口にするのと同時に、お姉ちゃんは自らの手で自分の心臓を貫いた。


 まるで、スポンジケーキに包丁を入れたときみたいな手応えのなさだった。


 蛍みたいな朧気な光りに包まれて、お姉ちゃんの身体が夜闇に溶ける。音も立てずに崩れ落ちていくお姉ちゃんを、私は見送る。そのとき、ようやく気がついた。悪役じみた漆黒のドレスは、お姉ちゃんが焦がれてやまなかったゴシックロリータそのものだということに。


「……何が自分には似合わない、だよ。私なんかより、よっぽど様になっているっていうのに」


 呟くと同時に、目が眩むような白い閃光が世界を覆う。急速に遠のいていく意識の中で。


「――なんだ。それなら、怖がらずに一度くらいは、着ておくんだったなぁ……」


 お姉ちゃんがしみじみとぼやくのを、私は最後に、しかと聞き届けたのだった。

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