第42話 心象世界(夜見塚咲) 第二幕

 記憶の流入が途切れた瞬間、私は猛烈な虚脱感に襲われて膝をついた。


 心象世界はいつの間にか童話の中の舞踏会から、私達の生家へと移動していた。記憶にも出てきたお姉ちゃんの部屋に面した庭で力なくへたり込んでいる私を、お姉ちゃんは縁側の上から冷淡な、それでいてどこか切なさを感じさせるような静かな瞳で見下ろしている。


「澪。これがあんたの犯した罪。あんたに虐げられた憐れな姉の記憶」


 ふっ、と短く息を吐き捨てるお姉ちゃん。雲に隠れていた暮れかけの太陽が顔を覗かせた。煉獄の炎のような西日が、罪人である私のことを火炙りにするように照らし出す。


「……そっか。そうだったんだね。……ごめん、なさい。私、ずっと、お姉ちゃんの優しさに甘えてたんだ。甘えるだけで、お姉ちゃんの気持ちとか、何も考えてなかった。そう、だよね。私が遊んでるところ見るのなんか、辛いに決まってるよね。それに、この服だって……本当はお姉ちゃんのだったのに、私が、奪って……。ごめん、なさい。私……本当に、最低だ……」


 気づけば私の両目からは、ボロボロと涙がこぼれ出ていた。私は手で左目を拭いながら、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も繰り返し続けた。


「これでようやくわかった? 私がなんで、澪のことを恨んでいるのか。私はなにも、私を犠牲にして魔眼を手に入れたから、なんて理由であんたのことを憎んでるんじゃない。……私は、あんたがただの一度も私に優しくしてくれなかったことを、恨んでいるの」


 お姉ちゃんは音もなく部屋の中から庭に降りると、崩れ落ちていた私の前にしゃがみ込み、肩を掴んだ。私はゆっくりと顔を上げていく。眼前にあるお姉ちゃんの相貌には憤怒も憎悪も浮かんでおらず、そこにあるのはどこまでも深い諦念と、強い悲哀だった。


 お姉ちゃんはどこか寂しげな目つきになって、あのさ、と淡々とした声で語りだす。


「私ね、多分、たった一度だけで良かったんだと思う。たった一度だけでも、澪が私に優しくしてくれていたら、あんたのことを赦せたと思う。澪が私の辛さに思いを馳せて、私がしてあげてたみたいに抱きしめてくれたなら、頭を撫でてくれたなら、きっと私は澪のために犠牲になる自分自身を受け入れられた。私はずっと……澪に、優しくして欲しかったんだ」


 それはまるで十年ぶりに再開した初恋の相手に、あのときはあなたのことが好きだったんだ、と。とっくに冷めた恋心をサラリと告白するかのような、淡白なくせにきつく胸を締め上げてくる語り口だった。


「ねえ澪、ちょっと立ってくれない? 私、あんたにやってほしいことがあるの」


 私は連れられるがままに、お姉ちゃんの部屋へ足を踏み入れる。お姉ちゃんは敷いてあった布団をどかすと、部屋の畳の上に私を正座させた。


 お姉ちゃんが再び、部屋から出る。それと同時に、どこからか怪獣の唸り声のような、ゴウゴウという音が響きだす。最初は漫然と聞き流していたけれど、ストーブをすぐ側に置かれたみたいな熱波を肌で感じて、顔を上げる。と、建物全体に火の手が上がり、勢いよく燃え盛っているのに気がついた。お姉ちゃんの部屋を取り巻くように燃え盛る紅蓮の炎が、少しずつ部屋の中に侵食していく。本棚や畳が、メラメラと発火し始める。


「――ねえ澪。ちょっと、これで切腹してみてくれない?」


 ヒュルヒュルヒュル、と橙色の光を反射して煌めく何かが飛んでくる。私の目の前に丁度突き刺さったそれは、骸骨と戦うために私が出した脇差だった。


「え……? 切腹しろって……どういう、こと?」


「だーかーらー、腹を切れって言ってるの。自刃しろってことだよ。澪の心が死んでくれれば、私は澪の身体に憑依できるようになるんだから。私、さっさとあんたの肉体を奪いたいの。だから、ほら早く。さっさと自害しちゃってよ。昔みたいにちゃんと見ててあげるからさ、澪が切腹するところ。あ、上手にできたら褒めてあげよっか。死体の頭、よしよしってしてあげる」


 私があまりの恐怖に固まっていると、お姉ちゃんは飄々としていた顔を急速に苛立たしげに歪め、「なに?」とドスの効いた声で吐き捨てた。


「もしかして、できないっていうの? ……呆れた。自分の発言に責任すら取れないなんて」


「え? 自分の発言……?」私はお姉ちゃんの言っていることがわからず、眉をひそめる。


 するとお姉ちゃんは、はぁーあ、とわざとらしく盛大なため息を吐いて。


「だって澪、あの日の夜に自分で言ってたじゃん。大義があれば復讐も許される、って」


 冷然とした眼光に射竦められて、私は心臓が凍てついて動きを止めたような気分を味わった。


 ……そうだ。言った。私は、他ならぬお姉ちゃんの目の前で。たとえ霊魂であろうともちゃんとした大義があれば復讐も黙認する、と。はっきりと、そう口にしていた。


「あんたは限度を超えない限り、とも言っていたけど、私はこの復讐がやり過ぎだとは思わない。こんなのは当然の仕打ちよ。むしろ肉体の一つくらい、安いくらいでしょ」


 自分の吐く息がどんどんと荒くなっていくのを感じる。心臓がバクンバクンと早鐘を打ち、両手がガタガタと震える。そんなのいや、と冷静に反駁する一方で、身体の方は不思議と目の前の脇差へと腕を伸ばしてしまっていて。私は畳に突き刺さった脇差の、柄の部分を片手で強く握った。ゆっくりと引き抜くと、揺らめく炎の光に白銀の刃が照らされて、怪しく光った。


「それにしても、私、すごく楽しみだなぁ……! 健康体の澪の身体でゴスロリを着て、街を歩くの。私、原宿とか行ってみたかったんだよね。クレープとかも食べてみたい。生きてた頃はできなかったことを、澪の身体で沢山するんだ。ああもう、本っ当に楽しみ!」


 お姉ちゃんは満面の笑みを浮かべながら、刃をゆっくりと腹部へ近づけていく私のことを、じっと眺めている。すると突然、お姉ちゃんが何かに思い至ったように、あ、と口走った。


「私、さっきから澪が出した武器がなんで脇差だったのか疑問だったんだけど、考えてみれば当たり前だったな。澪の脇差は最初から、切腹するためのものだったんだよ。ほら、あんたってネガティブでしょ? 他人を打ち負かすことよりも自分を傷つけることを念頭に置いているから、そういう精神がメタファーとして具現化したんじゃないかなって」


 ああ、なるほど。その話を聞いて、私も得心がいった。自害するための刃は、後ろ向きな私が持つにはピッタリの得物じゃないか。なんとなく自嘲的な気分になって口の端が釣り上がる。


 さて、あんまり時間をかけすぎてもいけない。私はそろそろ覚悟を決めて、刀身の先端をお腹へと突きつける。冷たく鋭い感触がする。私は唾と一緒に恐怖や未練を胃の中へと押し込むと、脇差に一思いに力を込めて――

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