第35話 心象世界(沙条真琴) 第五幕

 記憶の流入が途切れる。私達がいる場所は法廷でも病室でもなく、生前の真琴と瑞稀が共に歩いた、一面の桜が咲き誇る病院構内の庭園だった。電灯の光もなければ、院内の照明も失せている。あるのはただ、夜空の満月が放つ生気のない白銀の光だけ。桜木立に囲まれた小路の上に私とカナが並び立ち、少し先に、気力がそげ落ちたような呆け顔の瑞稀が佇んでいた。


「……嘘、だよね?」震えた声で問いかけながら、カナが一歩、前に出る。


「嘘、だよね? 霊魂と話をするのが……そんなに、罪深いことだ、なんて……」


「そんなわけないだろ」クックック、と病的な笑いをこぼしながら、瑞稀が答えた。


「霊魂と会話なんかするもんじゃない。したところで、ろくなことにはならない。霊魂回収をするっていうなら、相互理解なんて求めちゃ駄目だ。問答無用で霊素に返すのが、互いにとって最善だ」


「……で、でもっ! 根気よく、対話を続けていけば、きっと霊魂だってわかってくれ――」


「じゃあ、私はどうしてこうなった⁉」叩きつけるような声だった。瑞稀は鬼気迫る顔つきで、いや、あまりにも痛ましい容貌で、カナのことを忌々しげに睨みつける。


「もしそうなら私はどうして泣き叫ぶ彼らを、呪いの言葉を口走る彼らを、何百人も手にかける羽目になったんだ⁉ ……なあカナ。お前にわかるか? 私のこの両手が、どれだけの魂を屠ってきたのか。一人目は同い年の青年だった。二人目は年若い母親だった。その次は小学生の少年で、四人目は人の良さそうな老人だった。五人目は年下の女の霊だ。そうして私は何度も何度も殺し続けて……二百五十一人もの霊魂を、この手で殺め続けてきたんだぞ……っ⁉」


「瑞稀……っ! もうええ! もう、ええよ……。もうそれ以上、自分を責めんでも」


 瑞稀の口走る自傷の言葉を、沙条さんが遮った。背中側から腕を回してぎゅうと力強く抱きしめられると、凄絶だった瑞稀の表情が、憑き物が落ちたみたいにじわじわと和らいでいく。


「すまんな、瑞稀。うち、我儘やった。あんたにばかり、辛い思いさせてしもた。だから……もうええよ。うちが赦す。うちが、瑞稀のことを赦したる。面倒くさい責任とか義務なんか何もかも放り捨てて、二人で静かに、幸せに暮らそうや。それでええやん。……な?」


 底抜けの優しさが滲み出た声色で、沙条さんが語りかける。


 瑞稀はしばらく押し黙った後、ふるふる、と力なく頭を振った。「それは無理だ」と呟いて。


「無理って、なんで? もう瑞稀は、充分苦しんだやない。誰も瑞稀のことなんか責めへん。うちがそんなことさせへん。たとえ神様が怒っても、逆にうちが怒鳴り返したる。今度はうちが、瑞稀のこと守る。だから、な? ……な? ……瑞稀。お願いやから、うんって言うてくれや。そうじゃなきゃ、うち……うち。どうしたらええか、わからへんよ……!」


「……だから、無理だって言ってるんだよ、真琴。これ以上優しくするのは、やめてくれ」


 絞り出すような声で言ってから、瑞稀は抱きついてきていた沙条さんのことを振り払った。


 支えを失った沙条さんが、前につんのめって倒れこむ。瑞稀は一瞬、心配と罪悪感に満ちた容貌をしたものの、すぐにそれを引っ込めて顔を背けた。下唇を強く噛みしめながら。それから踵を返して、瑞稀に負けず劣らずのたまらない表情で膝をついている沙条さんのことを見た。


 沙条さんが顔を上げる。見上げるようにして瑞稀のことを睨めつけながら、言い放つ。


「無理……? 無理って、どうしてや⁉ そんなにボロボロになってまで筋を通そうとする必要がどこにあんねん⁉ 確かにあんたはぎょうさん霊魂殺してしもたから、今更うちのことだけ特別扱いすることは苦しいのかも知れへん。けどそれも、うちのこともその手で殺してずっと一人で生きていくよりかはマシやろ⁉ 正論なんかクソくらえや! 瑞稀のことを苦しめる正しさなんか、うちが唾吐きかけたる! だから……うん、って言ってくれや。……なあっ!」


 瑞稀はなおも、真琴からの必死の問いかけに首を縦に振ることはなかった。肩をわなわなと大きく震わせながら、泣きじゃくる子供のように小さくかぶりを振り続けるのみで。


「――ああ、そっか。ならええ。そういうことなら、もうええよ」


 沙条さんは悠然と起き上がると、スッ、と。月光に照らされて病的なほどの色白さになっている右手で、虚空をなぞる。そうして現れたのは、何の装飾もないシンプルなナイフだった。


 私とカナは息を呑む。沙条さんが何をしようとしているのかわかったからだ。でも互いに、制止するどころか指先一本動かすことは叶わなかった。今ここで瑞稀と沙条さんの間に割って入ることだけは、何人たりとも許されない。そんな、畏怖にも似た気持ちがあった。


「うち、ここで死ぬわ。うちの傷跡抱えたまま、一人で生きてけばええ。ほな、さいなら」


 沙条さんは少しの恐怖も逡巡も滲ませず、構えたナイフを首元へと突きつける。挑発するような眼差しで瑞稀を見据える。


 次の瞬間。沙条さんはギュッと両手に力を込めると、一思いに喉を突き刺して――


 キン、という間の抜けた金属音が鳴り響く。カン、カン、と。足元に、沙条さんのナイフが転がってくる音がした。だけど私は、目線を下に落として確認する気にはなれそうもなかった。


「……嘘。なんで、そうなるん?」


 だって、沙条さんは今まさに、瑞稀さんの霊槍で心臓を貫かれているのだから。


 私とカナは何も言えない。透明人間にでもなったかのように、二人の壮絶なやり取りを呼吸もせずに眺めることしかできない。瑞稀は顔を固く俯ける。今にもその場に崩れ落ちてしまいそうなほど、その足元は頼りなかった。


「……だって真琴は、本当は大して強い奴じゃないから。……自殺させるのは、酷だと思って」


「なんや、それ……。なんで……なんで、そうなるんや……っ!」


 沙条さんは霊槍が更に深く突き刺さるのも厭わずに前に出て、滾るような憎悪を湛えた形相で睨みつける。だけどその両目からは、淡い光を纏う水滴がポロポロと流れ落ちていた。


「うちは、瑞稀なら絶対とめてくれる思うとった! やから本気で、喉にナイフ突き刺そ思うた! やのに……なんで⁉ なんで、うちのこと殺した……っ! なあっ! ……なあっ!」


 沙条さんが瑞稀の胸ぐらを掴もうとするけれど、その手はワイシャツの襟を虚しくすり抜けてしまうだけだった。沙条さんの姿が、みるみるうちに溶けていく。暗くて寒い、宵闇の中に。白くて冷たい、月影の中に。はらはらと、はらはらと。夜気の中を滑り落ちていく桜の花びらに、連れ去られていく。沙条さんの身体が薄らいで、幻であったかのように消えていく。


「ごめん、弱くて。ごめん、馬鹿で。ごめん……一緒に、生きられなくて」


「謝るなら……泣くなら、どうした殺したんや。……ああ。あんたなんか大嫌いや、アホ瑞稀」


 心の底から憎々しげな悲愴の言葉を吐き捨てて、沙条さんが前に倒れる。瑞稀は反射的に受け止めようとするも、そのときにはもう、沙条さんの身体は夜風に攫われて消えていた。


 主の消えた心象世界を、目を焼くような白色の光が包みこんだ。


 それはまるで、彼女が最後に残した、慟哭の叫びのようだった。

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