第34話 記憶(柏葉瑞稀)

 あの日、真琴が私に語りかけてきた言葉が本心だったと知ったのは、私が真琴の葬儀に参列したときのことだった。


「――真琴が前向きになったのは、きっと瑞稀ちゃんのおかげね」


 葬儀場の隅の方で体育座りをしながら、あいつって本当に死んだのかな、なんて馬鹿げた感傷に駆られていたところ、喪服に身を包んだ真琴の母親が近寄って話しかけてきた。その両目は赤く腫れていて、ひたすら茫然自失としていた私と違い、葬儀中は滂沱していたであろうことを容易に想像することができた。


 私は最初、この人は何を言っているのだろう、と首を傾げた。


「いや、それは違いますよ。だって真琴は、初めて出会ったときからずっとポジティブで明るい奴でしたから。幼い頃から心臓病を抱えてたっていうのに、楽しそうに笑ってばかりで、私とは違って子犬みたいに感情豊かで、……なんていうか、本当に可愛いやつで」


 言葉にした瞬間、真琴と過ごした日々の思い出が走馬灯のようにぽこぽこと脳裏に蘇り始めた。ゲームで私に負けて、「あーもう、もう一回や! 瑞稀のことボコボコにするまでは、絶対死にとうないわ!」とほっぺたを膨らませている真琴。私の買ってきたおやつを頬張って、「うっま! うち、今日まで生きとってよかった……!」とパァッと目を輝かせている真琴。私の裾を引っ張って、「もう帰る気? 今日はまだ、規定の瑞稀成分の摂取量に達してへんのやけど?」とツンとしてみせる真琴。そして何より、「こうして瑞稀が隣にいてくれる間は、不思議と死ぬ気がせぇへんなぁ……!」と屈託なく満面の笑みを浮かべている真琴。


 私は真琴の、そういった底抜けの天真爛漫さが大好きだった。いつ命の糸がぷつりと切れるともわからない綱渡りの毎日を送り続けていたのに、真琴はいつも朗らかで、表情がころころ変わって、可愛くて。何の重荷も背負ってないのに陰気にしてばかりの私とは、正反対で。


「むしろ、その逆です。私の方こそ、真琴のおかげで少しだけ明るくなれた気がして」


「ううん、本当にそんなことないのよ。真琴が感情豊かになったのはね、瑞稀ちゃんが病室に来てくれるようになってからだから。それまではずっと、どうせ治りっこない、どうせこのまま死んでいくだけだ、って投げやりになってるところがあって。いつもいつも不貞腐れて、つまらなそうにするばかりだったから」


「え……? ま、待ってください。それ、本当なんですか……?」


 私は困惑した。この人が何を言っているのかわからなかった。いや、本当はわかっていた。でもわかった瞬間に何かが壊れてしまうという予感があって、認めることを理性が拒んでいた。


「ええ、本当よ。……でもあの子、瑞稀ちゃんが会いに来てくれるようになってからは、笑ったりするようになったの。私や先生の前でも照れくさそうに、生きるのが楽しいって言うようになってね。だから私、瑞稀ちゃんには本当に、感謝してもしきれないの。私が不甲斐なくて、真琴に与えられなかったものを、瑞稀ちゃんは与えてくれて……本当に、なんて言ったらいいか……。ありがとうね、瑞稀ちゃん。あの子の、そばにいてくれて……」


 瑞稀のお母さんが両目でハンカチを抑えだす。話しているうちに感情が堪えきれなくなったらしい。私は、「そうだったんですね」と表面上は平然と相槌を打ったけれど、心の方は愕然としていた。或いは、絶望していた。自分の度を超えた間抜けさ加減に、死にたくなった。


 もしそうなら、あのときの言葉はどうなる? 真琴の命日となってしまったあの日、真琴は私に言った。死ぬときは手を握っていて欲しい、と。一人は寂しいから一緒にいられるだけ一緒にいて欲しい、と。私はそれを、単なる真琴の軽口に過ぎないものと勘違いして、適当に受け流していた。でもそれは実は冗談なんかではなくて、ずっと強がってきた真琴が初めて吐露した、心に巣食う弱音に他ならなかったのだとしたら――


 ……あ。私ってば、最低だ。


 こうして私は思い知った。自分が真琴に対して、どれだけ酷い裏切りをしていたのかを。


 その後の私の人生は、抜け殻のようなものだった。だって、私にはわからなかったのだ。真琴のいない人生を、どんなふうに生きていけばいいのかが。


 人付き合いの苦手な私には他に友達もいなかった。部活動や趣味や恋愛に興じたことなんてなかった。家の中では両親が夫婦喧嘩してばかりで、居心地は最悪だった。私には、あの病室以外に自分の居場所を見出すことなんて、到底できそうもなかった。つまるところ、真琴にとって私が世界の全てだったのと同様に、私にとっても真琴がこの世界の全てだったのだ。


 私は味のしなくなったガムを吐き捨てるような気軽さで、一日一日を空費し続けていった。


 そんな死人のようだった毎日に転機が訪れたのは、大学の二回生のときの冬のことだ。


 私は鴉場研が拡張網膜移植手術の被験者を募集しているのを知り、それに応募した。理由は語るまでもない。霊魂となった真琴と再会できる可能性を感じたからだ。そうすれば蔑ろにしてしまった真琴に対する贖罪を果たせるかも知れない。また一緒に、真琴との穏やかながらも確かな幸福のあったあの日々に、戻ることができるかも知れない。


 それは久々に目の前に現れた生きる理由であり、希望だった。私は真琴に、自らの人生の全てを捧げようと誓った。どうせ私には、真琴しかいないのだから。


 世界初の拡張網膜移植手術を受けた私は、一回目は失敗して左目の視力を失うも、二回目では無事に成功し、右目が赤い人工魔眼と化した。だがそれは霊魂を視認することしか能のない欠陥品で、コミュニケーションが可能となる代物なわけではない。だから私は失明した左目に、ある少女から買い取ったという霊視の魔眼を移植してくれるよう懇願した。紆余曲折あったものの最終的に申し出は受理され、私は後天的な霊視の魔眼の獲得に成功したのだった。


 これを機に、私は鴉場研の正式な職員として茨城県にある研究所に移り住むことになる。


 そこで私は、ある少女との出会いをすることになる。鴉場利明の実娘である鴉場加奈だ。


「――あ、瑞稀さん! もしかして、また新しい霊魂を連れてきたの?」


「そうだよ。よければ話でもしてみる? 同い年の加奈相手の方が、彼女も話が合うだろうし」


 私がそのとき手鏡に憑依させていたのは、十四歳の年端も行かない少女の霊魂だった。三編みに眼鏡をかけた大人しそうな見た目をした女の子なのだけど、話してみると思いやりのあるいい子なのだとわかる。そんな、素朴ではあるものの善良で可愛らしい少女だった。


「う、うん。じゃあ、折角だし……。は、はじめまして。よろしくお願いします」


 些か緊張した面持ちで、加奈は手鏡に向かって恭しく礼をする。


「うん、こちらこそはじめまして。……って、わわ! すごく綺麗な金髪に、ブルーの瞳……! あなた、とっても可愛いね! もしかして、外人さんなの?」


「あ、いや、外人ではないんですけど……でも、お母さんがイギリス人なので、それで」


 同年代の子と話すのに慣れていないのか、加奈の口ぶりはどこか辿々しい。でも、女の子から可愛いと言われたのが満更でもないのか、ちょっとだけ口元が緩んでいるのが見て取れた。


「それで……あなたはどんな心残りがあって、成仏できずにいるんですか?」


「あ、うん。私ね、近所にこっそり餌をやってた野良猫がいたの。まだ子猫だった頃に鴉に襲われているところを見つけて、助けてやった子なんだ。私、その子が元気にやっているのかが心配で、それを見ないことには成仏できないなって。あの子、元気にしてるかな……」


 女の子が不安そうに顔を曇らせる。加奈は屈託なく微笑みながら「大丈夫ですよ、きっと元気です」と励ましの言葉を口にする。それから、私の方に目をやって。


「瑞稀さん。やっぱり、この女の子は子猫のところまで連れて行ってあげるの?」


「勿論。準備ができたら出発するところだったんだ。あ、でも今回は加奈は連れていけないよ」


「そうなの? 残念……」加奈がシュンと肩を落とすので、「この子のことは私に任せてよ」と大袈裟な口ぶりで言って安心させる。加奈は納得したらしく、「頑張って」と鏡を返してきた。


 私は女の子が生前住んでいた街をバイクに乗って訪ねると、その子の案内に従ってある藪の中に分け入った。鬱蒼と茂る低木に囲われたダンボールのボロ家の中に、年若い茶トラの猫の姿があった。女の子が愁眉を開いた。その子の壮健が確かめられて、ホッとしたのだろう。


 さて。そんなわけで私は無事に、その少女の未練を晴らした。だけど彼女は唐突に、ガタガタと鏡の中で震え始める。またか、と冷めた感慨を抱きつつ、「どうしたの?」と訊ねると。


「……あ、あの。それで私は……これから、どうなるんですか?」


「どうなるって、霊素に帰るんだよ。だって、そういう約束だったでしょ?」


「や、約束って……なんで⁉ なんで私、消えなくちゃならないんですか……⁉ そんなのおかしい! どうしてあなたなんかに、私の終わりを決められなくちゃいけないの……っ⁉」


 少女は気が狂ったように叫びだす。私は吐き気にも似た諦念を覚えつつ、左目の眼帯を外す。


 ……ああ、やっぱり。彼女の放つオーラが、少しずつ黒色に変わり始めている。荒御魂へと変化する兆候だ。それを確認するや否や、私はその子の心象世界へと断りもなく飛び込んだ。


「君には荒御魂化する兆しが見られた。悪いけど、周囲に被害をもたらす前に大人しく消滅して欲しい。願いは叶えたし、最初からそういう話だったし、文句を言われる筋合いはないよね?」


 私は得物を取り出して、つかつかと少女の下に歩み寄る。腰を抜かした少女は血走った目を見開きながら、膝を大きく震わせる。ガタ、ガタ、ガタ。まるで故障した玩具のようで滑稽だ。


「……え? い、いや! そんなのいや! 私、また死ぬのなんて嫌……っ! や、やめてよ。殺さないでよ。助けてよ。だって私、屋上から落っこちてるとき本当に怖くって、もうあんな苦しみも恐怖も味わいたくなんかなくって……な、なんで⁉ なんで私を殺そうとするの⁉ だってあなたにそんな権利なんかないでしょ⁉ なんで平然と私のこと殺そうとするの⁉ ……や、やめて。こっち、来ないで。……だから来るなって言ってんだろっ! この人殺――」


 この世のものとは思えない凄まじい形相をしていた少女が、ぽっかりと胸に空いた風穴を呆然と見つめる。それから、感情の抜けた顔つきを私へと向けると。


 この人殺し、と。声にならない声で、呟いた。


 私が鴉場研に戻ると、エンジン音を聞きつけた加奈が門のところまで出迎えてきた。


「――おかえり、瑞稀さん。あの子はどうなったの?」


「うん、首尾よく言ったよ。あの子は満足そうな笑顔を浮かべて消えていった」


「……よかった。瑞稀さんは成仏できなかった霊魂をまた一人、救ってあげたんだね」


 加奈は眩しい微笑を湛えながら、感慨深そうに言う。私はそれらしい面持ちで首肯して、加奈が疑いを持たぬよう演技する。もうとっくにやり慣れた、退屈なルーチンワークだった。


 これこそが、私の犯した記念すべき百回目の「消滅時の霊魂の心的状態と放出される霊素量との因果関係の調査実験」の顛末だ。


 この実験が、霊視の魔眼を移植することと引き換えに、鴉場研から私に与えられた任務だった。霊魂と対話して、心残りを晴らして未練がなくなった後に回収する。そう言えば聞こえはいいが、やっていることは一方的な虐殺と変わりなかった。彼らの口にした願いを叶えてやったところで、霊魂たちが本当に消滅することは極めて稀だった。大抵の場合は再び死んでいくことへの恐怖や新たな欲望への目覚めで、荒御魂化の兆候を見せた。そして私は完全に荒御魂となる前に心象世界へ赴いて、泣き叫び罵倒してくる霊魂を始末した。それが私の日常だった。


 加奈に嘘を吐いていたのは、鴉場利明の娘とは言え、部外者である彼女に霊魂回収に対する悪い印象を抱かせないためだった。あんなものを善行だと無邪気に信じ込んでいる彼女のことを愚かだと侮蔑している自分もいたが、それ以上に騙していることへの罪悪感が募った。


 こうして私は、真琴との再会という稚拙な願いを捨てきれなかったがために、稀代の大量殺人鬼へと成り果てたのだ。私にとって、死者の霊魂を破壊することは殺人と変わりなかった。


 この頃には既に、私の心は崩壊する寸前だった。もう嫌だ。霊魂殺しなんかしたくない。何もかも忘れて逃げ出してしまいたい。そんなふうに願ったことは幾度もあった。だけどこれだけ殺しておいて、今更もうやめます、なんて許されるわけがない。私は何が何でも目的を、真琴と再開するのだという願望を成就させなければ、罪深い自分を許すことなんかできなかった。


「……ねえ真琴。私、沢山人を殺しちゃった。こんな私でも、真琴はまだ友達って言ってくれるのかな。……真琴、会いたいな。また、あの頃に戻りたい。一緒にゲームをしたい。一緒に話をしたい。陽だまりの中で散歩をしたい。真琴。……真琴」


 他の職員やカナの前でこそどうにか気丈に振る舞っていたけれど、私は部屋に一人になるとベッドの上で丸くなりながら、彼女の名前を唱え続けていた。そうやって、自分がまだ幸福だった時代の思い出に縋っていなければ、正気を保っていられなかった。


 そんな私に、ようやく実験以外での魔眼使用の許可が出たのが、今年の三月のことだった。私は即座に帝付病院へ足を運んだ。真琴と過ごした、私の青春があったあの部屋に。ささやかながらも麗らかな春の日差しのように温かくて幸福だった、あの日常を過ごした病室に。


 果たして、真琴の霊魂はそこにいた。そのときの私の感動は決して言葉に言い表せるものではない。強いて言うなら、累々と横たわる死体の山の中にまだ息のある恋人か家族の姿を見つけたときのような心地、みたいなものだったのかも知れない。


 私は早速、真琴の心象世界へと入った。あのときと寸分違わぬ病室。あの頃と微塵も変わらぬ容姿の真琴。私はたまらず彼女のことを抱きしめて、そして涙を流した。


「真琴……! 真琴っ、……真琴っ。……ずっと、ずっと、会いたかった」


「ん、うちもや。……まさか、ほんまに会いに来てくれるとは、思っとらんかったから。うち……まだ、これが現実やと信じられてへん。ほんまに、ほんまに夢みたいやわ」


 もしかしたら私は知らぬ間に死んでしまったのかも知れないな、と。気づけば私は、そんなことを本気で考え出してしまっていた。だってこの場所はあまりにも優しくて、現実だとは信じがたくて、どうしても、ここは本当は天国なんじゃないかって疑ってしまう自分がいて。


 ――だけど私は、すぐに思い知ることとなる。それは私の思い違いに過ぎなかったのだと。


 だって、そうじゃないか。人殺しである私なんかが、天国に招聘されるわけがないのに。


「……でもうち、ほんまに嬉しいわ。だって、これでまた二人で一緒に過ごせるんやから。一つ目は叶えてくれへんかったけど、その代わり、二つ目はちゃんと叶えに来てくれたんやな」


 その言葉を聞いて、私は最初、ぽかん、と間の抜けた表情になった。


 だって私は、今になってようやく気がついたのだ。お前はもう死んでいるから、という理屈を振りかざして大量の霊魂を虐殺してきた私に、真琴だけを例外扱いして、何食わぬ顔で真琴と共に生きていく資格など、どこにもないのだということに。募りに募って凝り固まった罪の意識が、何もかもを投げ出して彼女と幸福になることを、許すはずがないのだということに。


「ん? どうしたんや、瑞稀? だって瑞稀は、幽霊になったうちとまた二人で生きていくために、会いに来てくれたんやろ? 一緒にいられるだけ一緒にいてくれるって、約束したやん」


 きょとん、と純情な面持ちで小首を傾げる真琴。全身を焼かれるような罪悪感に襲われる。


 ……ああ。私は最低だ。一体どれだけ、彼女のことを裏切れば気が済むというのか。


「ごめん。私――、真琴のことを、殺さなきゃいけないんだ」


 最初、真琴は何を言われたのかわからない、とでも言いたげな気の抜けた表情をしていた。


 でも私が、もう少し詳細な説明を交えつつ淡々と正論を突きつけると、その顔にはどんどんと影が差し、胸を裂くほどの絶望と、腸が煮えくり返るほどの憤怒と、尽きることのない憎悪と、果てしのない悲哀によって、着々と塗り潰されていった。


「――なんや、それ。……わけわからん。なんで、折角会えたのに別れなあかんの。……うち、赦さへん。あんたのこと、絶対に赦さへんわ。……この裏切り者が」


 そうして彼女は荒御魂と化し、私の前から姿を消した。


 同時に私は決意した。何が何でも、この手で彼女の霊を殺さなければ、と。


 どうせ一緒に生きられないのなら、せめて私の手で殺したかった。どこの馬の骨ともわからない輩に真琴が殺されるだなんて、それだけは絶対に許容できないから。


 私は、何が何でも真琴を殺す。そうとで思わなければ、とても生きてなどいられなかった。

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