第36話 悲劇の幕は、下りました。

 現実世界へと意識が戻る。世界は巨大な蝋燭の炎に包まれているみたいに、橙色の揺らめきに浸されていた。廃工場の建物が落とす長い影の中、私とカナと瑞稀の三人が横たわっている。


 私はゆっくりと上体を起こす。でも、立ち上がる元気までは湧かなかった。遅れてカナも目覚めた。私はカナに手を貸して、上体を引っ張り上げる。カナは身体に力が入らないのか、或いはそうするだけの気力がないのか、私の腕の中にこてん、と倒れ込んできた。


「……その。凄いことに、なっちゃったね。凄く……物凄く、哀しいことに」


 カナの声は掠れ、真夏にもかかわらず腕の中で微かに震えているのがわかった。こんなにも弱々しい姿のカナは見たことがない。それも当然か。カナは一連のやり取りを傍観する中で、憧れの相手とその親友のあまりにも過酷な別れを見せつけられたのに加えて、ずっと追い求めてきた理想の欺瞞を突きつけられる形となったのだから。


「……あ、そうだ。回収しなきゃ。沙条さんの、霊魂。崩壊、もう始まってるだろうから」


 カナが私の腕から離れ、側に落ちていた霊槍を手に取る。きっと、無理矢理にでも動いていなければ胸が一杯になってしまいそうだったのだろう。落ちていた手鏡の上部に、霊槍の先端をかざす。が、その体勢のままじっとしていたカナが、「あれ」と怪訝な声を出した。


「待って。……なんか、霊素が全然吸収されない」


「え? 吸収されないって、どういうこと? 心象世界が消えたってことは、霊魂が形を留めていられなくなったってことなのに」


「……いや、私にもよくわからない。ねえ澪、今どういう状況になってるか確認できる?」


「あ、うん。わかった」私は右目に手を持っていき、眼帯を取ろうと試みる。が、手は眼帯ではなく直接肌へと触れた。そうだった。魂抜けを起こしたときからそのままだから、眼帯は既に取ってあるんだ。改めて、地面に置いたままになっている手鏡を凝視する。だが、どれだけ焦点を深くしようとも、憑依させた霊魂や放出されていく霊素を視認することはできなかった。


 待って、どういうこと? なんで沙条さんを形成していた霊素が放出されてないの? いや、それだけじゃない。あの手鏡には、エアさんだって憑依していたはず。だというのに、今の手鏡はもぬけの殻だった。なんの霊魂も憑依してない。じゃあ、二人分の魂は一体どこに――?


「霊魂なら、私が既に回収させてもらったよ」


 死んだように横たわっていた瑞稀がゆっくりと体勢を起こして、口を開いた。その語り口は非常に淡々としたもので、奥に潜む感情というものを読み取ることはできなかった。建物の影が瑞稀のことを飲み込み黒々と塗りつぶしているせいで、表情を窺うことも叶わない。


「二人よりも、少しだけ先に目覚めたからね。憑依させてあったエアとかいう霊魂も、私の方で強制的に回収させてもらった。私の魔眼で、手鏡への憑依を解除させてね」


「え? 回収したって……瑞稀さんが、勝手に?」


「そうだけど? だって、さっきので充分わかっただろう? 霊魂とは話なんかせず、問答無用で回収するべきなんだってことがさ。私がやろうが澪たちがやろうが、同じことでしょ?」


「ま、待って! 幾ら何でもそれは勝手すぎます! 私達に何も言わずに回収するなんて……」


「驚いたな。まだ、そんな甘えたことを口にするんだ。これは私の方で回収しておいて正解だったね。君たちに任せていては、どんな惨状になったかわかったものじゃない」


 悪びれもせず、瑞稀はなおも機械的な声で言葉を続ける。私は絶句した。確かに、瑞稀の記憶で安易に霊魂と対話することが危険だということは痛感させられた。でもエアさんは、私達が憑依させた霊魂なんだ。それを部外者である瑞稀が、私達が気を失っているうちに無断で回収してしまうだなんて、いくらなんでもやりすぎじゃないだろうか。


 あの人は相当変な人だったけど、ただの百合好きというわけでも嫌な人というわけでもなかった。心の中に芯みたいなものを秘めていて、普段はふざけているか空気に徹しているかのどちらかなのに、言うべきと思ったことはきちんと言葉にして突きつけてきて。私はそんなエアさんが、嫌いというわけではなかった。それが、この人の独断のせいで、お別れも言えずに離別させられることになるなんて……。


 私はやりきれない思いになって、カナを見る。あれだけ霊魂との対話にこだわりを持っていたカナだから、瑞稀のこの横暴には流石に義憤を感じているはずだ。


「……うん、そうだね。瑞稀さんの、言う通り。……仕方ない、よね。あれが霊魂回収の現実だって、言うんなら。……ありがとう。私達じゃ、情に絆されて躊躇っちゃったと思うから」


 が、私の予想に反してカナが抗議することはなかった。沈痛な面持ちで顔を伏せるのみで、感謝さえしてみせる始末。そのあまりにカナらしくない反応に、私は衝撃を受ける。カナがそんな調子なものだから、私も瑞稀に食って掛かる気力をなくしてしまった。モヤモヤとした不満が胸中に蟠ってはいるけれど、大人しく口を噤んでしまう。


 夏の夕暮れの、ねっとりとした大気が肌を撫でる。喧しい蝉たちの合唱が、私のことを嘲笑ってきているかのように思えて、気分が悪い。目眩さえ起こしそうなほどだった。


「それじゃ、私は帰るよ。二人も、早いところ家に戻るといい」


 瑞稀が霊槍を片手に悠然と立ち上がる。その声にはどこまでも色がなく、無理に感情を押し殺しているであることを用意に察することができた。瑞稀が影の中から出る。


 その顔をさり気なく覗き見て、強烈な違和感に襲われた。茜色の斜陽に照らし上げられた瑞稀の口元には、高揚感さえ読み取れるほどの笑みが湛えられていた……ような気がした。

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