第30話 記憶(沙条真琴) 第一幕

「はぁ? お見舞いぃ?」


 唐突に口に出されたその言葉に、うちは危うく、手に持っていたコントローラーを落としてしまうところだった。スタートボタンを押してゲームをポーズ画面にし、大層不本意そうな、可愛げの根こそぎ抜け落ちた顔面を実の母親へと向ける。


「……なんでまた、そんなこと。顔すら合わせたことない人間に会いに来られたところで、お互いに気まずいだけやろ。今からでも断れへんの?」


「そないなこと言うもんとちゃう。真琴のこと、励ましに来てくれるんやから。ありがたい話やないの。クラスの子から元気もろて、それで手術頑張ったらええやんか? な?」


 ケッ。なーにが、な? や。その程度で治るんならとっくに全快しとるわ。アホちゃうか?


 うちは内心、安っぽいテレビドラマみたいな欺瞞まみれの台詞を吐く母親に対して、全力で毒吐いた。綺麗事なんかもう飽き飽きだった。母親からも医者からも、頑張れば治るよ、きっと良くなるよ、なんて吐き気がするような上辺だけの言葉を、もう八年もかけられ続けていた。


 だけどうちは、ネットの知識や盗み聞きした会話から、自分の抱えている病気は治るようなものではないのだと知っていた。


 うちの心臓には、生まれつき穴が空いている。なんだか物々しい響きに聞こえるけれど、大抵の場合は時間とともに塞がるし、そうじゃなくても手術すればすぐに治るような些末な病気でしかない。だけど、うちの場合はその例に当てはまらなかった。なんでも心臓の筋肉が極度に脆い体質らしく、手術して穴を塞いだところですぐに再発してしまうのだとか。


 心臓に穴が空いているからと言って、すぐさま命に関わるというわけではない。人間の身体というのは意外と頑丈にできているらしく、多少の欠陥があっても簡単に死にはしないのだ。


 でも、だからといって放置しておけば穴はどんどん拡大していくし、必然的に不整脈やら何やらで突然死するリスクも高くなる。それを恐れた母親は治りもしないことを重々承知で、体育の授業中に倒れた小二の頃から、うちをずっと狭苦しい病室の中に閉じ込めていた。


 その日の夜、迫りくるゾンビの群れをバッサバッサとスコップで斬り伏せながら、考えた。果たして自分は本当に生きていると言えるのかな、なんて。ちょっとだけ哲学じみた命題を。


 そもそも、生きるってなんだろう。死んでないことと、生きるということは同義なのだろうか。いくら死んでないとはいえ、毎日毎日、朝から晩までやり飽きたゲームのハイスコアを更新し続けるだけの人間が、本当に生きていると言えるのだろうか。


 ……いや、なわけない。うちは多分、このゾンビたちと同じだ。服を着て動いてるから生きているように見えるけど、実はとっくにこと切れている死体。それがうちの正体なんだ。


 そう考えると、敵であるゾンビたちがなんだか自分に重なって見えてしまって、スコップで無慈悲に鏖殺するのが可哀想に思えてきた。操作する手を止める。途端にキャラのところへ大量のゾンビが群がってきて、HPバーが瞬く間に減少していく。ゼロになると、画面の中央にはおどろおどろしい赤文字でGAME OVERという文言が現れた。お前の人生終わりだぞ、と突きつけてくるような横文字に嫌気が差して、コントローラーをベッドの隅に投げ捨てた。


「……おもんな。んなこと、わかっとるっちゅーの」


 それから三日が過ぎ、クラス代表の子がお見舞いに来ることになっている日がやってきた。


 その日は生憎の雨模様で、窓枠をパラパラと打ち付けてくる雨の音を、うちはベッドに寝そべりながら憂鬱に聞き流していた。こんな雨の日にどこの馬の骨ともわからん同級生の見舞いに来なければならない生徒のことを、最初は気の毒だと思っていた。でも時間が経ってくるにつれ、気の毒なのはうちの方やろ、とか、見ず知らずの人間から知ったような口で慰めの言葉吐かれるのが一番ムカつくわ、とか思い始めていた。お見舞いに来ると聞かされた日から胸中に蟠っていた不平不満が、気づけばその生徒に対する反感へと変貌を遂げていたのだ。


 勝手に押しかけてくる見舞客を迎えるのが凄まじく億劫になったうちは、どうせならそいつに皮肉の一つでもかましてやろうと思った。病室にいるのがいたたまれなくなるような、小二の頃からずっと入院し続けている自分の立場を最大限に生かした皮肉。そうすれば、その子だって長々と居座ったりすることもなく、さっさと病室から立ち去ってくれるだろうし。


 程なくして、病室の扉をノックする音が響いた。でも、部屋に足を踏み入れたその生徒の面構えを見て、うちは少し、いやかなり面食らった。


 そいつは一言で形容するのなら、厨二病っぽい顔つきをした身長の高い美形の女だった。十代の若人らしい無気力感とか、倦怠感とか、社会一般に対する不信感だとか、そういった如何にもって感じのティーンエイジャーらしい雰囲気が伝わってくる、漆黒の瞳を湛えていた。


 うちはてっきり、堅物っぽい委員長タイプの子が来るものだと考えていたから、不本意そうな雰囲気を隠そうともしないその子の登場に、虚を突かれた気分だった。


「は、はじめまして。雨の中、わざわざ来てくれてありがとうな。とりあえず、そこ座ってや」


 うちが思わず愛想のいい殊勝な受け答えをしてしまったのは、完全にそれで出鼻を挫かれたせいだった。その子はどうも、とか不躾な声で挨拶した後、おずおずとパイプ椅子に腰掛けた。


「えっと……すでに聞いてるやろけど、うちは沙条真琴な。で、あんたの方は?」


「……柏葉瑞稀」


「なるほど、柏葉さんな。……えっと、他に何か自己紹介的なの、あるか?」


「……特にないけど」


 いや、もうちょいなんか喋れや⁉ うちは内心、仏頂面で押し黙っているこの女の顔面にスリッパかコントローラーを投げつけてやりたくなった。だけど悲しきかな、うちの口をつくのはありふれた社交辞令ばかりだった。自分が知らぬ間に、毛嫌いしていた嘘くさい大人たちみたいな上辺だけの台詞を口走るようになっていたことに、やけに絶望した心持ちになった。


 だけど、うちは腐っても十代だった。そんな甲斐性なしの自分に段々と我慢ならなくなって、ついに勇気を出して盛大な皮肉を言い放ってやったのだ。


「――でもまあ。お見舞いに来てもろてんに悪いけど、あんたと顔合わせるのもこれで最後やろなぁ。うちの病気、治るようなもんとちゃうねん。手術する言うても対処療法みたいなもんやから。すぐに再発するの、わかりきっとるねん。そもそもうち、いつ死んでもおかしくない身やしなぁ。もしかしたら、明日には心臓の爆弾が爆発して、ご臨終しとるかもわからんわ」


 うちは嫌らしいほど明朗な笑みを口一杯に貼り付けた。うちの人生においてこのときほど、やってやった、という達成感を味わった瞬間は後にも先にもない。悪戯好きの悪ガキが、今までで一番でかい悪事を働いたときのような痛快感に、うちは軽く小躍りしそうになっていた。


 でも、うちの胸中に渦巻く爽快感は、ほんの数秒後には真正面から打ち砕かれることとなる。


「……ねえ。沙条さんはさ、自分の病気が治らないってことも、明日死ぬかも知れないってことも理解しているのに、どうしてそんなに明るげに振る舞うことができるわけ?」


 この言葉を聞いたとき、うちは絶句した。最初は皮肉に皮肉で返されたのかと思った。けど、そいつの馬鹿みたいに真剣一食な顔を見て、本気で言っているんだと理解した。


 次の瞬間、うちは堪らず吹き出した。そいつの反応が、あんまり常識はずれだったから。


「……っ、ははは! はぁー、なんやそれ⁉ あんた、正気か⁉ 病人に面と向かってそんなこと訊くやつがおるか! あっはは……! ヤバ、腹痛いわ……!」


「ま、待って! 別に私は、笑うようなことを言ったつもりは……」


「これが笑わんといられるか! 陰気な顔ばっかしとるから、なんやこいつ思うとったけど、実はこんなにおもろいやつだとはなぁ……! ひー、笑いとまらん……!」


 ああ、そっか。こいつは厨二病的な反骨心で黙りこくってたわけじゃなく、単純に何を言えば良いのかわからなくって、寡黙にならざるを得なかったのだ。こいつは純粋というかバカ真面目な性格で、適当な社交辞令を口にして乗り切るようなことができなかったのだろう。


 親や医者から投げかけられる耳障りのいい建前に辟易していたうちは、率直で素直な物言いをする瑞稀のことをものの見事に気に入ってしまった。


 けど、それはあくまでうちの都合に過ぎない。うちがどれだけもう一度会いたいと思ったところで、お見舞いを押し付けられただけの瑞稀が来てくれるはずはなく。


 ――と、そんなふうに考えていたのだけれど。


「……は? あんた、何しに来たん?」


「いや、お見舞いっていうか……手術、どうだったのかなって。なんか、気になっちゃって」


 私の後ろ向きな予想に反して、瑞稀は再びうちの病室に現れた。術後三日のことだった。


「あ、もしかして迷惑だった? なら帰るけど」


「っ、そんなことあらへん! ……来てくれて嬉しいわ。うち、ずっと一人で退屈しとるから」


「そうなの? 実は私も特に友達とかいないから、放課後とか暇なんだよね」


「あ、じゃあ……もしよかったらでええけど、ゲームでもしに来いひん? コントローラー、もう一つ用意しとくから。勿論、瑞稀の気が向いたらで構へんのやけど……」


 そんな感じで、うちと瑞稀の友情は始まった。最初は週に二、三日ほどだった瑞稀の訪問は、一ヶ月経つ頃には週五日になり、夏休みに入る頃には週七日、要は毎日になっていた。


 瑞稀との出会いは、退屈と倦怠と無力感に満ちていたうちの人生を、文字通り一変させた。青春と称するに相応しい煌めきが、うちの人生に宿ったかのようだった。


 普段は投げやりな考えでいることが多いうちだけど、初日にあんな勘違いをされてしまった手前、瑞稀の前では前向きで明るい少女として振る舞うよう努めた。素直にあれは皮肉のつもりだったと打ち明けなかったのは、一体いつになったら気づくのだろう、という悪戯心のせいでもあったし、幻滅されるのが怖い、という後ろ向きな心理のせいでもあった。


 けど、自分でも驚いたことに単なる演技でしかなかった前向きで明るい振る舞いは、いつの間にやら本物に成り代わってしまっていた。


 これまではリハビリなんてろくにやらなかったし、味が薄くて美味しくない病院食も残しがちだった。でも瑞稀が通ってくれるようになってからは、定期的に軽い運動をして少しでも体力を回復させるよう努めたし、食事だって完食するようにした。陳腐な話ではあるけれど、うちにとって瑞稀との邂逅は生きる希望となっていた。生まれてはじめて、心の底から生きたいと思うようになった。瑞稀と一緒に話がしたい。瑞稀と一緒にゲームがしたい。病院の外に散歩に出たい。いや、そんなものじゃ全然足りない。普通の子達と遜色なくなった身体で、海に行ったりしてみたい。燃えるような紅葉を眺めたり、スキーだってしてみたい。


 うちは瑞稀と一緒にしてみたいことを幾つも幾つも思い浮かべては、いつかそんな日が来るのを夢想して、それを希望に毎日を生きるようになった。


 勿論、そんなことは当面できそうもなかったけれど、単に瑞稀とゲームしてるだけでも、うちにとっては幸福だった。瑞稀とベッドの上で横並びになり、一つの画面に向かい合っている時間が好きだった。瑞稀の横顔を覗いたり、ちょっかいを出し合ったりするのに胸が高鳴った。


 ただの動く屍でしかなかったうちは、瑞稀と出会うことで初めて、生きるということを学んだのだった。

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