第25話 深夜の問答。

 深夜。いつの間にか眠っていた私は、あまりの寝苦しさに目が覚めた。そういえば、エアコンの電源をつけるのを忘れていた。どうりで暑苦しいわけだ。ベッドから這い出して死人のような足取りで机に向かい、置いてあったリモコンを操作する。そのままベッドに戻ろうかとも思ったけど、寝汗のせいか喉が渇いたので水を飲むことにした。


 リビングに出ると、ソファの上でタオルケットを被ったカナが丸まっていた。顔を背もたれの方に向けていたので、どんな寝顔を浮かべているのかはわからない。ついつい足を止めてしまいそうになる自分を諌めて、足音を立てないように注意して台所へ向かう。生ぬるい水道水を一杯飲んで、ため息を吐く。喉は潤ったので、早いところ部屋に戻ろうと思ったところで。


「ねえ、澪」机の上に置きっぱなしだった手鏡から、エアさんの声がした。私がとことこと近づいていくと、「ちょっといい?」と訊いてくる。私は頷く。なんだか目が冴えてしまったところだったし、丁度良い。私は衝撃を与えないよう手鏡を優しく持って、ベランダへと移動した。


「夜中にどうしたんですか、エアさん? ……って、もしかしたら、沙条さんもいるのかな」


「ううん。あの子は今は寝てる……って言い方も変だけど、表には出てないから。二人きり」


「そうですか」私は胸を撫で下ろし、手すりにだらりと寄りかかる。寝苦しい夜ではあるけれど日中の耐え難い暑さは鳴りを潜めていて、肌を撫でていく夜風は柔らかいぶん心地よかった。


「で、私に何か用ですか? それとも、暇が潰したかっただけ?」


「両方、かな。……ねえ澪。あのときも言ったけど、私、カナのことが気に食わないの。だってあいつ、でかい顔しておきながら隠し事ばかりしてるし、澪が魔眼研究に協力させられてたこと知っておきながら、お金で澪のこと霊魂回収に突き合わせたわけでしょ? それって、完全にあの子のエゴじゃん。よくそこまで厚顔になれるなって、ムカついて。……あのさ。私、すごく疑問に感じてるんだけど、あんたってどうしてカナの霊魂回収に付き合ってるわけ?」


 詰問するかのようなきつい口調で訊ねられ、私は取り調べを受ける容疑者のような心持ちになった。百万貰ったから、なんて適当な理由で押し切ろうとは思えなくって、一度考えを整理してから丁寧に問いかけに答える。


「……一言で言えば、憧れたからです。カナの笑顔に。カナの涙に。カナの、在り方に」


 エアさんからの反応はなかったけれど、無言のまま先を促しているのがなんとなくわかったので、私はそのまま言葉を続ける。


「実を言うと私、あんまり人の気持ちとかがわからないっていうか、誰かのために何かしたいとか思わないタイプの人間なんです。気が弱いからその醜さを外に出せないだけで、心の中では、なんで私がとか、面倒くさいなとか、やりたくないなとか、そういう後ろ向きで利己的な事ばかり考えてしまって。……私は、そんな自分があんまり好きじゃなくって」


 自虐の笑みを口元に貼り付けながら、眼下に広がる夜の街並みを睥睨する。カラオケや居酒屋が立ち並ぶ繁華街というわけでもないので、周囲はシンと静まり返って寂寞としていた。時々、道路を駆け抜けていく自動車の走行音だけが、この夜にある雑音の全てだった。


「でも、カナは私とは違うんです。あの子は私なんかよりよっぽど真っ直ぐで、純真で、正義感が強くて、気高くて。そんなカナが私の前で見せてくれた、誰かのためを思って浮かべた笑顔。……それに私は、魅入られたんです。私もそんなふうに笑ってみたいって、そう感じて。だから私は、カナのことを手伝いたいんです。私もカナみたいに、なりたいから」


「――だけど澪、利用されてるよ?」


 突きつけられた冷酷な現実に、胸が詰まった。姿が見えないぶん、いつ声を発してくるのかがわからないから心臓に悪い。エアさんは胸中の猜疑心を隠そうともせずに、ねえ、と挑戦的な声音で言葉を続ける。まるで、私の脳内に巣食う欺瞞を暴き立てようとするかのようだった。


「それさ、本当に澪の本心なわけ? 悪いけど、私には単なる耳障りの良い建前にしか聞こえない。本当はただ、あの子に見捨てられるのが怖いだけなんじゃないの? 一人になるのが嫌だから。自分が愛情を乞うことのできる相手が、カナ以外にいないから。だから都合よく使われてるだけってわかっても、縋り続けてしまって離れられない。それだけの話じゃないの?」


「それ、は……」私は返すべき言葉が見つからず、曖昧に語尾を濁らせることしかできない。


 一体、自らを空気と称するこの霊魂は何者なのだろうか。普段はその名の通り沈黙を貫いているけれど、随所随所で発する言葉の切れ味は凄まじく、的確に人の急所を貫いてくる。


「第一、カナは自分とは違って善良だって言うけど、その認識自体が怪しくない? だって考えてもみなよ。本当に善良な人間だったら、金に物言わせて相手を強引に聴従させたりする?」


「……まあ、それは仰るとおり、ですけど。でも私は、そういうカナの強引なところも嫌いじゃないっていうか、眩しく思えるんです。自分が正しいと思ったことを信じて貫くのって、中々できることじゃないし。それに、亡くなった人の心残りを晴らしてあげるっていうのは、やっぱり純粋に善い行いじゃないですか」


「善い行い、ねぇ。どうしてそう思うの?」


「え? どうしてって、それは……単純に、相手が喜んでくれるわけですし。成仏できないくらい強い未練を抱えている霊魂のために何かしてあげるのは、善行なんじゃないんですか?」


 思ってもみなかった部分に質問を投げかけられて、私はつい面食らってしまった。このくらい、自明なことだと思っていたのだけど。


 私は参考までに、恵美さんの霊魂回収をしたときの顛末を手短に語った。あの二人の結末を目にしている身としては、私達のしていることが悪いことだとは到底思えない。


「へぇ。なるほどね」特に感慨深げにするわけでもなく、平然とした声で相槌を打つエアさん。


「でもそれって、たまたまいい方向に話が転がってくれただけじゃないの? というか、やっぱりあの子のやってることって、どこか押し付けがましく思えてならないっていうか……」


 エアさんはなおも強情だった。カナに対する不信感は、割と根深いものらしい。


「でも、たとえ押し付けがましくても、相手のためになるのならそれでいいんじゃないですか? 瑞稀さんと沙条さんにしたって、そうじゃないですか。私もあの二人を放っておくよりかは、ちゃんと向き合ってもらう場を設えたほうがいいと思いますし」


「そう? ……ま、澪がそう思うならいいけどね」


 納得したのかしてないのかよくわからない言い振りだったけど、エアさんはそれで引き下がった。私はしばし、漫然と空を見る。天球は灰色の暗雲に覆われていて、月を見ることは叶わなかった。薄墨色に染まった夜空は、塞ぎがちな今の私の心中を象徴しているかのようで。


「でもさ。じゃあもしも、今生きてる人間に復讐したいって霊魂が出てきたら、どうするの? 勿論、沙条真琴の言うような迂遠な復讐とは違って、直接的な仕返しを所望してきた場合ね」


 ややあって、エアさんが再度質問を投げかけてくる。これは確かに、今後も霊魂回収を続けていくのだとしたら、いずれは当たることになる障壁かも知れない。私はしばし、黙考する。


「そうですね。こういうのは場合によりけりだと思うけど……ちょっとくらいなら許されるんじゃないかって気はします。ちゃんとした大義があって、程度が過ぎないものなら。さっきも言ったけど、私はここで復讐は絶対に駄目だ、なんて言えるような善い人間ではないので」


「……ふぅん、そっか」やけに意味深長な響きのある相槌だった。「澪は、そう思うんだ」


「は、はい、そうですけど……あの、エアさん?」


 私は鏡面から伝わってくる温度が俄に変化したように感じて、怪訝に思う。しばらく黙りこくっていたエアさんだけど、「なんでもない。付き合わせちゃってごめんね。そろそろ寝ようか」と言ってきたので、私は大人しく部屋の中に戻った。おやすみなさい、と声をかけてテーブルの上に手鏡をそっと置く。


 自室に戻る前に、私はさり気なくソファの上のカナを見やった。タオルケットが落ちそうになっていたので、直してあげた。高級なサテンを彷彿とさせる金髪の合間からは、カナの白い頬が覗いている。吸い寄せられそうになる目線を無理やり引き剥がし、私は自室へと戻った。


 エアコンの電源を入れておいたその部屋の空気は、やけに肌寒く感じられて仕方なかった。

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