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第16話 急に喧しくなった我が家です。

 朝。私は右目に不自然な痛みを感じて、目を覚ました。それはまるで啓示のような、或いはどこか深遠な座標からの呼び声のような、そういう奇妙な印象を思い浮かばせる疼きだった。


 私は思わず右手で右の魔眼を覆う。異能に目覚めたあの夜ほどではないとは言え、どこかそのときの痛みを彷彿とさせるような鮮烈な疼痛だった。


 しばらくすると、その痛みはゆっくりと消えていった。


 なんだったんだろう。今まで、こんな症状に見舞われたことはなかったのに。私は言いようのない不安を感じながらも、右の視覚を塞いでいた手のひらを徐々に外していく。


 すると、目の前に霊魂が浮いていた。


 ……は? 私はつい唖然として、半開きの両目をゴシゴシと右手で擦る。ベッドの上方には依然として、橙色の靄のような霊魂がふわふわとホバリングしていた。右目を一旦手で隠してから、再度見る。やっぱりいる。もう一度隠す。離す。消えない。……何故。いや何故⁉


「……っ、カ、カナ! 起きて起きて起きて、緊急事態!」


 私はタオルケットを蹴り飛ばしてベッドから跳ね起きると、急いで自室からリビングへ続く扉を開けた。そこには、Tシャツに短パン一枚という超リラックスしたスタイルで、クッションを枕にソファの上で横になっているカナがいた。


「ん……うるさいなぁ……。なんなの、こんな朝早くから……」


「別に早くないから! もう九時過ぎだし、むしろ遅い部類だから!」


「はぁ? 九時過ぎぃ? そんな時間に起こすとか、喧嘩売ってんの? 夏休みなんだし、昼まで寝かせてよ……。というか、もう無理。意識飛ぶ三秒前。じゃ、おやすみなさい……」


「ちょ⁉ だから緊急事態だって言ってるでしょ⁉ 話聞いてよ! そして寝ないで!」


 私は憤然とカナのタオルケットを無理やり引き剥がすと、未だにむにゃむにゃしてるカナのことを、洗面所まで首根っこ掴んで引きずっていった。冷水でその寝ぼけ面を洗いだす。


「ひっ⁉ つ、冷た⁉ ちょっと澪、何すんの……⁉」


 ビクッ! と総身を大きく震わせて、シャー! と白い八重歯をむき出しにしてくる今のカナは、さながら茶トラの野良猫か何かのようだった。私ははいはい、とカナからの抗議を適当にあしらいながら、なおもじゃぶじゃぶと顔面に水をかけていく。


「だから、やめろってうぶっ⁉ ちょ、言ってる側からかけないで……っ! はーなーせー!」


「あ、こら! 水飛ぶから暴れないでよ! もうちょっとで終わるから大人しくしてて」


「っ、わかった! わかったから! ちゃんと自分で洗うから、取り敢えず離して……!」


 とかなんとか言って本当は逃亡する気じゃないの? と猜疑しつつも私がゆっくりとお腹に回した腕を解くと、カナは観念したように自分で顔を洗い始めた。意外と物分りがいいことに感心しつつ、私もカナに続いて冷水で顔を洗った。タオルで顔を拭き終わると、カナが不機嫌さを隠そうともせず、私のことをジト目で睨みつけてきていた。


 そんなわけで私は今現在、カナと絶賛同居中の身だった。いやまあ、同居というか、単にカナが私の家に居候しているだけなのだけど、それはさておき、一体どういう経緯でこうなっているのかと言うと、だ。


 発端は、終業式を前日に控えた平日の昼休み。私とカナは屋上……は開放されていないので、その手前にある踊場に二人並んで腰を下ろしながら、お昼ごはんを食べていた。


 ちなみに私はメロンパン(三割引きシールつき)で、カナの方はカロリーなんちゃら。いちご牛乳片手にフルーツサンドでも頬張っているのがお似合いの目鼻立ちをしてるのに、戦場の兵士みたいな食生活をしていらっしゃる。


「そういえばカナってさ。なんで、学校でも私と一緒にいるの? それどころか最近は、わざわざ私のマンションの前までバイクで迎えに来るようになったし」


「嫌だった? ならやめるけど」


「あ、ううん。全然そんなことはないし、むしろ助かってるけど……迷惑じゃないかなって」


「大丈夫、通学路の途中だから。それに、澪が側にいると他の生徒がよってこないから楽だし」


 人避けジャイロ代わりに使ってたのかよ。ぴくり、と口の端が引き攣るのを感じた。


「……まあ、別にいいけど。って、あれ。そういえばカナって、どのへんに住んでるの?」


 私の何気ない問いかけにカナは大袈裟に肩をビクつかせる。つつー、と目を脇の方に逸らしつつ、「……い、家」男子小学生みたいなトンチで返された。メチャクチャ怪しい。「は、なにその答え? もしかして、不法占拠でもしてるわけ?」「……」黙秘。間違いない、黒だ。


 とまあ、そんなやり取りがあったので、放課後、私は家まで送ってくれたカナのことを尾行することにした。でも尾行といっても相手はバイクで私は徒歩なので、必然、ついていくことは難しい。案の定、途中で見失ってしまったのだけど、カナのバイクは特徴的だから見ればすぐにそれと知れるので、滅気ずに街中を歩き回ってみることにした。


 そうして宛もなく二時間ほど彷徨ってみたはいいものの、やっぱり都合よく見つかることはなかった。流石に諦めて帰ろうかな、という気分になったのだけれど、その直後。私の脇を、一台のパトカーがサイレンを鳴らしながら駆け抜けていった。それを見て、私は天啓的な第六感に突き動かされる。踵を返し、まさかね、と思いながらもパトカーのことを追いかける。


「――あのねぇ。君、そんなところでキャンプされちゃ困るよ」


 幸か不幸か、私の奇妙な直感はものの見事に的中した。河川敷の橋の下に一人用の小型のテントと、白色の大型バイクがぽつんと置かれ、その脇でセーラー服姿の金髪美少女が二人組の警察官から職質を受けていた。考えるまでもない。カナだ。


「大体君、まだ中学生でしょ? そのバイクは無免許? 学校と親に連絡させて貰うからね?」


「は? どっからどう見ても高校生ですよね目が腐ってやがるんですか、国民の税金で飯食ってるんだから地元の高校の制服くらい頭に入れといたらどうです職務怠慢で訴えますよ?」


 だがカナは警察に問い詰められても悪びれることはなく、血気盛んに論争をけしかけていた。相手が公権力であろうとも、カナの舌鋒は留まるところを知らない。いや、むしろ研ぎ澄まされているような。私は頭を抱えそうになりながらも、獰猛な肉食獣か猛禽類のように炯々と光る鋭い瞳で警官を睨みつけるカナのことを、さり気なく観察した。


 ……訳ありだとは思ってたけど、まさかここまで破天荒だったとは。これ、関わったら絶対面倒なことになるよなぁ。見なかったことにしたいなぁ。


 私はくるりと踵を返す。でも、なんだか様子が気になって、おずおずと橋の下の様子を窺ってしまう。そこには変わらず大人相手に苛烈な言い争いを挑むカナがいて、その様は勇猛果敢というよりは、死を覚悟で戦に臨む戦士のようで。要はまあ、気の毒だった。


 私は一度、はぁ、と大きくため息を吐く。こういうのキャラじゃないんだけどなぁ、でもここで立ち去るのはあまりにも後味が悪いよなぁ、とかうだうだと考えながらも、気づけば土手から河川敷へと下りていた。あの、と僅かに震えた声で警察官に呼びかける。


 その後はカナと目線だけでどうにか口裏合わせを試みながら、必死でそれらしい言い訳をでっち上げて、半ば逃げるような形でバイクに乗ってその場を立ち去った。


「……あのさ。訳ありなのはわかるんだけど、お金あるならホテルとかネットカフェとかに泊まればよかったんじゃないの?」


「無理。澪に百万あげちゃったから、ほぼ一文無しだもん。銭湯と洗濯と食料だけで一杯一杯」


「え、嘘。随分あっさり出してきたわりには、なけなしの百万だったわけ? ……はぁ。しょうがないなぁ。それじゃあ私の家、来る? 幸い一人暮らしだし、そこそこ広いし。……というか、家賃はもう貰っちゃってるようなものだしね」


 とまあ、流れとしてはこんな感じだ。心無い近隣住民からの通報で住処を失ったカナのことを、私は行き場をなくした捨て猫を拾うような感覚で家に住まわせている、というわけである。

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