第15話 運命の夜、です。

「……ん。帰って、きた? カナも真澄さんも、無事?」


 ゆっくりと瞼を開けながら上体を起こすと、窓の外は既にほの暗くなっていた。あんなに激しかった雨はすっかりやんでいて、空には蜂蜜色の半月が悠々と浮いている。照明のない部屋の中を、優しい月影が控えめに照らし上げていた。


「はい。私は大丈夫です。それじゃ、今のうちに回収しちゃいますけど……いいですか?」


 カナは霊槍を掴んで立ち上がると、床の上に大の字になったままの真澄さんのことを一瞥した。真澄さんは天井をじっと眺めたまま、「ん、お願い」と落ち着いた声で言う。カナが霊槍の先端を手鏡の上方に向ける。と、手鏡からチラチラと舞い上がっていた青色の光の切片が、みるみるうちに鋭利な先端へと吸い込まれていき、そして消えた。右目の視界に非日常的な光景が何一つ浮かんでいないのを確認してから、私は再度、眼帯をつけて虹色の魔眼を覆った。


 しばらくの間、私達は一言も言葉を発しなかった。夏の夜の、弛緩した静寂だけがゆったりと流れていく。どこか遠いところで、一人ぼっちで鳴いている虫の音が聞こえてきた。


「さてと。……あーあ。改めて見回してみると、こりゃ酷い惨状だね。片付けるのは骨が折れそう。あいつめ、面倒な置き土産残して行きやがって」


 ようやく体を起こした真澄さんがやけに明る気な声で言いながら、肩を竦める。


「というか、私達ずぶ濡れで帰ってきたから、すっごい気持ち悪いな。澪ちゃん、シャワー浴びてく? 先入っていいよ。服は適当に私の貸すから。あ、流石に下着は自分の着てもらうけどね。じゃあ私、ちょっと準備してくるよ」


 まだ返事していないのにもかかわらず、足早に脱衣所へと行ってしまう真澄さん。てきぱきと私の着替えやタオルを用意すると、自分も濡れてしまった服を着替えて、「ちょっとコインランドリー行ってくるから」とかなんとか言って、玄関で靴を履き始めた。私が当惑していると、カナが「一人にしてあげましょう」と言うので、大人しくシャワーを浴びて待っていることにした。人の家でお風呂に入るのなんて初めての体験なので、非常に緊張した。


 真澄さんは三十分ほどで帰ってきた。手には、コンビニのビニール袋がぶら下がっていた。中身はカップ麺で、私達三人は散らかった部屋の隅っこでズルズルと麺を啜った。ナイフとフォークを握って優雅にフルコースでも食している姿が似合いそうな金髪美少女が、割り箸でインスタント麺をずずず、と啜っている光景は、ちょっとだけ見ものだった。


「……あのさ。色々とありがとね、二人共。最後は大変なことになっちゃったけど、それでもやっぱり、自分の中で蟠っていた感情にけじめがつけられたと思う。ありがとう」


 空になったカップ麺の器を脇に置き、真澄さんが改まった調子で言ってくる。私は謙遜しようとしたけれど、カナが始めたことである以上は私がそういうことをするのは筋違いのような気がして、軽く頭を下げておくにとどめた。カナは微かに目を見開いた後、サファイアのような澄んだ青い瞳を伏せた。しばらくの間、唇をキュッと引き結んで押し黙っていたカナだったけど、あの、と意を決したように声を発した。


「……真澄さんは、恨んでるんじゃないんですか? 霊素発電の開発者である鴉場利明や、彼が案出した霊魂回収のことを。初めて会ったときとか、言ってましたよね。霊魂回収なんか嫌いだ、意地でも協力してやるか、って。それなのに……どうして、お礼なんか」


 足の指と指とを擦り合わせながら、心做しか弱々しい声で途切れ途切れに訊いてくるカナ。その端正な横顔には前髪の影が落ちていて、儚げで精緻な印象が際立っていた。指先が少し触れただけでも簡単に崩れ去る、繊細で脆弱なガラス細工を連想させた。


「どうしてって、そんなのは当たり前だよ。確かに私は、霊発事故を引き起こした張本人である鴉場利明が懲りずに霊魂回収を始めたって知ったときは、どれだけ面の皮が厚いんだって義憤を感じた。でも、それとこれとは話が別物。私はさ、カナちゃんが私のところに来てくれてよかったって、ちゃんとそう感じてるから。なら、ありがとうくらい言わなきゃでしょ?」


 臆面もなく語られた真澄さんからの感謝に何を思ったのか、カナはただでさえ大きな両目を見開いた。だが霊槍を取って勢いよく立ち上がると、「カップ麺、ありがとうございました。……失礼します」と吐き捨てるように口走り、逃げるような足取りで玄関に向かってしまった。


「え、ちょっと、カナ⁉ 急にどうし……って、行っちゃったし。嘘でしょ」


 カナの取った唐突な奇行に、私は愕然とさせられる。真澄さんとの最後の挨拶とか、私に押し付けないでくれないかな。そういうの、すっごい苦手なんだけど……。


 私が軽く絶望的な心地を味わっていると、「行っちゃったね」と真澄さんがサラリとこぼす。


「すいません。なんか、失礼な感じの別れになっちゃって。急に出ていくなんて、本当、どうしたんだろう。……やっぱりよくわからないな、カナのこと」


「そういえばさ。前から気になってたんだけど、二人ってどういう関係なの? 友達?」


 真澄さんからの唐突な質問に、私は意表を突かれた心地がした。ちょっと考えてから、「微妙なところだと思います」と正直な所感を口にした。


「私は別に、カナと仲良しだから霊魂回収してるとかいうわけじゃなくて。どっちかっていうと、もっとビジネスライクな関係性っていうか……」


「ふぅん。なんか、そっちにも色々と複雑な事情があるんだね」


 真澄さんはそれきり、私とカナの素性を詮索してきたりはしなかった。気を使ってくれたのだろう。その大人な対応に、私は内心で感謝した。


「それじゃ、カナちゃんも行っちゃったことだし、澪ちゃんもそろそろ帰りなよ。もう遅いし、本当は泊まっていってもらったほうが良いのかも知れないけど、この部屋の状態じゃそれも難しいしね。カナちゃんには、気をつけて運転してねって伝えておいて」


「あ、はい。えっと、その……とにかく、ありがとうございました。色々と迷惑をおかけしてしまって、申し訳ないですけど……」


「あー、いいよいいよ。そういう堅苦しい挨拶は。それより、はいこれ。澪ちゃんの服。タグ見たら乾燥機使えないみたいだったから、乾いてはないけど。家に帰ったら干しておいて」


 私のゴスロリ服が入ったビニール袋を、ずい、と差し出してくる真澄さん。私はそれをおずおずと受け取ってから、玄関に移動して靴を履く。


「それじゃあね、澪ちゃん。また今度、カナちゃんと二人で遊びに来てよ。部屋の片付けとか終わって落ち着いたら、連絡するからさ。ちゃんとお礼もしたいしね」


「あ、はい、わかりました。また来ます。服も、返さないといけないし」


 ちら、と視線を下に落として自分の服装を一瞥する。真澄さんが普段着こなしているようなシンプルなパンツとTシャツ。ふりふりした格好ばかりしている私としては若干新鮮な心持ちがしなくもないが、バイクに乗ることを考えるとこの方が適切なのだろう。


「ああ、別に急がなくてもいいからね? それより、服、可愛いやつじゃなくてごめん」


「いえ、全然構わないです。普通に助かりました。……それじゃ、私はこれで。失礼します」


「うん、また。気をつけて帰ってね」


 私はペコリと頭を下げて、ひらひらと手を振る真澄さんに見送られながらアパートを後にした。始まりと過程は波乱万丈だったけど、幕引きはあっさりとしたものだった。まるでお祭りが終わった後のようなしみじみとした平穏が、生ぬるい夏の夜気には漂っているかのようで。


 だけど私の胸中に飛来したのは、そうした静けさに対する寂寥感でもなければ、無事に霊魂回収をやり遂げたことへの達成感でもなく、全身を覆う凄まじいまでの疲労感だけだった。


「……疲れた」と呆けた声でひとりごち、私は猫背になりながら、とぼとぼと古びた外階段を下りていく。キィキィという金属音が、軋んだ心身の上げる悲鳴のように思えてならなかった。


 一週間前、カナに大金を手渡された私は霊魂回収につきあわされる羽目になり、バイクで霊素村まで連行された。そこで恵美さんの霊魂を憑依させて、真澄さんの家を訪ねて、そして今日、荒御魂化してしまった恵美さんを心象世界でどうにか鎮めて。


 紆余曲折はあったけど、大団円と呼べる結末には辿り着いた。だからこそ、当事者である私がやるべきことはその感動に打ち震えて滂沱することなのだろう。


 でも私はどうしても、その手の美しくて叙情的な感傷には浸れそうもなかった。疲れた。大変だった。面倒だった。今回はたまたま何とかなったけど、ただ運が良かっただけ。次も上手くいくとは限らない。もうやりたくないなぁ。でも百万貰ったんだし、また次もつきあわされるんだろうなぁ。嫌だなぁ。断ればよかったなぁ。等々。他人に聞かせたら蔑みの目で見られること必定の、後ろ向きで醜悪な感想が次から次へと、意識の上に現れては消えていく。


 あーあ。本当にみっともないな、私って。


 そうして、ふ、と口の端が皮肉げに釣り上がるのを感じたところで、私は見てしまった。


 カナが、敷地の隅に止めたバイクに寄りかかりながら、涙を流しているところを。


 私は息を呑んだ。咄嗟に近くにあった看板の影に隠れて、カナの様子を改めて窺う。


「……そっか。私にも、できたんだ。二人のために、何かが。……ちゃんと、あの人みたいに。……よかったな。本当に。……ありがとうって、言ってもらえた。……嬉しいなぁ」


 ポロポロとこぼれ落ちる涙が、柔らかな月の光を受けて玲瓏と煌めいていた。白磁器のように白く、たおやかな指先で、湖面のようなブルーを湛えた両の瞳を拭うカナの姿に、私の目はなぜか釘付けにされてしまった。そして、ひどく困惑させられる。


 ……どうして? どうして、そんなに嬉しそうな顔をしてるの? だって、救われたのはあくまでも真澄さんと恵美さんであって、カナじゃないのに。あの二人の物語がどのような結末を迎えようが、カナには関係ないはずなのに。


 だけどカナは、なおもポロポロと大粒の涙をこぼし続けていた。まるであの二人が救われたことで自分自身にも救済がもたらされた、とでもいうかのように。


 カナは笑っていた。泣きながら笑っていた。それは衒いも屈託も一切ない、心の底からあふれ出たような清らかな笑顔で、そのあまりの美麗さに私は心臓を貫かれたような衝撃を受けた。


 ……だって私は、あんなふうには、笑えない。私が浮かべる笑みなんて、他人を見下す冷笑か、自分を卑下する嘲笑か、痛みを誤魔化す苦笑くらいで、カナみたいに他人の喜びを自分のもののように感じて笑うことなんて、できない。今のカナが浮かべているあの表情は、私なんかには到底理解不可能な、気味の悪い異物でしかなかった。


 だけど、どうしてだろう。はらはらとこぼれ落ちる白い輝きに彩られたその笑みから、私は一瞬たりとも目を離すことができなかった。その笑顔はひたすらに、私の胸の奥底を掻き立ててきてやまなかった。見ていると心臓がワイヤーで引き締められたような感覚がして、痛かった。でも同時に、眩しくて、遠くて、夜空に浮かぶ星々の煌めきのようにも思えて。


 だからだろうか。気づけば私は物陰から飛び出して、カナが驚き狼狽えるのを意にも介さず、その煌めくような涙を指先でそっと拭っていた。星のような輝きに、手を伸ばしていた。


「よ、夜見塚さん……⁉ え、えっと、これはその、ちょっと目にゴミが入っただけで……」


「ねえ。カナは、どうして泣いてるの? 私には……それが、よく理解できないの」


「……え? あ、あの、急にどうしたんですか?」


「私、知りたい。カナのこぼした、この涙の意味。カナが浮かべる、この笑顔の意味。私も、カナみたいに……なりたいな。カナみたいに、心の底から笑ってみたい」


 私が切実にそう言うと、今まで呆気にとられていたカナが、ハッとしたように目を見開いた。カナの頬を覆っていた私の手を払って、「やめてください」と絞り出すような声で言う。


「……違うんです。夜見塚さんは、何か勘違いしてます。私は別に、あなたが考えているほどできた人間じゃない。私はただ……あの人がやっていたことの、猿真似をしてるだけだから」


 カナは左腕に添えた右手をギュッと握りしめながら、伏せた目を細めた。心象世界に移動する前、「こんな姿、あの人に見られたら笑われますね」と口にしていたことを思い出した。


「実を言うと私には、憧れている人がいるんです。だけどその人は、数ヶ月前に突然、私の前からいなくなってしまって。それで、その人のやり方で霊魂回収をしていれば、また会えるかもって思って……。私の本当の目的は、それなんです。いなくなってしまった大切な人に再開したいだけなんです。……だから、誰かからそんな風に言ってもらう資格なんて、私には――」


「あるよ」きっぱりとした口調で、私はカナの自虐の言葉を否定した。カナが顔を上げる。彼女の瑠璃色の澄んだ双眸を見据えながら、私は続ける。


「そうじゃないの。確かにカナにも、色々と打算みたいなものはあるのかも知れないけど……それでもね、私が憧れたのは他の誰のものでもないカナの笑顔なの。私は、カナみたいになりたいの。だから、そんなこと言わないで。……それじゃ、魅せられた私がバカみたいじゃん」


 それきり、場に沈黙が落ちる。遠くから聞こえてくる自動車のエンジン音だけが、静寂を埋めるかのようにひそやかに鳴り響く。初夏の生温かい夜風が私の黒髪をゆったりと撫で、カナの金髪をサラサラと流していく。それはまるで、映画か何かのワンシーンかと勘違いしてしまいそうになるほど劇的で、美しい人生の一幕だった。


「……わかり、ました」口を噤んだままだったカナが、囁くような声で言う。「要するに澪は、私の霊魂回収に改めて協力したいってことでいいんですか?」


 私はこくん、と首を縦に振る。それと同時に、気がついた。


「あ、あれ? 今カナ、私のこと澪って……」


「……自分は呼び捨てのくせして、私が名前呼びするのは許さないっていうんですか?」


 カナは気恥ずかしそうに唇を尖らせながら、不服そうに私を見やる。最初はぽかん、と呆気にとられていた私だったけど、カナがあからさまな照れ隠しをしてくるものだから吹き出してしまった。怖い人だと思ってたけど、意外と不器用っていうか、可愛いところもあるんだ。


「……あははっ! うん、いいよいいよ、呼び方くらい好きにして。むしろ、ちょっと嬉しいかも。実は私、この人めっちゃ壁作ってくるなーってずっと思ってたんだ」


「は、はぁ? うっさいですね、壁が厚いのはお互い様でしょ……」


「あ、そうだ。ついでに丁寧語もやめようよ。どうせちょくちょく口悪くなるんだから、礼儀正しい印象とか望めないからね? むしろ慇懃無礼な感じがして印象悪いよ?」


「調子乗ってディスってくるのはやめてくれませんか? ……あ。や、やめてくれない?」


 カナは少々恥ずかしそうに、辿々しい口ぶりで言い直す。その不器用さ加減がおかしくて私が思わず吹き出すと、「うっさい笑うな!」と怒りながらヘルメットを投げてきた。


「そんなことより、さっさと帰るよ! あんまり遅くなると警察に声かけられちゃうし」


 カナがせかせかとバイクのエンジンをかけるので、私も慌ててシートの後ろに座る。


 程なくしてバイクが動き出す。夜の住宅街に、無骨な大型バイクのエンジン音が轟き始める。


 私はカナのお腹に両腕を回して、シートから伝わってくる振動を総身で感じる。回した両腕にこめた力が、やけに強くなってしまっている気がして、私は笑った。

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