第14話 心象世界(岸田恵美) 第三幕

 しばらく経つまで、記憶の流入が途絶えたということに気が付かなかった。私はそれくらい、強烈なショックを受けていた。記憶のカケラから流れ込んでくるのは記憶であって、記録ではない。その感覚は本を読んだり映画を見たりといった体験とは趣を大きく異にしている。瞬間的に自分がその人自身に成り代わって、断片的な記憶を追体験させられる感覚だ。必然、味わわされる感情のリアリティも跳ね上がる。私はこれまで真澄さんが味わってきた艱難辛苦を物凄い密度で叩きつけられて、嘔吐でもしてしまいそうなほど最悪の気分になっていた。


「……そっか。あの人、ここまで酷い仕打ちを受けてたんだ」


 感情を窺わせないクールな振る舞いをすることが多いカナも流石に今のは応えたらしく、軽く頬が青ざめていた。ふらりと後ろに倒れ込みそうになっていたので支えようとすると、「大丈夫です」と右手を突き出して制止してきた。……私のときは手を貸してきたのに、自分が倒れそうなときは拒絶するんだ、この人は。なんとなく、複雑な気持ちになった。


 今になって、心象世界の風景が移り変わっていることに気がつく。場所こそ変わっていないものの、円筒状の装置は大きく変色し、先端の方は変形し、ところどころで焼けただれたようになっていた。霊発事故が起こった後の、今現在の霊素村と同じ景色だ。見上げた空は、藍色混じりの茜色。朝か夕方のどちらかだけど、なんとなく、後者だろうという予感があった。


 真澄さんは、広場の中央で両腕をきつく抱きしめながら、地面に膝をついていた。記憶の流入が起こるのは、本人とて例外ではない。真澄さんとしても、相当辛い時間だったのだろう。


「……あれ? お姉ちゃん? ちょっと、どこ行っちゃったの、お姉ちゃん……!」


 迷子になった幼子のような、聞いていて胸を締め上げられるような声で言いながら真澄さんがキョロキョロと周囲を見渡す。真澄さんの言う通り、記憶の流入が終わった時点で恵美さんは忽然と姿を消していた。私もカナも怪訝に思って、辺りを見回し始める。


「なに、それ……。身勝手に私の前に現れておいて、何も言わずにいなくなるわけ……⁉」


 真澄さんが泣き叫ぶように吐き捨てながら、立ち上がる。さっきまで綺麗だった木刀は今、現実のそれと同様に悪意に満ちた言葉にまみれて、穢れてしまっていた。けど真澄さんは呪いで穢れたその木刀を、なおも大切な宝物であるかのように、きつく抱きしめていた。


「ふざけないで……! あんたは、どこまで身勝手なやつなのよ! 私のことかき乱すだけかき乱して、けじめもつけずに勝手に消えるっていうの⁉ ……ねえ! どうして、何も言わずに行っちゃうの……? やめてよ。私のこと、一人にしないでよ。……お姉ちゃん」


「――やっと本音を話してくれたね、真澄」


 崩れ落ちそうになっていた真澄さんのことを、突如として背後に現れた恵美さんが抱きしめた。何もない空間に一瞬で姿を表した恵美さんは、それこそ、本物の幽霊か何かのようで。


 真澄さんが顔を上げる。その容貌は、泣き出す寸前の子供みたいにグシャグシャだった。


「ごめんね。一人にして。守って、あげられなくて。真澄は今まで、ずっとずっと無理してたんだよね。わかるよ。威勢よく啖呵切ってはいたけど、真澄ってそんなに強い人間じゃないし」


「お姉、ちゃん。……うん。そうなの。私、本当はずっとずっと、辛かった。何度も何度もお姉ちゃんに助けて欲しいって、守って欲しいて、抱きしめて欲しいって思った。でもお姉ちゃんはもういないから、死んじゃったから、いつもいつも、心細くて、寂しくて……」


 真澄さんのことを暖かく包み込む恵美さんの言葉は、まさに聖母の囁きそのもので、そんな恵美さんに抱きしめられる真澄さんの姿は、小学生の時分まで若返ったかのようだった。恵美さんは両腕一杯に抱きしめた真澄さんのことを、慈しみに満ちた、柔らかな眼で見つめている。


「そっかそっか。だけど、もう心配いらないから。これからは私が一生、真澄のことを守ってあげる。一人ぼっちになんかさせないし、辛い思いだってさせない。真澄のことを傷つけるありとあらゆる障害から、真澄のことを庇ってあげる。ずっと……ずっと、一緒だから」


「まずいですね」黙って二人のやり取りを見守っていたカナが口を開いた。「このままだとあの人、こっちの世界に取り込まれたまま戻ってこられなくなる。ミイラ取りがミイラに、というやつです。……仕方ない。後味は悪いですが、恵美さんは私が責任を持ってどうにかします」


 カナがほっそりとした右手で虚空を滑らせるようになぞる。と、どこからともなく近未来的なデザインの槍のような見た目をした、霊槍が現れる。カナは慣れた手付きでそれを握ると、冷徹な視線であの姉妹のことを見据え、一歩前に踏み出そうとした――が、その刹那。


「……ありがとう、お姉ちゃん。そう言ってくれて、本当に嬉しい。……でもね」


 真澄さんは噛みしめるようにそう言うと、慈悲深く体を包み込んでいた恵美さんの両腕を、ゆっくりと払い除けた。恵美さんが、え、と両目を見開いて呆然とする。真澄さんという抱きしめる対象を失った今の恵美さんは、何故だかやけに小さく見えた。


 真澄さんは一歩前に踏み出すと同時に、今までずっと胸の中に大切に抱え込んでいた木刀を、恵美さんの眼前に軽やかに投げ捨てた。それから、腕をそっと一振り。宙空に現れたのは、本物の日本刀だった。傷一つない鏡面のような刃が、暮れなずむ空を映しだしている。


 真澄さんがくるりと踵を返す。悠々とした足取りで、空っぽになった両腕で自分自身を抱きしめている最愛の姉のもとに、近づいていく。


「あ……。ます、み……?」涙する一歩手前の表情で、小さく首を傾げる恵美さん。


 そんな彼女の心臓を、真澄さんは一切の躊躇いのない静寂の一突きで、貫いた。


 流血はない。当然だ。だって恵美さんは、もうとっくに死んでいるのだから。


「――それはもう、どうしようもないほど遅すぎる救いなんだよ。お姉ちゃん」


 真澄さんはゆっくりと日本刀を引き抜いた。もうお役御免だ、と言わんばかりにその真剣を放り捨てる。宙を舞う刀は迫りくる闇に飲まれるように、ゆっくりと、その姿を宵闇の中に溶け込ませ、ひそやかに消え失せた。


 未だに生気の抜けきったような表情をしている恵美さんのことを、真澄さんは凛然とした双眸を悲しげに細めて見やった。その大人びた容貌には、複雑な感情が切々と浮かんでいる。


「あのさ。お姉ちゃんは私が何年間、お姉ちゃんのいない世界を生きてきたと思ってる? 九年だよ。今の私は、十九歳なの。十六歳で時計の針が止まったままのお姉ちゃんより、もう三歳も年上なんだよ。確かにこれまでの人生、辛いことも、苦しいことも、お姉ちゃんに守ってほしいときも沢山あった。でもそれは過去の話なの。今の私はもうとっくに、一人でも大丈夫になってる。だから、その……ごめんね、お姉ちゃん。……一緒に、いてあげられなくて」


 言い終えると同時に、真澄さんはゆったりと息を吐き出しながら、目を伏せた。鷹揚な所作で髪を掻き上げる彼女の醸す雰囲気は、爽やかなセーラー服に身を包んだ恵美さんより何倍も大人びていて、二人の間にある時の隔絶をひしひしと思い知らされた。


「それからさ。私、ずっと訊きたかったんだけど、お姉ちゃんが剣道部だったって話、嘘だよね? もしかしたら幼い私に合わせてくれてたのかも、とも思ってたけど、改めて打ち合ってみてわかった。お姉ちゃんの太刀筋ってメチャクチャだし、足運びも適当だし、そもそも剣道ってあんなにアクロバティックなスポーツじゃないし。きっと、ただ単に私に自信とかをつけさせたくて、そのために嘘吐いただけなんだよね? だからさ、正直に言うと、本当は私……」


 言いづらそうに口ごもる真澄さんを見て、恵美さんは、あ、と小さく声を漏らした。それから、ははは、と控えめに笑い出す。その引きつった笑顔はどこまでも悲しげで、胸をギュウギュウと締め付けてきて、私は思わず心臓の辺りを右手で握りしめていた。


「そっ、か。私、真澄に手加減されてたんだ。その気になれば、ド素人の私なんて簡単に切り捨てられるのに、それじゃ可愛そうだからって、わざわざ私のチャンバラごっこに付き合ってくれてたんだ。……そっか。……そっかぁ」


 最後のそっか、を口にした瞬間、恵美さんは両手で口元を押さえつけてその場に泣き崩れた。


「なにそれ……! ヤバ、超笑えるんだけど……! だって私、今すっごく、バカみたいじゃん! 真澄のこと守ってあげるだの何の、今まで散々上から目線で大口叩いてたのに、本当は自分が一番みっともない子供のままで、ずっとずっと、真澄に甘やかされ続けてたなんて……!」


 いつの間にか夜の帳が下りた心象世界の真ん中で、嗚咽混じりの哄笑を響かせる恵美さん。彼女の身体を構成する霊魂が、少しずつ崩壊していっているのがわかった。真澄さんのあの一差しが利いたのか、或いはもっと根本的な部分で、自分の霊魂を保てなくなるような何かがあったのか。多分、両方なのだろう。


 刻々と身体が霊素へと崩壊し、恵美さんの輪郭が曖昧になっていく。心なしか、仄白い月明かりで反対側が透けているようにも見えた。月光に照らしあげられる恵美さんの魂は、まるで、今まさに天に召されようとしているかのようで。


「……あーあ。私、今までずっと勘違いしてたみたい。きっと生前のときから、依存してたのは真澄じゃなくて私の方だったんだ。……私さ、本当は自分のこととかあんまり好きじゃないし、自信とかもなかったし、だから真澄がお姉ちゃん、お姉ちゃん、って甘えてきて、必要としてくれるのが嬉しかったんだ。だから私は真澄に、いつまで経っても弱くて泣き虫で私がいないとなんにもできない駄目な妹のままでいてくれなきゃ、気が済まなかった。こんな矛盾、真澄の成長を素直に喜べなかった時点で、気づいておくべきだったのに。馬鹿だね、私って」


 恵美さんが自嘲気味に口の端を釣り上げる。先程から口を噤んだままの真澄さんはじっと顔を伏せていて、どんな面持ちで消え行く姉のことを眺めているのかは、わからない。


「そういうことなら、この剣ももう、真澄には必要ないか。これは私が持っていくね。こんな差別的発言ばっか書き殴られた木刀なんて、後生大事に取っておくものでもないだろうし」


 恵美さんは少しだけ冗談めかして言いながら、真澄さんが手放した木刀を手に取った。切なげな顔つきで、心無い他人の手によって冒涜されてしまった思い出の品を、指先で撫でている。


「――っ、待って……!」唐突に、黙念と佇んでいた真澄さんが恵美さんの前にかがみ込んだ。今度は逆に真澄さんが、恵美さんのことを抱きしめる。


「やめて。……勘違い、しないでよ。確かに私も多少は成長したのかも知れないけど、それでもまだまだ子供なの。大して格好良くなれたわけじゃないから、買いかぶらないで。今だってまだ、辛くなっちゃうときとか、お姉ちゃんに側にいて欲しいって思うこととか、たまにはあるし。だから……このくらいは残していってよ。こんなものでも、大切な形見なんだから」


 切実な声音で訴えかける真澄さんに対し、恵美さんは最初、面食らったかのようにパチクリと目をしばたたいていた。でも数秒後には、口をあんぐりと開けながら呵々大笑し始めた。陰るところ一切なしの、夏の蒼穹のように爽やかで清々しい、恵美さんらしい笑い方だった。


「うっわ、なにその台詞! ダサい! 超絶ダサい! やっぱ、なんだかんだ言ってそっちも未練たらたらなんじゃん! あー、面白い。最後にいいもの見せてもらったなー」


「……っ、はぁ⁉ このシリアスな状況でそういうこと言う⁉ 空気読んでよ、このバカ姉貴!」


 真澄さんが年甲斐もなく顔を真赤に染め上げながら、うがー、と凄い剣幕で抗議する。がくがく、と肩を揺さぶろうとするけれど、真澄さんの両手はスッと恵美さんの身体をすり抜けてしまう。それで、ハッとした顔つきになる真澄さん。


「えー、なんでよ。いーじゃん。重苦しい別れより、面白おかしいさよならの方が。……ちょっと。なんて顔してんのよ。ちゃんと、笑ってるとこ見せて? 折角、綺麗になったんだから」


「……っ、わかった、よ。……これでいい? 上手く笑えてるか、わからないけど」


「んー、ギリギリ及第点? 本当は不合格にしたいけど、ま、真澄の笑顔は今日までに充分堪能させて頂いてるからね。これで勘弁してあげる。……それじゃあね。元気にやりなさい」


 その言葉を最後に、恵美さんの姿が完全に消え失せた。からん、と微かな音を響かせながら、形見の木刀が真澄さんの腕の中に落ちる。主を失うと同時に、世界は凄まじい速度で崩壊をし始める。ガラスが白に染まりながら砕け散るような終末の風景の中、お姉ちゃん、と。万感の思いの込められた呼び声が、空に向かって解き放たれるのを、聞いたような気がした。

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