第4話 さくらちゃんがわたしのこと……

 母の志乃しの魔桜堂まおうどうを始めるため、この『さくら通り商店街』の、この場所に、さくらと一緒に移り住んだのは、さくらが四歳になってすぐのころだった。

 商店街の住人は、父親の影のなかった母子ふたりだけの新しい家族を、深く詮索することもなく、自分の家族に接するのと変わりなく扱ってくれた。


 当時のさくら通り商店街は、大通りにある、隣の大きな商店街に客足を取られ、閑散とした寂しいところだった。

 その潰れかけていた小さな商店街にやってきた、まだ若かった母と小さかったさくら。


「お母さんが、この場所で魔桜堂を始めようと思ったのはね、この大きな桜の樹がここにあったからなの。さくらと同じ名前の樹……。春になったら、きっときれいな花が咲くと思うわ……。お母さんは、ここがとても好きになれると思うの。……さくらも一緒にがんばっていこうね」

 目の前の桜の樹を見上げながら、そう言った母は、微笑んでやさしくさくらの頭を撫でたのだ。

「うん」

 さくらも、母のその言葉に笑顔で答える。


 さくらの返事を待って、母が振り返った。一度、大きく深呼吸をする。そして、さくら通り商店街すべてに届くほどの、透き通るような声で挨拶をした。

「これから、こちらでお世話になります。高遠たかとお志乃しのです。この子はさくらっていいます。商店街の皆さん、どうかよろしくお願いします」

 深々と頭を下げる母。

「お願いします……」

 母の真似をして、さくらも同じことをしている。


 あまりにも突然の行動に、少しだけ間があった後、ここの商店街を代表するように、洋食屋の主人がふたりの前に現れ、話しかけてきた。ほかの住人は、まだ、店先から顔を覗かせ様子を窺っている。

「この商店街の、この桜の樹を好きになってくれて嬉しいよ。ありがとう。この街で困ったことがあったら、何でも言ってくれ。それ以外のことでも構わないからな。いつでも相談するんだぞ」

 言葉使いは少し乱暴だったけれど、やさしく迎え入れてもらえたことが、母は嬉しかったと、事あるごとにさくらに話していた。


 洋食屋の主人は続けて。

「それから、そっちのっさいの。さくらっていうのか? いい名前じゃないか。お母さん、いや、志乃さんのこと、たくさん助けてあげるんだぞ」

「はいっ」

 さくらも精一杯の声で返事をした。


 この日の夜は、商店街の住人全員が、この洋食屋、さくらていに集まった。さくらたちを迎える歓迎会が夜遅くまで開かれたのだ。

 その中には、当時、小学二年生だったマリや、中学一年生だったしのぶやけんの姿もあった。

 しのぶたちの会話が、さくらにも聞こえてきた。

「しのぶ、さくらのこと、しっかり面倒みてやってくれ。頼んだぞ」

 反対からはマリとその母親との会話。

「マリのほうが、少しだけお姉さんだから、さくらちゃんと仲良くしてあげるのよ」

 マリは母親からのその言葉に、小さく頷く。そして、さくらのほうへと向き直った。


「わ、わたし……、マリってうの……。さくらちゃんてうんだね。わたしと、お、お友だちになってくれる……?」

 辿々しい自己紹介を、おとなたちは微笑ましく見つめていた。

 さくらがマリたちのことを、初めて知った瞬間だった。

「こぉらぁ、さくらぁ。いつまでもお母さんの後ろに隠れてないで出てきなさい。こんなにかわいいお姉さんたちが、さくらを待っててくれてるのよ。ほらっ、しっかりと挨拶をしなさい。しのぶちゃんにマリちゃんかぁ……、うちのさくらはこんなだけど、仲良くしてくれるかなぁ?」


 この時のさくらは、まだとても小さく、母に軽々と抱き抱えられ、ふたりの前に連れ出されたのだった。初めての対面に、顔を紅くして恥ずかしがっているさくらが、おずおずとふたりの名前を呼んだ。

「しのぶ……さんと、マリ……お姉ちゃん?」

「うわぁ、し、しのぶさん。さくらちゃんがわたしのこと……、お姉ちゃんてってくれた」

 これまで、この商店街で一番年下だったマリは、さくらがお姉ちゃんと呼んでくれたことが、とても嬉しかったらしく、ひとりで何度も、その言葉を繰り返している。

「えへっ。お姉ちゃん。お姉ちゃんだってぇ……。わたし、お姉ちゃんなんだぁ」

「よかったじゃない、マリちゃん」

 しのぶが、マリの頭をやさしく撫でながら話しかけている。

 かわいらしい笑顔で、それに答える小さな頃のマリ。

「うん。わたし、これから、さくらちゃんのお姉ちゃんになるんだね」


 この日の夜を境に、さくらと母の新しい生活が、このさくら通り商店街を舞台にして始まったのだった。

 母が忙しく仕事をしている時は、さくらは魔桜堂の一番奥の席で、ひとりで絵本を見て過ごすことが多かった。

 日を追うごとに、ここには商店街の女性陣が、自分のお店の休憩時間になると自然に集まってくるようになった。

 そして、おとなしくしているさくらを見つけては、一緒に遊んでくれたり、話し相手になってくれたのだ。


『さくらちゃんはいつも、いい子にしているのねぇ。よく志乃ちゃんのことも手伝ってるようだし……』


 魔桜堂では、商店街のお母さんたちが、揃ってさくらのことを、こう言いながら抱きしめてくれていた。

 その時のさくらは、いつも返事に困ってしまうのだ。それは、いつもどおり、母の仕事の邪魔にならないようにしているだけで、さくらにとっては、特別に褒められたりする行為ではなかったのだから。

 それどころか、母の手伝いすらまともにできていないのに、周りからこう言われること自体が、さくらには歯がゆくてしかたがなかった。

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