第5話 さくらが魔法使いみたい……か

 さくらが魔桜堂まおうどうの中にいてさえも、居心地の悪い時間を過ごしていると、店の外から、幼くてかわいい声が聞こえてきた。

「さくらちゃぁん……」

 母の志乃しのにもその声は聞こえたようだ。カウンターの向こうから、さくらに笑顔を浮かべ、話しかける。

「マリちゃんが帰ってきたみたいよぉ。ねぇ、さくら?」

「うん」

 その、母の笑顔に、嬉しさをいっぱいに表現した笑顔を見せて頷くさくら。


 魔桜堂のドアが静かに開いて、店内を覗き込んだのはマリだった。いつもの場所にいる、いつものふたりに声をかける。

「志乃さん、ただいまぁ。さくらちゃんもただいまっ。あれっ? 今日はお母さんもいるんだぁ。お店はどうしたのぉ?」

「あらっ、マリ、今日は早いのね。お店は、お父さんにお願いしてきたのよ。お母さんはここで少しだけ休憩中。ところで、自分の家よりも先に、魔桜堂でただいまって、どういうことかしらね?」

「えへっ、ごめんなさぁい、お母さん。でもぉ、さくらちゃんと早く遊ぼうと思ったんだよぉ」

 まだ小さなマリが、かわいらしく舌を出して笑った。


「志乃ちゃん、うちのマリが迷惑かけてない? もしかして歓迎会の次の日から、毎日こんな調子?」

「迷惑だなんて、とんでもないですよ、美代子みよこさん。マリちゃんがさくらと遊んでくれるから、わたしも助かっていますし……。ねぇ、マリちゃん?」

「そぉだよぉ、お母さん」

 ふたりの母親の会話を聞いて、小さなマリはまた笑ってみせる。


「それならいいんだけど。ホントに志乃ちゃんのお仕事の邪魔しちゃダメよ、マリ。それから、宿題とかないの?」

「うっ? うん、あるけど。あとでさくらちゃんと一緒にするから大丈夫……」

「さくらちゃんとって、マリ、あなたのは二年生の宿題でしょう?」

「うん。そぉだよぉ」

 マリの母親が困ったような顔をして、苦笑しながらふたりを交互に見る。それから、お手上げのポーズでカウンターの奥へと視線を移した。


 その様子を見ていたマリが、少しだけ対抗する。

「でもぉ、さくらちゃんて凄いんだよ。もう、かけ算ができるんだよぉ。それにわたしの二年生の教科書だって全部読めるのよぉ……」

 小さなマリが、瞳をキラキラさせながら力説し始めた。


 マリは、学校から帰って、さくらとひとしきり遊ぶと、魔桜堂の窓際のテーブル席で、その日の宿題を終わらせてしまうのが、いつもの日課になっていた。その時のさくらは、マリの反対側に座って、その様子を、おとなしく見ているのだ。

 そのうちに、マリの教科書や使っているノートを見て、さくらはそれを覚えてしまっていたという。


 さくらの母が、マリに向かうように、カウンター越しに話しかける。

「さくらは、今よりもっと小さいころから、ひとりで本を読んでいることが多かったからね。マリちゃんの使っている教科書も読めたのかもしれないわね。かけ算までできるようになってたとは思わなかったけど、マリちゃんが教えてくれたの?」

「ちがうのぉ。わたしが宿題するのを見てて、それだけで覚えちゃったみたい……」

 マリが、カウンターの奥の志乃に向かって話し始めた。


「マリちゃんは、さくらのお姉さんで、先生でもあるのね。ありがとう」

 さくらの母、志乃が、やさしくマリの頭を撫でている。

「わたし、さくらちゃんのお姉ちゃんなんだけどぉ、先生じゃないよぉ。さくらちゃんたら、わたしの宿題を見ているだけなのに、どんどん覚えていっちゃうんだよぉ」

 マリが首を傾げて見せた。そしてこう続けた。

「さくらちゃん……、魔法でも使ってるのかなぁ……?」


 誰に向けて言った訳でもなく、このころのマリには、不思議に思えてしかたがなかったのだろう。つい、口からでてきた言葉だった。

「うちのさくらが魔法使いみたい……か。マリちゃんのさくらを見る目には、いつも驚かされるわね? 美代子さん?」

 志乃が、マリの母親に言葉を向けた後で、マリをやさしく見つめた。

「そぉかなぁ。でも、でもぉ、さくらちゃんたら、ホントになんでもできちゃうんだよぉ。魔法使いさくらちゃんなの。ねっ? さくらちゃん?」


 マリは、瞳を輝かせながらさくらとはしゃいでいる。

「魔法使いさくらちゃん……だなんて、とてもかわいい響きだわ。ねぇ、志乃ちゃん」

 マリの母も、カウンターの奥の志乃に向かって、こう言いながら笑っている。

 それとは反対に、次第に、志乃の言葉数は少なくなり、しまいには難しい表情を浮かべて黙り込んでしまった。

 その志乃の変化に、最初に気づいたのは、小さなマリだった。


「あっ、あのぉ……、志乃さん? わたし、さくらちゃんのことで、いけないこと言っちゃった?」

「違うのよ。なにもいけないことなんてないわ。……でも、さくらがホントに魔法使いだったりしたら、マリちゃんはどう思う?」

「えぇっ、それ、ホントなのぉ、志乃さん? さくらちゃんてホントの魔法使いなのぉ? そうだったらぁ、とおぉっても素敵ぃ……」

「素敵って、マリちゃん、怖くないの? 魔法使いなのよ」

「どうして? さくらちゃんは、魔法使いでも怖くないよぉ。志乃さんはどうしてそんなことうのぉ……?」

 マリがかわいらしい仕草で、頬を膨らませている。


 その仕草にやさしく、志乃が続けた。

「どうしてって、マリちゃんが初めてだったの。怖くないなんて言ってくれたのは」

「志乃ちゃんまでどうしたのよ? マリの話に、無理してつき合わなくてもいいのよ」

 今度は、美代子が、目の前の三人の顔を見比べて、その後、志乃に向かって話し出した。

「いえ、違うんです、美代子さん。マリちゃんは間違ってなくて。もともと、さくらはわたしの能力ちからを受け継いでしまっているようで……」

 そこまで話して、志乃が再び黙り込む。


 カウンターを挟んで、志乃の話の先を待ってくれている美代子と、大きな瞳をキラキラさせながら、いつの間にか、その母の隣に来ていたマリ。

 マリはその小さな手で、さくらのさらに小さな手を握っていた。

「美代子さんには、信じられないことだと思いますけど……」

 続きを話しだした志乃が、美代子の目の前に、自分の右手を差し出した。


「美代子さん……、あの窓のところの雑貨を見ていてください。あの古い本がいいですね……」

 美代子とマリが、ふたり揃って志乃に言われた窓際に視線を移した。そこには、年代モノの古い装丁の本が数冊、店のインテリアのように並べられている

 志乃が小さな声で何かを唱えた刹那、その中の一冊が、その場所から消えた。一冊分の空間ができている。

 今まで確かに、窓際に置かれていた古い本が一冊、消えたのだ。

 ふたりは、今まで現実に見ていたはずの、自分の目さえも疑ったまま、志乃のほうを振り返る。

 その瞬間、差し出されていた、志乃の右手に突然、それが出現した。


 今まで窓際の雑貨の中にあった、一冊の古い本。

 驚きのあまり、声も出せずにいるマリと美代子。

 しばらくの沈黙の後、ふたりともに、やっとのことで頭が回りだしたようだ。

「志乃ちゃん? 今のは……、手品だったの?」

「違うよぉ、お母さん。今のは志乃さんが魔法を使ったんだよぉ……」

 小さなマリは、いっそう瞳を輝かせて、嬉しそうに自分の母親に話し始めた。

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