第1章 魔法使いって信じますか?

第1話 グーじゃなくって、ギュッてして

 地下鉄の駅の改札を出て、地上への階段を上がっていく。

 次第に差し込んでくる太陽の光とともに、心地よい風までもが出迎えてくれた。

 目の前には、大通りが南北に伸び、その通り沿いには、数百メートルに渡った、大きな商店街が軒を連ねている。そこは、まだ、お昼を少し過ぎた時間だというのに、地元の住人とその何倍もの観光客とで、おおいに賑わいを見せていた。


 そんな人混みの中、商店街への買い物客の流れにはまるで無関心な、制服姿の高校生がひとり、交差点で信号が変わるのを待っていた。

 その高校生は、小柄で華奢な体格に小さく整った顔立ちをしている。そして、少しだけ紅色あかいろがかった髪が、さらさらと吹き抜けていく風に揺れている。

 きれいに晴れ渡った青空を、眩しそうに見上げながら、この高校生が小さく呟く。

「こんなにいいお天気だから、今日はこれからお店番みせばんをしよう」

 線の細い、それでいて優しい声音だった。



 信号が変わり、その声の主が大通りを渡り始める。向かったのは、目の前の大きな商店街のひとつ先にある細い路地だった。


     【さくら通り商店街】


 路地の入り口に掲げられた看板には、そう書かれている。その商店街には二十軒ほどの店が存在していた。

 大通りにある商店街とは、天と地ほどに規模の差があったが、さびれているという雰囲気はなく、むしろこちらのほうが活気に溢れていた。


 この細い路地にある、商店街の入り口で立ち止まる。その途端、すぐ脇の店先から声がかかる。

「おかえりぃ、さくらちゃん」

 この商店街の入り口、花屋の店先から聞こえてきた、幼げな感じが抜けきれない舌足らずな声。

「マリねえ、ただいま」

 さくらと呼ばれた高校生が、その声に答えながら手を振る。


「おかえり、今日は早いのね」

 これは、少し奥にある小さな洋食屋から。こちらは凛とした耳障りのよい声だ。常連さんを見送った後のようだ。

「ただいま、しのぶさん。テストが今日までだったので」


「おぅっ、さくらっ、おかえりぃっ」

 洋食屋の隣にある、魚屋の店の奥からは、大きくて威勢のいい声だけが聞こえてきた。

けんさん、ただいまっ」

 店内から届いた威勢のいい声に敵わないのは解っていても、そこに向けて少しだけ、さくらも大きな声で答えてみた。


「拳さんも、顔くらい出してあげればいいのに。さくらちゃんも無理して大声出さなくてもいいのよ」

「ホントだよぉ。まったく、拳さんったらぁ」

「しのぶさんもマリ姉も、二人ともお店忙しい時間でしょ? それこそ、わざわざ出迎えてくれなくても……」

 それぞれの店から出てきて、悪態をつく二人に、さくらが笑顔を浮かべて答える。


「さくらちゃんたら、そんなこと言うんだぁ。わたし、最近、さくらちゃんの顔を見てなかったから寂しかったんだよぉ。珍しくこんな時間に、さくらちゃんと会えて嬉しいなって思ったのにぃ……」

 さくらより三つ年上のマリは、この商店街の近くにある国立大学に通っている。まだ入学したばかりなので講義が多く、この忙しいお昼時に商店街で会えることのほうが珍しいのだ。


「マリちゃんは、さくらちゃんに会えなくて、寂しかったんだってさっ」

 マリをからかうように、そんなことを言うのは、小さな洋食屋の、自称看板娘のしのぶ。さくらやマリにとっては、お姉さんのような存在の女性だった。しのぶが、いつもの挨拶としてさくらのことを抱きしめる。


 しのぶの挨拶に慌てたマリが、それを阻止するために、ふたりの間に割り込んできた。

「しのぶさん。ダメですってばぁ。さくらちゃんにそんなことしちゃ」

「ダメ? いつもの挨拶だよ。マリちゃんだってしてあげたらいいじゃない?」

 しのぶは、悪戯を思いついたというような笑顔で、マリに話の矛先を向けた。

「えぇ? そんなぁ……。うん、わたしも……って、し、しのぶさん、さくらちゃんが大変なことになってますよぉ」

 マリが更に慌てて、しのぶの腕をとる。


 そこでは、しのぶに抱きしめられたままのさくらが、その大きな胸に窒息しそうになってもがいていた。

「しのぶさぁん、苦しいです」

「思わず力が入ってしまったわ。さくらちゃんがかわいいからいけないのよ。いやぁ……、ついつい?」

「しのぶさぁん」

 涙目になりながら、さくらが無駄にも思える抵抗をしている。


 ふたりを見ていたマリが、少し照れたようにさくらに聞いてきた。

「わたしも、さくらちゃんのこと、ギュッてしてみたいんだけど、いい?」

「マリ姉まで、そんなこと」

「そんなこと……って、さくらちゃんも、しのぶさんならいいんだ。しのぶさんのっきいのなら」

 マリが頬を膨らませ、拗ねた素振りをみせる。しのぶは、その様子を笑いながら眺めている。


「おぅ、しのぶさんもマリも、さくらに絡むの、そろそろやめてやれよ」

 三人が揃って、声が聞こえてきた方向を振り向いた。

 いつの間に現れたのか。そこに立っていたのは、背が高く大柄な魚屋の若旦那のけんだった。

「さくらのことがかわいいってのは判るけどなぁ、ちっとばかりやりすぎだと思うぞ。周りのお客さんの反応を見てみろって」

 拳の言ったとおり、商店街の買い物客たちが観光客たちとともに、遠巻きに三人を見ていた。


「ありがと、拳さん」

 拳の肩にも届かないほどの身長しかない小柄なさくらが、大柄で恵まれた体格の拳を見上げて、救出してくれた礼を言う。

「おぅ、いいってことよ。さくらも、しのぶさんの挨拶がわりの洗礼を受けたからって、そんなことくらいで泣くなよ。……なっ」

 さくらの大きな瞳に浮かんでいる涙を、拳が見つけて慰めた。

「はい」

「よしっ」

 さくらの頭を撫でながら、拳の話が続く。


「まぁ俺なら、マリのペッタンコのには興味ないけど、しのぶさんの大きなのだったら、喜んで洗礼でもなんでも……。もう、ギュッ……ってして……」


 ペチッ!

 ヒュッ!

 ドゴッ!


 さくらの耳に、なにかを叩く小さなかわいらしい音が届いた。

 そして、その場の空気を切り裂くような音に続いて、ひときわ大きくて低く、周囲を揺るがすほどの鈍い音が商店街に響き渡った。


 拳の顔に、しのぶの左手が炸裂していた。それも……、グーで。

「拳さぁん? 今、何か言ったかしらぁ?」

 そう言いながら、しのぶがゆらりと拳に近づいていく。握られた左手は更に力が込められていくように、さくらには見えた。

「いやっ、ちょっ、ちょっと待ってしのぶさんてば。グーじゃなくって、ギュッてしてって言ったんだふぉっぉぉ……」

 二発目が炸裂。


 しのぶが繰り出した二度の攻撃で、ボロ雑巾のようにヨレヨレになった拳がその場に膝をつく。

 そして、自分の右頬を手で押さえ痛がるさくら。

 なぜか、炸裂させた左拳で高々と天を突き刺し、仁王立つしのぶ。

 三人を順番に、オロオロしながらも見つめるマリ。

「ふぅ、すっきりしたわ」

「けっ、拳さん? だいじょうぶっ?」

 思わずさくらが拳に駆け寄っていく。


「さくらちゃんっ。拳さんのことなんて、放っておきなさいっ」

 しのぶの言葉には、あきらかに敵意が込められている。僅かに殺意も。本気で怒っているようだと、この場に居合わせた誰もが瞬時に感じ取っていた。

「そうですよぉ。どうせ、わたしのはペッタンコですよぉだ。拳さんのばかぁ」

 しのぶとマリ、ふたりが揃って、ノックアウトされた拳に厳しい言葉を投げつける。それとは反対に、商店街の面々は爆笑しながらも、四人の行動を呆然と眺めていた。


『また、しのぶと拳かぁ?』

『いやぁ、今日はマリにさくらまでいるぞぉ』

『あらぁ、さくらちゃんまで? 珍しいこともあるのねぇ?』

『しかし、拳もしのぶには弱いなぁ』

『昔は喧嘩上等とか言ってたけどなぁ』

『これで二十六連敗だった……け?』

『口でも腕力でも適わないってのはなぁ……』

『この商店街が平和な証拠よ』


 さくらたち四人に向けて放たれた、商店街の住人たちによるゆるい会話。

 ここ、さくら通り商店街では、これがいつもの平和な日常にすぎないのだった。

「さくらちゃんっ、いくわよっ」

「ホントですよぉ、もぉっ。さくらちゃん、行きましょ」

 しのぶとマリは、未だに頬を膨らせたまま、さくらのことを呼んでいる。

「でっ、でも、拳さんが、まだ……」

「さくらちゃんっ?」

「はいっ」


 商店街の中心で完全に伸びてしまっている拳は、その場に置き去りにされ、さくらはしのぶとマリに、両脇を抱えられ連行されていく。

 さくらと拳、ふたりの間には、無慈悲にも穿たれた深い深い溝ができてしまったようだ。

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