魔法使いって信じますか?  さらとさくらと

浅葱 ひな

プロローグ

 五月の連休を前にした校舎の中庭からは、生徒たちの高揚した雰囲気が溢れていた。

 これからの休みの予定を語りあう者、クラブ活動に向かう友人を見送る者、帰り支度をして、彼や彼女を待ちわびている者など、多くの生徒が、その場所に存在していた。

 その中庭を、新緑の匂いをまとった、そよ風が吹きぬけていく。

 爽やかに舞った風につられるようにして、そこにいた生徒がひとり、空を仰いだ。


 その生徒が、一緒に談笑していた友人の、制服の袖口を摘みながら呟く。

「あの子、あんなところで、なにしてるのかなぁ……? あれって、危ないよね」

 隣からの、危ないよね……という言葉を聞き、もうひとりの生徒も空を見上げる。

 そして、ほぼ同時に、ほかの生徒たちもその異変に気づいた。中庭にいた多くの生徒が校舎の屋上を見上げた。


 叫び声が聞こえた。

「せ、先生、呼んでこなきゃっ」

 別の生徒の声も届く。

「止めに行かないとっ」

 ふたりの声は中庭に響き渡り、それが、いつまでも校舎に反響している。

 そして、一瞬にして悲鳴へと変わった。


「落ちたっ」

 校舎屋上のフェンスぎわから、ヒトのようにも見える黒い影が、空中に放り出された瞬間だった。必死になにかを掴もうとする手とおぼしきそれは、無情にも、空でもがいているようにしか見えなかった。

「違うよっ。突き落とされたんだっ」

 突き落とされたようにも見える影が伸ばした手を、見つめる影もあった。ふたつの影は中庭にまで伸びていた。

 逆光が重なった所為もあったのだろう。その黒い影が、この瞬間を嘲笑っているかのように、その場にいた全員が感じていた。


「ま、まにあって……」

 その時、どこからともなく、そんな声が聞こえた気がした。

 それが、声などではなく、その場を吹きぬけた一陣の風の音だったのかもしれないけれどその正解を知る生徒は、この場にはいなかった。

 校舎の屋上から、虚空に無理やり放り出されたヒトの体は、物理現象そのままに落下速度を上げ、地表に近づいてくる。頭上五メートル……。


 スローな映像でも見ているかのように、突然、落下の速度が遅くなった。校舎脇に植樹されていた大きな木の枝が、その落下物を受け止めたのだ。

 しかし、それも、ほんの刹那の時間を止めただけに過ぎなかった。

 数秒にも満たない止まった時間に、中庭にいた生徒たちに、なにかができるわけなどなかった。全員がただその場で茫然とするだけだった。


 悲鳴を上げようにも、声にすらならない生徒がいる。

 中庭が真紅に染まる惨劇が、頭をよぎり、目を覆った生徒もいる。

 そして、その場所に衝撃音がはしった。

 その、激しい音に反応したのだろう。校舎の窓が一斉に開いた。その先には、驚くおとなたちの姿があり、その衝撃音の元凶に向けられていた視線があった。


 しかし、咄嗟にはそこでなにが起きているのか、理解できなかったようだ。

 それは、中庭にいた生徒たちにとっても、同様のことだった。

 窓の外の異様な様子を見て、漸くおとなの側から、声がかけられた。

「なんの音だ? なにがあった?」

 生徒たちの異質で恐慌な雰囲気に飲みこまれていた男性教師に、優しく問いかける余裕はなかったのだろう。その大きな声が、中庭に響き渡る。

 それは、現場側に佇んでいる生徒たち全員を萎縮させてしまった。


 その男性教師の隣から、女性教師も顔を覗かせた。窓の下の様子を見て息を飲む。

 女性教師の視線の先に、小柄な女子生徒が倒れていたのが見えたからだった。

 身動きひとつしないその生徒を確認した女性教師は、蒼白で驚愕の表情を浮かべながらも、絞り出したような震える声で話しかけた。

「なにがあったの……?」

 それは、返事を期待しての問いかけなどではなく、意識の有無の確認のようだった。そこには、生死の確認の意味が含まれていたのかもしれなかった。


「この子が、落ちてきた……」

 生存確認ともとれる問いかけへの、突然の返事に、その場にいた全員の動きが一瞬にして止まった。

 その返事は、弱々しいけれど明瞭な声だった。

 その声は続けて。

「せ、先生、落ちついてください。この子、ケガはしてないと思うけど。意識がないんです。だから、早く、救急車を……」


 その声の発生源に横たわる女子生徒が動いた様子はなかった。でも、この声はこの生徒の下から聞こえてくる。ふたりの、体の位置が少し変わったからだろうか、最初の言葉より、弱々しさが薄れてきていた。その声が、優しい響きを纏い始めている。

 おとなの側を冷静にさせるには、それだけでも効果はあったようだ。

 その声を聞いて、そして、下から顔を覗かせた生徒を見て、まず男性教師が我に帰る。

「おまえ、さくらじゃないか? 落ちてきた……って、どこから?」

 さくらと呼ばれた生徒が、短く答える。

「屋上だと……思います」

 蒼ざめた表情をしていた女性教師も、同僚である男性教師に続いた。

綾城あやしろだよな……。それに、その格好は……」


「先生たち、そんなことより、救急車の手配が先でしょ? 早く」

 女子生徒の下敷きになっていたらしい、さくらと呼ばれた生徒が、おとなふたりに指示を出していく。

 それに触発されるように、男性教師が、教員室の中に向かって、踵を返すようにして駆け出していく。

 窓際に残った女性教師の耳にも、さくらの優しい声が届いた。

「この子、綾城……ミア……さん?」


 突然、女子生徒のフルネームを告げられて驚いたのだろう。その所為で、次の言葉が続かない。

 それでも。

「キミ、綾城のこと……知ってるの?」

「いえ、屋上から聞こえて……」

「屋上……?」

 そう言いながら、女性教師が首を捻っている。その次の言葉を待たずに、さくらと呼ばれた生徒は、教員室で大声で指揮を執っている、男性教師に向かって言葉を投げかけた。


「先生っ、まだ、屋上にこの子の友達が、ひとり取り残されてる。なにか、叫んでる。ほかに十人くらいいる。だから、屋上にも早く先生たちを……」

 その言葉を聞いて、ほかの教師たちにも瞬時に緊張が疾る。救急車の手配を終えた男性教師を先頭に、教員室を数人が駆け出していった。


 意識のない女子生徒を気遣うように、さくらは彼女の下敷きの状態から抜け出してきた。自分の制服のブレザーを脱いで、意識のない女子生徒を包むように、上から静かにかけている。

 その様子を見て、女性教師も、少しだけ落ち着きを取り戻したのだろう。

 窓の下のさくらに向けて、言葉をかけた。

「さくらの機転の早さには感謝する。少しだけ……、綾城のこと、頼んだわよ」

「あの、先生は……?」


 ここで、さくらの視線に初めて不安が混じった。

「わたしか? キミの一言で、男の先生たちは出払ってしまったからな。まず、養護の先生呼んで、上へ報告して、綾城の親御さんに連絡。それに、この事態の中、一番落ちついているのは……、さくら? キミのようだから、騒然としているほかの生徒たちはおちつかせないとな……」

 女性教師は、そう言うと、さくらを通り越して、落下事故の現場の向こうへと視線を移した。


 そこでは、この事態に遭遇するまで、和やかに談笑していた生徒たちの多くが、落ち着きをなくして未だに震えていた。

 その生徒たちに向けられた、女性教師の毅然とした態度と、はっきりとした言葉は、その場の雰囲気を一変させる迫力があった。

「おい、全員、落ちつけ。男子連中は、屋上で先に行った先生たちに協力してやってくれると助かる。けど、無理はするなよ。それから、女子たちは……。おっ、わたしのクラスの委員長がいるな。どうだ、動けるか?」

 女性教師の問いかけに、委員長と呼ばれた生徒が無言で頷く。その返事を見て。

「それなら、何人か連れて、校門まで行ってくれ。救急車はここまで入ってはこられないからな。救急隊員をここまで誘導してきてくれ。そのほかの女子は、ここで待機だ。みんなっ、冷静に動けよ」


 女性教師が全員の役割を分担し終わった頃、養護教諭が、慌てて中庭に駆け込んできた。そのまま、倒れている、綾城ミアという生徒の傍らに膝をつく。

 その様子を見て、頭上から声をかける。

「わたしのクラスの、綾城という生徒だが、ケガはしていないようだと……、さくら? キミはA組だよな? その、さくらは言うが……、どうだ?」

「うーん、確かに、落下による外傷はないみたいだけど。でも、屋上からって言ってなかった? それで、無傷……って」

「そこにいるさくらが、下で受け止めてくれたらしい……」

「受け止めたですって? この子がいくら小柄だからって、自然落下の加速度は、あなたのような華奢な体格では、いえ、あなたでなくても、とても受け止められるものではないわよ。あなたはケガしてないの?」

 養護教諭は、心配そうな視線を、さくらと呼ばれている生徒に向けた。女性教師も、改めて驚愕の視線をさくらに向けている。

 そのさくらが黙って頷く。

 ふたりからの視線に、居心地の悪さを感じ取ったさくらが、小さな声で答えだした。


「桜の樹の枝が、クッションになってくれたみたい……です。だから、ギリギリ間に合ったのかと」

「それにしても……。さくら? キミもケガしなくてよかった。でも、あまり無茶なことをするなよ。今回はたまたま、途中の枝が、落下速度を抑えてくれたからよかったが、養護の先生が言うように、人間ひとりの重さは、決して受け止められるものではないんだぞ」

 女性教師が優しい口調で、さくらに向かう。


「でも、今の場合、無理しないと……、この子が……」

 さくらの声は、この場の静寂の中でさえ消え入りそうだ。

「そうだな。今回はキミがいてくれたから、大切な生徒を失わずにすんだんだ。礼を言う、ありがとう。でもな、さくらだって、わたしたちにとっては、大切な生徒のひとりなんだよ。そのことだけは忘れないでいてほしいな」

「はい、ごめんなさい……」

 女性教師の続けた言葉に、さくらの声はなおも小さくなっていく。


 そんな、さくらの様子に、肩をすくめて見せる女性教師。

「キミは不思議な子だなぁ……? わたしの言葉に対しては、自信なさげに謝るのに、名前も知らない綾城の時には、躊躇ためらいなく飛び込んで行くなんて、どちらが、ホントのキミなんだい?」

「どちらがって、言われても……」

 それだけ、小さな声で答え、俯いてしまったさくら。

 その様子を、女性教師は、苦笑混じりに見つめる。

 そして。


「わたしが悪かったかな。華奢な体格の見た目どおりの気弱さも、見た目とは裏腹の大胆さも、どちらも、さくら自身なんだよな? とにかく、今回はキミのおかげで、大事だいじにならなくてすみそうだ。もし、校内で、キミ自身が身体に異常を感じたら、すぐにどの先生でもいいから言うんだぞ。話は通しておくから。それと……、さくら? 綾城が引っかかったという枝はどれだ?」


「えっ?」

 女性教師の言葉に、さくらの動きが一瞬だけ静止する。

 そんなさくらの目の前を、花びらが一枚、ヒラヒラと舞い落ちていった。

 淡い淡い、桜色の花びらが。

「とっくに、この花の季節は、終わっているのにな? これも、さくら? キミの所為せいなのかい? つくづく不思議な子だね? キミは?」

 さくらの頭上で囁かれた言葉は、さくらにだけ聞こえるくらいのものだった。

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