第26話
サラはゆっくりと目蓋を持ち上げた。頭がクラクラする。ぼんやりとした視界に映ったのは、肌色の何か。目を何度か開閉すると、ようやくそれが何かわかる。
「おはよう」
それは上下逆さまになったオレスの顔であった。
「いやぁぁぁぁぁ!」
思わず飛び退きそうになって、体の自由が利かないことに気づいた。手足が全く動かせない。
確認すると、自分は椅子に座らされ、手足が鎖でがっちりと固定されていた。対するオレスは、体をさらに厳重に縛られ、その上、ロープで天井に吊るされている。
「こ、ここは…… ?」
「どこかの地下室みたいだね」
岩肌で囲まれた、特異研究所のような空間。かなり広く、中央の弱いロウソクの灯火が、薄らと室内を照らしている。
「え、でも、どうして……」
記憶を探ろうと、視線を彷徨わせていると、恐ろしいものが視界に映る。
「死体…… !?」
サラのすぐ横に貧相な格好をした人が、だらしなく横たわっていた。しかも、その頭部はない。
彼女は頭が真っ白になる。
「それ、人形だよ」
「え、人形…… ?」
「切断面をよく見てよ。木材みたいでしょ?」
恐る恐る覗くと、確かにその首には木目のような模様が見える。肌も人間のものとは程遠い。
「ほ、本当だ……」
少しだけホッとした。
すっかり明瞭になった頭の中から、サラはやっとそれらしい記憶を見つける。
「そうだ。私たち、あの広場で……」
頭に浮かぶのは、丸い冥獣たちに連れられて行った、町の広場。町のほぼ全ての冥獣が集まっていたと思う。
「そ。不意を突かれて、敵さんに捕まっちゃった。一応警戒はしてたつもりだったんだけどね」
記憶がどんどん補完されていく。
あることに気を取られている内に、背後から忍び寄って来た冥獣の攻撃を、まともに受けてしまったのだ。
身体中が軋むように痛むのはそのせいか。
いや、それよりも。今、一番重大な事を思い出した。
「あれはどこへ行った?」
「さあね。僕が目を覚ました時には、もう姿はなかったよ」
なぜだかオレスは喋りづらそうにしている。
「あれは…… あのフード姿は、人間だったのだろうか」
「少なくとも、そう自称してたし。そうなんじゃないかな」
「冥霧に住む人間か……」
フード姿が現れた時は、正直青天の
「ペイルとリゼさんは大丈夫だろうか…… もしあれが、あの家を見つけ出したら……」
「こうなるのがわかってたから、あの冥獣はお嬢さんを連れて行かなかったんだと思うよ。あいつに奪われないようにね。あの鐘の音は、たぶん侵入者を発見した合図。だから、僕たちだけを差し出すことに決めた、ってところかな」
そこまで頭が回っていたとは。やはり、オレスという人間は、自分なんかよりもよっぽど有能だ。
「だから、お嬢さんが僕たちを探しに来たりしない限り、危険はないはずだ。今のところはね」
「でも、私たちは……」
「今更全部冗談でした、なんてないだろうし。殺されるんじゃない? ほら、この音聞こえるでしょ?」
目が覚めた時から断続的に聞こえていた、鎖を強く引っ張るような音。それに併せて、部屋全体が微かに揺れる。
気になってはいたのだが、後回しにしていた。いや、本当は知りたくなかっただけかもしれない。その音の正体が、どんなに恐ろしいものであるかを。
「君の後ろにね、本当に薄らと見えるんだ」
「な、何が…… ?」
「三、四メートルくらいある、ムキムキの人型冥獣が。さっきから目玉をギョロギョロ動かして、こっちに飛びかかろうとしてる」
ふいに、背筋に冷たいものが走った。
「冥獣も鎖に縛られてるけど、いつ拘束が解けてもおかしくない。さしずめ、時限式の処刑器具って所かな。よく考えつくよね。いい趣味だよ」
単なる耳障りな騒音だったはずが、急に体の中心を打ちつけるような重い衝撃へと変わった。後ろにあるのは死だ。心臓が早鐘を打つ。怖い。
なぜオレスはそんな平気な顔をしていられるのか。
「急に黙り込んじゃって、どうしたの? せっかく、話し相手ができたと思ってたのに」
「ふざけている場合じゃないだろう! このままでは、私たちは!」
「真面目にしてたって、状況は変わらないよ? 手も足もでないから」
何を言っているんだ、この男は。早く脱出しないと。
サラは灯晶術を発動させようとする。しかし。
「灯晶術が……」
「そんな初歩的なことはとっくに試したよ。でも、ほら、これ見て」
オレスは舌をだらりと出す。そこには黒い結晶が張り付いていた。
「これのせいで灯晶術が使えない」
基本的に灯晶術は、灯晶部位を何かで強く縛り付けられ、物体を生成する余白がなくなると、発動できなくなる。研究所の牢屋でも、オレスは猿ぐつわによって、術の発動を妨げられていた。
それにしても、この結晶はどう見ても冥獣のものだ。あのフード姿は一体何者なのか。
「くっ! こんなものっ!」
力任せに体を捻るが、巻かれた鎖は頑丈で、びくともしない。それを何十回も繰り返すが、先に悲鳴を上げたのはサラの体の方だ。
「痛い…… !」
「そんな無意味なことに体力を使うくらいなら、僕とお話ししようよ」
「それこそ無意味なことだろう!」
サラはなおも脱出を試みる。オレスはそれを冷淡な目でじっと見つめていた。
「牢屋にいる時からさ、僕はずっと考えてたんだよ」
もがき続けるサラの傍で、オレスは独白を始めた。無論、そんなことに構っていられない。
「君のことをね」
「はっ…… ?」
その言葉は、体を縛る鎖によりも強く、サラを拘束した。
「僕が君にどんな気持ちを抱いているか。それで、今やっと答えが出た」
「え、いや…… き、貴様、こんな時に一体何をーー」
「僕はね、君が嫌いだ」
一瞬、時間が止まった気がした。
「へ…… ?」
「聞こえなかった? 僕は君が嫌い」
真面目腐った顔をして、何を言っているのだ。空白になっていた心に、ちょっとした怒りが込み上がってきた。
「はあ!? か、勝手に勿体ぶった言い方をしておいて、勝手に拒絶をするな! 私だって、貴様のことなど大嫌いだ!」
そう言って、オレスを睨みつける。
「他人の前では毅然な自分を演じて、それが本当の自分だと思い込んでるみたいだけど。その実は、弱虫のまま。いざという時に、そのメッキが剥がれちゃう」
「なっ!? 知ったような口をきくな! 貴様に私の何がわかる!」
「わかるさ。僕は君のことを何でも知ってる」
純粋な怒りに代わって、疑念や不安のようなものが浮かんでくる。目を合わせていると、全てを見透かされるのではないか。そんな風に感じる。
「まあ、ここ数日間の君の行動を見てれば、誰だって気づくだろうけどね。事あるごとに、弱気になって。当初の、凛とした君の面影もない」
何かと思えば、自分が自ら弱い本心を曝け出していただけか。ちょっと拍子抜けをすると同時に、自分が嫌になる。
サラは大きく息を吐いた。
もう全てを知られてしまった。いっそのこと、包み隠さず話してしまおう。
「…… 私は英雄に憧れてた」
「急にお話しする気になったね」
「うるさい」
一々癪に障る奴だ。
だが、一度口に出すと、奥に支えている全てを、吐き出してしまいたい気分になった。どうせ死ぬのだし、この際誰でも構わない。
「それで、今の腐った上層部を瓦解させて、新しいーー 平等なエルピスを築きたかった。そのために、騎士になった」
「要は反逆者だ」
「何とでも言え…… だが、自分にその器がないことは、早くから気づいていた。腕力も統率力もない。私は凡人だ」
自分で言っていて、惨めな気持ちになってくる。
「そんな時、アドニスさんが現れた。私は一目見た時にわかった。彼こそが英雄になると。ある人と同じ、凡人にはない特別な雰囲気を感じた。彼と仲間になれば、私の大願は成就すると確信した」
「でも、その彼はもういない」
その言葉が重く、体にのしかかる。頭には、リゼの絶望した顔が鮮烈に浮かぶ。
サラは拳を強く握りしめた。
「私に…… 私にもっと力があって、あの時彼を助けられていれば…… ! あの場にいたのが、私ではなく、隊長や副隊長だったら…… ! せめて、凡人の私が盾になってでも、彼を守っていれば…… !」
今になって、自分の取ってきた選択に強い怒りを覚える。
「でも、私にはそれができなかった! 心のどこかで、まだ未練がましく英雄という幻想に縋り付いて! 死にたくないと思った! 何の役にも立たないくせに!」
思えば、冥霧に来てから、自分は大したことをしていない。五人の中で、一番自分が不要であった。自分がいなくても、ここまで大体同じ物語だったのではないか。
「自分の身の丈も理解しないで、分不相応な夢を手離せなくて…… 私に何もできる訳なんてないのに…… 」
「あれ、諦めちゃうの?」
「だって、もう逃げられないし…… あ、後は死ぬのを待つだけ…… それに、仮にこの先生きていても、自分の卑小さにまた何度も失望することになる……」
もう終わって良いのかもしれない。生きていたって、意味がない。
「うん。確かに、君に英雄の格はないね。英雄っていうのは、どんなピンチをも脱して、逆に他人のピンチに駆け付ける人のことだから」
「……」
「でも、別にそれでいいんじゃない? 自分が、英雄の登場を待ち望む側でも。こっちは気楽でいいよ」
「私だって、本当はそうしたい…… でも……」
「何がそんなに嫌なのかな? 英雄に心を委ねて、英雄の隣で彼と同じ景色を見ることが」
オレスは英雄とやらに相当心酔しているらしい。まるで、何かの宗教の熱狂的な信者だ。
「貴様は、私なんかより強い…… それなのに、なぜそこまで英雄を崇拝している…… ?」
「あぁ、それはね…… 一度だけ、僕の元に英雄が来てくれたことがあるんだよ。今の僕がいるのは彼のおかげだ」
そんな話があったなんて。オレスのことは、殺人を犯したということ以外、何も知らなかった。
「あの時の、快感に似た、ゾクゾクした感覚を一度でも味わったら、君も英雄の
「なら、私にわかる日は来ない……」
その時、真後ろで、一際大きな音が響き渡る。大小様々な瓦礫が、横から勢い良く転がってきた。
鼓動が一気に速まる。
今にも、巨大な爪で、死角から首を刎ねられてしまう。そんな光景が、頭に浮かんで離れない。死ぬまで、後何秒だろう。十秒後か、それとも……
「僕は最後まで信じてるよ。今にも英雄が現れて、僕らを救い出してくれることを」
オレスが何か言っているのが聞こえるが、その意味まで理解できない。頭の中を恐怖が占めてしまい、思考する余地がないのだ。
覚悟をしたはずなのに。迫り来る死を待つことが、こんなに怖いことだとは思ってもみなかった。
「いや……」
サラの脳は恐怖から逃れようと、ありもしない英雄の姿を浮かび上がらせる。彼がこちらに手を伸ばしてくれる幻想。彼女も手を伸ばそうとするが、大きな音によって、幻想はかき消される。
「誰か…… 助けて……」
ガチャリ。
出し抜けに、頭上からそんな音がして、光が差し込んできた。思わず目を細めて、そちらを向く。
天井に正方形の穴が空いていて、そこに一つの人影が映る。光に照らされるその姿は、なんとも神々しい。
「ま、まさか……」
それを見た瞬間、サラの胸はゾクゾクと熱くなり、それが全身に広がっていった。充満した恐怖は一陣の風に吹き飛ばされ、快楽の絶頂にいるような、名状し難い心地よさが支配する。
未だかつて味わったことのない感覚。これがオレスの言っていた感覚なのか。
「本当に英雄が…… ?」
「花のおっさん?」
聞こえてきた声に、サラはハッとした。
「ああ、そうか。お嬢さんも英雄だったのか」
オレスはやや驚いたように、しかし、恍惚とした目で、拝むようにリゼを見つめていた。
「助けに来た」
「うん。待ってたよ、僕らの英雄」
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