第18話
アドニスは一人、巨大樹の森を堂々と歩いていた。背中にはリゼの姿もない。
「俺はアドニス・アゴニアだ! いるなら、出てこい!」
不用心にもアドニスは大声で何かを呼ぶ。
冥霧の中で、自分の位置を知らせるのは自殺行為だ。あっという間に、冥獣が群がってきてしまう。
はたして、前方の地中から、勢いよく何かが飛び出してきた。結晶の装甲に身を包んだ、巨大な竜だ。
「来たか」
竜はアドニスを視認するや否や、狂ったように走り出す。酷く興奮しているようだ。
その凶悪な姿。間違いない。
「久しぶりだな」
エルピスに入る直前、アドニスたちを喰らおうとしたあの竜だ。
竜はその巨大な
「挨拶もなしか。基本的な礼儀らしいぞ」
そもそも言葉が通じているのか。ペイルの話では、そういう種類の竜も存在するらしいが。
『竜種は大きく三つに分類される。飛竜、水竜、地竜。たぶん、君が見たっていうのは、特徴からして地竜。中でも、おそらくラードーンだと思う。泥や土を被って、擬態して獲物を狩るんだ』
数時間前にペイルがした説明を思い返す。
『ラードーンの特徴は、普段はとにかく警戒心が強いこと。微かな葉擦れさえも敏感に捉える。ラードーンの討伐は、その点でかなり難度の高いものだったらしい。近づくだけで気付かれちゃうからね。でも、一方で、狩りを始めたら一体の獲物を夢中でとことん追い続ける。異常な執着心があるみたい』
だから、あの日も、一度引き離したはずのラードーンが、アドニスを執拗に追い続けてきたのだ。
それにしても、凄い知識だ。動物学に精通しているという、ローザの言葉は正しかった。
『それで、討伐の仕方だったら、昔異国で行われていた伝統的な手法がある』
ペイルがその方法を簡単に説明する。
『なら、俺が囮役をやろう。冥霧での戦い方も心得てる』
『確かに、一度顔を覚えられてる君なら、適任かもしれない』
そういう訳で、今アドニスはラードーンと対峙しているのだ。
それは避けられたことがわかると、すぐさま彼の方に振り向く。巨体に似合わぬ俊敏さだ。すると、突然それの四枚の翼が伸びる。それらは触手のようにうねると、一気に肉薄してきた。
「ペイルの言う通りだ」
アドニスは迫り来る三枚を後退しながら避け、最後の一枚に拳をぶつけた。
『ラードーンは翼を自由自在に操れる珍しい竜なんだ。でも、それ自体にそこまでパワーはない』
ペイルの情報は当たっていた。一枚だけなら、何とか受け切れる。
アドニスは全身に力を込める。そして、翼を前に押し出した。一瞬緩んだ攻撃。すかさずそこへ追撃を仕掛ける。しかし。
「硬いな」
アドニスの黒い爪は、翼の硬い結晶に弾かれる。結晶は軽く欠けた程度。結晶部位を破壊するのは難しそうだ。
その後も翼による猛攻が続く。が、彼にはギリギリ当たらない。しかし、逆に彼も回避するのが精一杯で、攻勢に転じるには至らない。
「やはり、バカ正直に正面突破するのは得策ではないか」
今の自分のレベルで敵う相手ではない。
アドニスは翼の攻撃を受け流すと、ラードーンに背を向け走り出した。そして、翼の攻撃範囲を脱する。
「こっちだ」
後方から追いかけてくる、雷鳴の如き激しい咆哮。スピードも向こうの方が上だ。すぐに距離が縮まる。そして、再び襲いかかる翼の攻撃。
アドニスは周囲の木々に素早く飛び移ることで、容易に狙いを定めさせないようにする。だが、翼の数は四。徐々に彼は追い詰められていく。ついに、翼の一つが枝の足場を破壊した。
「くっ」
アドニスはバランスを崩して、そのまま落下していく。そこへ間髪入れず、肉薄する翼の一突き。
彼は咄嗟に木の幹を蹴り飛ばし、前へと逃れる。だが、不運にも彼が飛んだ先は、木のない開けた場所。ラードーンにとって、今の彼は無防備な生き餌も同然だ。それは翼を元に戻すと、こちらへ向かい猛スピードで飛来してくる。ぐんぐん迫る両者の距離。
そして、鋭い牙がびっしりと生えた、大きな口が開かれる。
「俺を食うのはまだ先だ」
アドニスはいつの間にやら手にしていた大きな石を、ラードーンの真下の地面に向かって投げつけた。その地面のすぐ側には、赤い実を付けた植物。
次の瞬間、ラードーンの巨躯は、それより大きな深緑の口に飲み込まれていった。
「端からお前と正面でやり合うつもりはない」
だから、下見の段階で発見した、野苺モドキを利用することを考えたのだ。
深緑の口の中では、ラードーンが激しく暴れ回る音と、口内の強酸が肉を溶かしていく音が聞こえる。だが、その悍ましい音は長くは続かなかった。
「なんだ?」
不意に、野苺モドキの側面が引き裂かれる。そこから噴き出してきたのは、霧状の何か。それは瞬く間に、彼の周囲を包んでいく。
「これが毒霧……」
アドニスはその場で動きを止める。
『自分の身が危ないと判断すると、ラードーンは毒の霧を放出する。少しでも吸うと、全身の神経が侵されて、数秒で身動きが取れなくなる猛毒だ。代わりに、これが使えるのは一度きり。再び毒を溜めるのに数日かかるらしい』
奥の方で、ラードーンが地面に這い上がり、こちらに悠長に近づいてくるのがわかる。獲物を仕留めたと確信しているようだ。
霧の中から、それの頭が現れた。鼻先をピクピクさせ、喉の奥から不規則な低い唸りを発している。まるで何か喋っているかのよう。
「アン……ジア」
辛うじてそんな風に聞こえた。たぶん空耳だ。
「だが、俺には無意味だ」
アドニスは急加速して、ラードーンの足元に近づく。核は腹の中だ。そして、腹部の方には硬い結晶はない。しかし、それは即座に危機を察知したと見え、腹を地面につけようとする。
「何という反応速度」
このままでは踏み潰される。
アドニスは目標をラードーンの脚に切り替える。狙うは内側の比較的柔らかい部分。彼の爪はそれを簡単に抉り取った。
怒りを含んだ鳴き声。ラードーンは完全に腹を地面につけると、体をスピンさせ、長い尾で彼を
「ぐっ」
視界がぐるぐる回る。そして、何か硬い物に激突し、勢いが止まった。
普通なら全身の骨が粉砕する程のダメージ。しかし、アドニスの堅牢な体は表面が少し削れた程度だ。
「毒霧は吐かせた。後は……」
視線を戻すと、ラードーンはかなり遠くでけたたましい咆哮を上げたいた。と、その方向から黒い何かが大量に飛んでくる。
「結晶…… ?」
黒い
彼は急いで走り出すと、近くの木の裏に飛び込んだ。が、あの太い幹を貫通して、彼の真上を礫が通過していく。
「威力は高い。だが、コントロールはそうでもないな。これならどうにかーー」
そう思った時、にわかに右手の甲に蝶の紋様が浮かび上がった。
「相変わらず、タイミングの悪い」
外れたはずの礫の雨が、急カーブしてアドニスに向かってくる。おそらくラードーン自身の能力ではない。さらに、振り向くと、それは新たな礫を発射していた。
図らずも、それは彼を前後から襲う挟撃の形を成した。
「とにかく今は逃げるしかない」
アドニスは全速力でその場を離れる。
すぐ真後ろで、礫がぶつかり合い、周辺の木々を蜂の巣にしていく。それでも礫の追跡は止まらない。
「なぜだ。いつもなら、紋様はもう消えてもいい頃」
走りながら手を確認するが、光は全く消えようとしない。むしろ、その輝きが増しているような。
それに気を取られていて、アドニスは頭上の異変に気づくのが少し遅れた。
「なんだ?」
木の枝が降ってきたのだ。枝と言っても、長さは優に五、六メートルを超える。
アドニスは前方にジャンプした。ギリギリの所で避けられたようだ。だが、振り向くと礫はもう間近。急いで走り出すが、このままでは追い付かれる。
「まずい……」
「ママ〜〜〜」
頭上から、今度はリゼの小さな声。
「リゼ?」
見上げると、既にリゼの体は目の前。アドニスは落ちてくる彼女を、走りながらどうにかキャッチする。
「お前何を…… 死ぬ気か?」
「リゼ、ママを助けに来た」
「よくわからんが、今はそれどころじゃない。お前も巻き込まれるぞ。手の紋様がーー」
アドニスは思わず立ち止まる。
「消えてる……」
すぐ近くで、細かい何かがバラバラと落ちる音がした。後ろを向くと、地面に礫が散らばっていた。
アドニスはリゼを地面に下ろすと、彼女を見つめる。
「まさか、お前がこれを抑えてくれたのか?」
「うん。あんまり上手くできないけど」
どういうことだろう。リゼにそんな力があるのか。
「リゼ、良いことした?」
「ん、ああ」
ふとアドニスは思い出した。子どもが良いことをしたら、頭を撫でて褒めてやるのが親の務めだと。
彼はリゼの頭に手を伸ばす。
しかし、頭に触れる直前。真横の地面が、爆ぜるように隆起した。そこから巨大な影が飛び出してくる。
「あ、ママーー」
リゼの声が消え、視界が黒に包まれる。ラードーンが、頭からアドニスにかぶりついたのだ。その鋭い牙は彼の両腕と腰の辺りに貫通する。
「気配を消すのが上手いな」
悠々と構えるアドニス。それには理由があった。
突然、ラードーン喉の奥の方から、低い苦鳴が駆け上がってきた。
「目と耳、塞ぎ終わりました!」
「こっちもオッケーだよ」
外の方からサラとオレスの声。
「は、鼻もたぶんやれたと思う!」
少し遅れてペイルの声も聞こえてきた。
作戦は上手くいっているようだ。
『その方法だけど、まず分厚い鎧を来た囮役が、ラードーンを十分に挑発させた後、所定の位置まで逃げて、喰われる。噛み砕かれないように耐えてね。後、予め危険な毒霧を吐かせておくのがマスト。それが君の役目』
『そんな危険な役をアドニスさんが……』
『その程度、他愛もない』
『ラードーンは捕食の時が一番警戒が緩むらしい。そこで、隠れていた二人が灯晶術で目と耳を塞ぐ。僕はさっきの冥獣の臓物で作ったこれで鼻を利かなくさせる。あ、その三ヶ所は結晶に覆われてないよね?』
『ああ、確か』
『よし。これで外界の情報が遮断される。そうなると、ラードーンは捕食も中断して、自己防衛のために腹を地面につけ、動かなくなるらしい。そしたら、君が口の中から脳天を貫いて、終わりだ』
後はラードーンが動きを止めるのを待つのみ。
しかし、予想外の出来事が起こる。翼がはためくような音と共に、体が揺さぶられ始めたのだ。
「なんだ、どうなってる?」
「ラードーンが飛び出しました!」
サラから衝撃的な報告。
しかし、ラードーンは依然方向感覚が戻らないらしく、そこらの障害物に何度も衝突を繰り返す。それでも、暴れることをやめない。さらに悪いことに、右腕にも牙が食い込んでいるため、全く身動きが取れない。
「くっ! 攻撃が通らない! このままでは逃げられます…… !」
高い枝の上にいるはずのサラの声が、すぐ近くでした。
「この牙さえ抜ければ……」
「うわぁぁぁぁぁ!」
どこからか、ペイルの悲鳴か雄叫びが判断のつかない声が聞こえてきた。直後、真上で「うっ」と空気が抜けるような声。
「は、はは…… ほ、本当に飛び乗っちゃった……」
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