18:会いたい理由

 夏休みが始まってから、早くも二週間が経った。

 おれは吸血鬼らしく、日没と同時に目覚め、日の出とともに眠るというすこぶる健康的な毎日を送っている。散歩をしたり気になっていた本を読んだり、夜七時からのラジオ体操に行ったり、アルバイトをしたり、たまに課題をしたりと、充実した休みを過ごしていたのだが――その一方で、おれはどうしようもない飢えを感じていた。


 テキストと向き合いシャーペンを走らせていたとき、やけに口寂しさを感じた。

 なんだか落ち着かなくて、しきりに人差し指で机をトントンと叩いてしまう。この仕草、バアちゃんもたまにする。ちょっとイライラしているときの癖だ。もしかするとおれは、苛立っているのだろうか。

 シャーペンを放り出して、机に顔を伏せた。そろそろ七月も終わろうとしている。真面目ぐらいしか取り柄のないおれは、とっくに夏休みの課題を終わらせた。今やっているのは、休み明けの試験勉強である。一番ヶ瀬さんもとっくに課題を終わらせているのだろう。小さくて柔らかくてひんやりとした手の感触を思い出して、ごくりと喉が鳴った。

 おれは立ち上がると、自室を出てダイニングへと向かう。時刻は夜の十一時。どうやらバアちゃんは出掛けているらしい。おそらく来月の月城祭の準備をしているのだろう。この町の長老扱いされているバアちゃんは、ご意見番としての顔も持っている。

 冷蔵庫を開けて、中を覗き込んだ。バアちゃんが作り置きしているおかずはいくつかあったが、腹が減っているわけではない。牛乳パックを取り出して、すぐに閉めた。

 コップに牛乳を注いで飲む。バアちゃんがおれのために北海道から取り寄せている牛乳は文句なしに美味いが、どうにも飢えが満たされない。

 理由は考えなくてもわかる。夏休みに入ってから、一番ヶ瀬さんの血を飲んでいないからだ。

 生まれてから十六年と少し、人の生き血を飲まなくてもなんともなかったのに。血の味を覚えてしまったおれは、ことあるごとに「一番ヶ瀬さんの血が飲みたい」と考えてしまう。

 流しの下にある棚を開くと、中にはバアちゃん秘蔵の血液ボトルが入っている。これは人工血液のような紛い物ではなく、正真正銘人間の血だ。あまり大っぴらにはされていないが、吸血鬼用に人間の血を売り捌くルートがあるらしい。一番ヶ瀬さんの血はさぞ高値がつくだろうな、なんて馬鹿げたことを考えた。

 これを勝手に飲んだらおそらくバアちゃんにブッ殺されるだろうし、そもそもあんまり飲む気もしなかった。今は誰とも知れない人間の血を飲みたいわけではない。一番ヶ瀬さんの皮膚に牙を立てたいのだ。

 結局おれは買い置きしていた人工血液のパックを持って、自室に戻った。ストローを刺して飲むと、子ども向けの薬のような、嘘くさい甘ったるさが口の中に広がる。

 やっぱりあまり美味しいとは思えなかったけれど、香りや風味がどことなく血液に似ていた。ほんの少し、先ほどまでの飢えが和らいだ気がする。人工血液を好んで飲む吸血鬼の気持ちが、ちょっとわかった。おれもひとつ大人の階段を上ったのだ。

 それでも、本物の血液に勝るものはない。今すぐ柔らかな肌に牙を立てて、甘くて濃厚な血液を貪りたい。「美味しい?」と言って、優しく頭を撫でてほしい。

 ……一番ヶ瀬さんに、会いたいな。

 人工血液のパックをゴミ箱に捨てると、溜息をついた。吸血鬼の本能というものは恐ろしいものだ。それでも、彼女以外の人間の血を飲みたいとは思わなかったけれど。


 再び机に向き合い勉強をしていると、傍に置いていたスマートフォンが震えた。見ると、一番ヶ瀬さんからメッセージが届いている。


 ――薙くん、お久しぶりです。元気にしてますか?


 その短い文章を見ただけで、どきりと心臓が跳ねた。互いに連絡先は交換していたが、彼女から連絡が来るのは初めてだった。

 そろそろ日付も変わろうかという時間だが、まだ起きているのか。おれはスマホを握りしめ、どうやって返信しようかと思案する。

 元気か元気ではないかと聞かれると、ちょっと難しい。昼間活動していないから体調に問題はないけれど、吸血していないため元気いっぱいというわけでもない。しかしそれを説明するのも、なんだか血液をねだってるみたいだ。

 おれはたっぷり五分は考えたあと、「まあまあだよ」と送信した。すると、手の中のスマホが鳴り出す。電話がかかってきたのだ。


「も、もしもし?」

『薙くん、こんばんは! 陽毬です』

「こんばんは……」


 クラスメイトの女の子と電話をするなんて、初めての経験だ。機械を通して耳元で響く声さえも甘く、みるみるうちに飢餓感が蘇ってきた。


「ど、どうしたの?」

『なんだか急に、薙くんとお話したくなったんです。薙くんの声が聞けて嬉しいです』


 明るい声に、おれの心はふわりと浮き上がる。おれもだよ、と言うべきかどうか迷っているうちに、彼女が尋ねてきた。


『薙くん、夏休みはいかがお過ごしですか?』

「え? いや、特に何も……勉強したり、本読んだり、散歩したり……あ、あと単発のバイトもしてる。バアちゃんの友達の喫茶店で」

『そうなんですか? わあ、遊びに行ってもいいですか?』

「い、いや……夜遅いし、一人で来るのは危ないよ」


 おれがシフトに入っているのは大抵深夜だし、そんな時間に月城町に足を踏み入れるなんて危険すぎる。一番ヶ瀬さんは『そうなんですね……』と残念そうな声を出した。


「……一番ヶ瀬さんは? 夏休み、何してたの?」

『このあいだ、クラスのみんなと海に行きましたよ。新しい水着買ったんです。写真見ま「見たい」すか?』


 一番ヶ瀬さんが最後まで言い終わらないうちに、おれは即答していた。彼女が笑みを含んだ声で『ちょっと待ってくださいね』と言う。言いつけの通り、おとなしく待っていると、すぐに画像が送られてきた。

 ディスプレイに表示された一番ヶ瀬さんは、クラスの女子と四人並んではにかんだ笑みを浮かべていた。身につけているのはシンプルなワンピース型の水着だ。そんなに露出が高いわけじゃないけれど、とても可愛い。おれは誰も見ていないのをいいことに、存分に画像を拡大して堪能した。ごちそうさまです。


「に……似合ってる、ね」

『ほんとですか? ありがとうございます』

「うん。めちゃくちゃ似合ってる」


 本当はあと五百回くらい「似合ってる」と言いたかったけど、ドン引きされるのも嫌なのでやめておいた。ひとつ咳払いをしてから、話題を変える。


「今日は? 一日何してたの?」

『今日は町内のゴミ拾いのボランティアをして、午後からはハンドボール部の助っ人に行って、クラスの子たちと課題をしてました。明日は朝からバイトです』


 一番ヶ瀬さんらしいスケジュールだ。相変わらず、他人の役に立つためにあちこち奔走しているらしい。

 夏休みに入ってから、おれが彼女をバイト先まで迎えに行くことはなくなった。普段入っているパートさんが子どもの夏休みのためシフトに入れなくなり、昼間働くことが増えたらしい。帰りが遅くならないのなら、おれが迎えに行く必要はない。そもそも太陽が出ているあいだ、おれは寝ている。


『あの、薙くん』

「なに?」

『……えっと……そろそろ、わたしの血を飲みに来ませんか?』


 魅力的な誘惑に、おれの気持ちはぐらりと揺らいだ。飲みたい。今すぐ白い肌に牙を立てて、思うがままに血液を貪りたい。興奮で震える指先を、きつく握りしめた。

 一番ヶ瀬さんに会いたい。会って、他愛もない話をして、笑った顔が見たい。それは紛れもない本音なのに、おれは素直に彼女に「会いたい」とは言えない。その奥に、自分ではどうしようもない吸血欲が潜んでいるからだ。

 ――今彼女に会ってしまったら、おれはどうなってしまうんだろう。理性なんて全部吹き飛んで、きれいなうなじに思い切り噛みついてしまうんじゃないだろうか。


「……ううん。やめとくよ」


 悩んだ結果、おれはそう答えた。


『……そうですか、わかりました』


 スマホから聞こえる彼女の声からは、やっぱり何の感情も読み取れない。おれが黙っていると、彼女は明るい声で『また電話してもいいですか?』と言った。


「……もちろん。おれ、ラジオ体操行ってるから夜七時には起きてる」

『わあ、夜のラジオ体操とかあるんですね。では、また。お祭りも楽しみにしてますね』

「うん。じゃあ、おやすみ」

『おやすみなさい』


 通話を切って、そのままベッドに倒れ込む。つまらないプライドで彼女の好意を無碍にしてしまった後悔が、いまさらのようにじわじわと押し寄せてくる。

 それでも、彼女に血が目当てだと思われるのは嫌だった。おれが普通の人間だったら、もっとまともな理由で「会いたい」と言えたのに。

 一緒に行こうと誘った夏祭りまでは、まだ一ヶ月もある。夏休みが終わりに近づくのは悲しいけれど、おれは指折り数えてその日を待っていた。

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