19:夏の嵐
激しい雨の音と共に目を覚ました。
手探りで枕元にあるスマホを確認すると、まだ十五時だった。ノソノソと布団から這い出すと、ぴったりと閉めていた雨戸を開く。窓の外ではバケツをひっくり返したような雨が降り注いでおり、まるで夜のように暗かった。嬉しくなったおれは、鼻歌混じりに階下へ向かう。
「おや薙、ずいぶん早起きだね」
珍しいことに、バアちゃんも目を覚ましていた。おれよりも吸血鬼の血が濃いバアちゃんは完全な夜型のため、普段ならばこんな時間に起きていることはまずない。キッチンで立ったままコーヒーを飲んでいるバアちゃんに向かって、「牛乳ちょうだい」と言った。
「雨の音がうるさくて。バアちゃんも早起きだね」
「月城祭の準備に行ってくるよ。毎年のこととはいえ、面倒だねえ」
そんなことを言いつつ、実は結構ワクワクしていることをおれは知っている。うちのバアちゃんは、いくつになってもお祭り好きなのだ。
月城祭は、月城町で毎年開催される夏祭りである。そもそもの起源は、吸血鬼が捕らえた人間の血を飲むための催しという物騒なものなのだが、もはやそんなものは微塵も関係なくなっている。
夜宵市の人間のみならず他府県からも観光客が大勢来るし、黒いマントを羽織って古の吸血鬼のコスプレをしている人もいる。もちろん、気味悪がって寄りつかない人間(たとえば、松永なんかは絶対に来ないだろう)もいるが。
「薙。アンタ毎日ダラダラしてばっかりで、デートの予定のひとつもないのかい」
「……ないよ、そんなの」
「零児はしょっちゅう女の子と出歩いてるみたいだけどねえ……ま、あの子みたいになれとは思わないけどね。男は一途なのが一番だよ」
おれの前に牛乳の入ったグラスを置きながら、バアちゃんが言う。バアちゃんは昔から零児に厳しい。
冷えた牛乳を喉に流し込んでいると、バアちゃんがガシッとおれの頰を片手で掴んだ。しわくちゃの指は小枝のように細いのに、ものすごく力が強い。見た目は老人だが、握力はゴリラ並だ。
「顔色が悪いね。血の匂いもしない。アンタ、陽毬ちゃんに会ってないんだろ」
ギョロリと赤い瞳に睨みつけられる。唐突に出てきた一番ヶ瀬さんの名前に、おれは内心どきりとした。
結局おれは彼女に「会いたい」と言えないまま、夏休みも半ばを過ぎようとしている。電話では何度か話をした。電話がかかってくるのは、だいたい夜の九時から十時のあいだだ。一番ヶ瀬さんは相変わらず毎日忙しくしているらしく、今日は夕方までバイトだと言っていた。
おれはバアちゃんの手を振り払うと、小声で答た。
「……一番ヶ瀬さんなら、月城祭に来るよ」
「来週じゃないか! まったく何をチンタラしてるんだい」
「別に、チンタラしてるわけじゃ……お、おれにはおれのペースってものが……」
「やれやれ、なんでアタシの血を引いてるのにこんなに消極的なのかねえ。アンタのひいひいじいさんはそりゃあ情熱的で、血をいただこうとしたアタシに……」
「……〝君のような美しい人に血を捧げて死ぬなら悔いはない〟ってやつだろ。もう聞き飽きたよ」
おれはうんざりしつつ、バアちゃんの話を早々に遮る。
バアちゃんの夫――つまりおれのひいひいじいさんは人間だったため、とっくの昔に死んでいる。若かりし日のバアちゃんに一目惚れして件のセリフを言い放ち、バアちゃんが折れるまで追いかけ回したというのは、幼少期から幾度となく聞かされていた馴れ初めだ。
とはいえ当の本人はもういないし、バアちゃんが勝手に言っているだけだから、多少脚色されている可能性は大いにある。死人に口なしだ。
「アタシはいろんな人間の血を飲んできたけど、やっぱり未だにあの人の味を超えるものはなかったね」
バアちゃんは昔を懐かしむように目を細めて、どこか遠くを見つめている。うら若き処女の生き血が一番美味い、というのが一般的な見解だが、そうでもないのだろうか。おれは一番ヶ瀬さん以外の人間の血を飲んだことがないので、よくわからない。他の人の味を、知りたいとも思わない。
――ねえ薙くん、わたしね。ほんとはこのまま、あなたに食べられるのも悪くないと思ってるんです。
バアちゃんの惚気話を聞いて、ふいに頭に浮かんだのは一番ヶ瀬さんの言葉だった。
ジイちゃんの発言とは違って、あれはきっと口説き文句でもなんでもない。彼女の本心だ。どうして一番ヶ瀬さんは、あそこまで捨て鉢になれるんだろう。
ざあざあという雨の音がうるさい。雨が好きじゃない、と言っていた一番ヶ瀬さんのことを思い出す。
――薙くん、わたしの血、飲みたいですよね……?
あのときの彼女は、やけに不安げな顔をしていた。眉を下げた彼女がおれの制服の袖をぎゅっと掴むとき、おれの胸にはいつもなんとも言えない感情が押し寄せてくる。
そろそろ、一番ヶ瀬さんのバイトが終わる時間だ。夜遅いわけでもないし、おれが迎えに行く必要なんてない。ない、んだけど……。
――もしかして一番ヶ瀬さんは、おれのことを待っているんじゃないだろうか。
もし彼女が一人で不安がっているのなら、そばにいてあげたい。いや、そんなのはきっと言い訳でしかなくて。彼女に会いたいのはおれの方だ。今すぐ会いたい。おれのプライドなんてどうでもいい。もう一週間も待てるはずがない。
おれはグラスに入った牛乳を飲み干すと、勢いよく立ち上がった。洗面所で顔を洗って軽く寝癖を直した後、真っ黒いレインコートを羽織る。玄関で長靴を履いていると、後ろからバアちゃんが声をかけてきた。
「おや薙。どこ行くんだい?」
「……散歩だよ」
ばしゃん、と水溜りを踏んで泥水が跳ねる。今日の天候は大雨というよりは嵐に近かった。吹き荒ぶ暴風に、木々がへし折れそうに揺れている。
レインコートがあるため傘は持ってこなかったが、きっとあっても役には立たなかっただろう。どんよりとした暗さは吸血鬼にとっては望ましいもののはずだが、さすがに出歩いている奴はほとんどいなかった。
一番ヶ瀬さんに連絡しようかと思ったが、スマホを持ってくるのを忘れた。いまさらながら、自分の無計画さにうんざりする。
おれはどうして嵐の中、一番ヶ瀬さんを探して歩いているのだろう。とにかく今は、一刻も早く彼女に会いたかった。今のおれを突き動かすものが、彼女の血を飲みたい吸血鬼としての本能なのか、それともそれ以外の何かなのか、よくわからない。
いつもより三十分以上時間がかかったが、一番ヶ瀬さんののバイト先に着いた。途方に暮れたような表情で裏口に立っている女の子を見つけて、おれはほっとする。
足早に一番ヶ瀬さんの元に向かうと、彼女は大きく目を見開いた。
「薙くん」
――ああ、やっぱり会いたかった。
名前を呼ばれただけなのに、どうしようもなく嬉しくなる。顔を見た途端に、腹の底から欲望がかけ上がってくる。半袖のTシャツにショートパンツを履いた彼女の肌は剥き出しで、どこに牙を立てても柔らかそうだ。
今目の前にいる女の子の血ほど美味しいものを、今のおれはまだ知らない。湧き上がる欲のままに、おれは彼女に向かって口走っていた。
「一番ヶ瀬さんの血、飲みたい」
その瞬間、彼女の顔が泣き出しそうに歪んで――それから、花が咲くような笑みを浮かべた。次の瞬間、おれの胸の中に飛び込んでくる。
激しい雨が容赦なくおれたちに降り注ぐ。「濡れるよ」と言っても、彼女は首を横に振るだけだ。仕方ないので、背中に腕を回して抱きしめる。あまりの柔らかさに、今すぐ噛みついて血を飲みたくなる。
おれは今どうしようもなく、この子のことが欲しい。
「……わたし、ずっと薙くんのこと待ってたんです」
ぎゅっとしがみついてくる彼女の力はやけに強くて、決して離れまいと親にしがみつく小さな子どものようだった。
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