30:「好きだからだよ」

 完全に油断していた、としか言いようがない。


 ここ最近はすっかり空気もひんやりと秋めいていて、空もどんよりといい感じに曇っていて、すっかり過ごしやすい季節になったものだと喜んでいたのだ。

 それなのに、体育祭当日の今日ときたら。十月後半だというのに夏が出戻りしたようなひどい天気で、雲ひとつない真っ青な空に凶悪な太陽が輝いていた。

 開会式の真っ只中、我々はスポーツマンシップにのっとってうんぬんかんぬん、という選手宣誓を聞きながら、おれの意識は朦朧としてきた。

 あいにく、日除けの帽子は持ってきていない。先生に言って日陰に移動しようと立ち上がったところで、おれは頭から盛大にブッ倒れた。

 そこから先の記憶はないが、気付けば保健室のベッドで寝ていた。カーテンが締め切られているため薄暗く静かで、ほっとする。重い身体をなんとか動かし、ノロノロと起き上がったおれに、谷口先生が人工血液を差し出してくれた。


「山田くんが保健室に来るの、お久しぶりねえ」


 やけにのんびりとした口調で、谷口先生が言った。おれは返事をする気力もなく、人工血液をごくごくと喉に流し込む。

 陽毬の血を飲むようになってから、人工血液への抵抗がほとんどなくなった。酒や煙草の味を覚える大人はこういう感じなのだろうか、とぼんやり考える。


「……おれ、どうやってここに来たの」


 二百ミリリットルのパックを飲み干したところで、ようやく元気が出てきたおれは尋ねた。


「葛城くんに背負われてきたわよ。一番ヶ瀬さんが付き添ってくれてたわ」


 谷口先生はこともなげに答えたが、おれはちょっと死にたくなった。

 いくら葛城くんが野球部とはいえ、一応立派な高校生男子がいとも容易く背負われてしまうなんて情けない。おれが貧相なモヤシなのは純然たる事実ではあるのだが、正直陽毬には見られたくなかった。

 ……思えばおれは、陽毬に情けないところを見られてばかりだ。


「……ひ……一番ヶ瀬さん、は? もう戻った?」

「ええ。なんだか名残惜しそうだったけど、すぐに他の子に引っ張られて行ったわよ。彼女、すごく忙しいみたいね」


 そりゃそうだ。きっと彼女のことだから、準備や競技に引っ張りだこなのだろう。さまざまな面倒ごとを押し付けられ、そのすべてを喜んで引き受けているに違いない。あれこれ頼られた陽毬が、生き生きと表情を輝かせるさまが浮かんで、おれは微かに笑った。

 腕を伸ばして、カーテンを薄く開く。射し込んできた太陽の光に頭がくらくらしたが、なんとか目を凝らしてグラウンドを見た。

 今は障害物競走をやっているらしく、生徒たちが巨大なネットをくぐっている。陽毬の姿を探してみたけれど、見えるところにはいなかった。抜けるような青空の下では、楽しそうな笑い声が響いている。ガラス一枚隔てた向こうは、こことは別の世界だ。ゆっくりとカーテンを閉めると、心地良い薄闇が戻ってきた。

 そのとき、勢いよく保健室の扉が開いた。見知らぬ女子が顔を出して、慌てた口調で叫ぶ。


「谷口せんせー! 男子がハードルに引っかかってコケましたあ!」

「ええ? わかった、すぐ行くわ」


 谷口先生は救急箱を掴んで立ち上がった。「ましになったら、戻ってもいいわよ」と言われて一応頷いたけれど、おれはもうあの太陽の下に戻る気にはなれなかった。零児もきっとどこかでサボっているのだろう。あいつのことだから、女子と二人でイチャイチャしているかもしれないが。

 球技大会といい修学旅行といい体育祭といい、吸血鬼という生き物は学校行事もろくに楽しめない。ろくでもないな、とうんざりした。


 ちょっと寝ようとベッドに横たわったところで、再び保健室の扉が開いた。谷口先生にしてはえらく早いな、と思って視線をそちらに向ける。立っている人物の姿を見て、おれは思わず「うげえ……」と声を漏らした。


「何よ、その反応は」


 いたく不機嫌そうにこちらを睨みつけたのは、松永あいさだった。

 長袖長ズボンのジャージ姿で、今日は陽毬と同じように長い髪をポニーテールにまとめている。なかなか綺麗なうなじだったが、当然噛みつくつもりはない。


「……怪我でもした? 谷口先生なら今いないよ」


 おれの言葉を無視して、松永はズカズカと保健室に入ってくる。一定の距離を取って立ち止まると、腰に手を当てたまま、じろじろとおれの顔を無遠慮に眺めた。


「なんだ、平気そうね」


 どこかつまらなさそうに、松永は言ってのける。おれはぶすくれた表情を隠そうともせず「おかげさまで」と答えた。


「何しにきたの?」

「ものすごく不本意だけど、あなたの様子を見に来たのよ」

「え? なんで松永が」

「先生から頼まれて……仕方ないけど、他の子にこんな役目任せられるわけないでしょう」

「陽毬は?」


 反射的に尋ねてから、しまったと口を噤んだ。松永はギロリとおれを睨むと「ダメに決まってるでしょう!」と怒鳴りつけた。


「……まさか、性懲りもなく一番ヶ瀬さんの血を飲んでるんじゃないでしょうね?」


 毎晩飲んでます、とは当然言えない。しかし、黙り込んだおれの態度で松永は察したらしい。目を三角につり上げて「信じられない」と憤った。おれのことを、まるで化け物でも見るような目で睨みつけている。

 おれが身体を起こすと、松永は頰を引き攣らせて一歩後ずさった。あからさまに怯えた様子を見せられたが、それほど嫌な気持ちにはならない。もう慣れっこだ。

 おれは正直、松永の気持ちもわからなくもないのだ。もし目の前にいる男にとって、自分の血が極上のごちそうだと知ったとき――いつか自分も噛みつかれるのでは、という恐怖心を抱かずにいられるだろうか?


「別に、おれは松永の血を飲んだりしないよ」


 なるべく優しい口調で言ったけれど、松永の鋭い目つきは緩まなかった。


「おれのこと、不気味に思うのもわかるよ。でも、吸血鬼だって誰かれ構わず血を吸うわけじゃないから……」

「如月くんも?」

「……いや、零児は……わかんないけど……」

「吸血鬼が若い女性を襲う事件だって、たくさん起きてるじゃない」

「た、たしかにそういう吸血鬼もいるよ。でも少なくとも、おれはそんなことしない。生物の信楽先生とかも……いい人だよ」


 たしかに吸血鬼の中には、平気で人間に危害を加えるような奴もいる。月城町の治安があまり良くないのも本当のことだ。零児の下半身がゆるゆるなのも紛れもない事実である。

 それでも、おれのバアちゃんとか母さんとか信楽先生みたいに、真面目で善良な吸血鬼だってたくさんいるのだ。


「……じゃあどうして、あなたは一番ヶ瀬さんの血を飲むの? 別に血を飲まなくたって、生きていけるんでしょう」


 たしかに血は飲みたいけど、相手は誰でもいいわけじゃない。陽毬以外の人間の血は飲みたくない。その理由は、たったひとつしかなかった。


「……好きだからだよ」


 おれにとっては、至極当たり前の理屈だ。それでも松永にとっては意外な返答だったらしく、大きく目を見開いて唖然としている。


「ど、どういう、こと……?」

「だ、だから……陽毬が好きだから、血を飲みたいって思う」

「そ、そんなの、おかしいわよ。どうして好きなのに、好きな人を傷つけるようなことするの……?」


 松永は心底不思議そうに首を捻る。

 人間の松永には、吸血鬼であるおれの行動原理は、きっと理解し難いのだろう。人種の異なるおれたちのあいだに隔たる溝は深い。これからも、埋まることはないのかもしれない。


「おれは、吸血鬼だから」


 おれだって本当は、普通の人間みたいに、普通に陽毬のことを好きになりたかった。ただ会って話をして、手を繋いで抱き締めるだけで満足できたらよかった。

 でも、それだけじゃ我慢できない。陽毬のそばにいると、折れそうに細い指に、真っ白いうなじに、柔らかな肌に、牙を立てたくなってしまう。それが、吸血鬼としての本能だからだ。


「……到底理解はできないけど、あなたの言わんとしてることはわかったわ」


 松永はそう言って溜息をついた。納得はしてもらえないだろうが、とりあえずおれが陽毬に危害を加えるつもりはないということは、わかってもらえたらしい。


「それにしても……大事な人を傷つけずにいられないなんて、吸血鬼ってやっかいな生き物ね」


 松永の声には、ほんの僅かに同情の色が滲んでいた。

 おれも、そう思う。どうしておれは、普通の人間みたいに陽毬のことを大事にしてあげられないんだろう。


「薙くん!」


 そのとき息を切らして保健室に飛び込んできたのは、陽毬だった。

 長袖のジャージの下はショートパンツで、髪はいつものポニーテールではなくツインテールに結われている。


「薙くん、大丈夫ですか?」


 陽毬は一目散におれに駆け寄ってくると、ぎゅっと両手を握りしめてきた。高い位置で結ばれたツインテールがぴょこんと揺れる。

 おれは今日まで、陽毬をもっとも可愛く見せる髪型はポニーテールだと信じて疑わなかったけれど、今この瞬間にツインテール派閥が爆誕してしまった。今後は大いに議席を争うことになるだろう。


「だ……大丈夫だよ。陽毬の方こそ、こんなところにいていいの」

「任せられた仕事は全部片付けてきました! わたしの八面六臂の活躍、薙くんにも見せたかったです」


 ここに来るために頑張ってくれたのかと思うと、胸の奥が熱くなる。それと同時に、露わになっているうなじに思い切り噛みつきたくなった。

 ごくりと喉を鳴らして、柔らかな手をそっと握り返す。陽毬はニコニコ笑顔を浮かべながら、楽しそうに言った。


「わたし、午後からの応援合戦に出るんです。チアガールの衣装着て踊るんですよ。薙くん、戻って来れそうですか?」

「……絶対戻る」


 ついさっきまでこのまま寝ていようと思っていたのだが、なんとしてでも戻らなければならない理由ができてしまった。陽毬のチアガール姿なんて、なにがなんでも見逃すわけにはいかない。ミニスカートでポンポンを振る陽毬を想像して、おれは己を奮い立たせた。

 締め切ったカーテンの向こうから「今から一時間の昼休憩に入ります」というアナウンスが聞こえてくる。未だ太陽の光は殺人的に降り注いでいたが、陽毬の血を飲めばなんとかなるかもしれない。

 おれの意図を察したのか、陽毬はこちらを見て力強く頷いてくれた。松永の方を向くと、申し訳なさそうに切り出す。


「松永さん、薙くんの様子見に来てくれてありがとうございます。あのう、すみませんが……わ、わたし今から薙くんに血を飲んでもらうので、席を外していただけませんか」


 陽毬はやけに恥ずかしそうに、もじもじしながら言った。そんな言い方をされると、なんだか今からいかがわしいことをするみたいだ。陽毬の照れが伝染したのか、松永も頰を赤らめた。


「……い、医療行為なのよね?」

「も、もちろんです! やましい気持ちなんて、これっぽっちもありません!」

「……あなたたちってほんと、変な関係」


 そんな捨て台詞を吐いて、松永はそそくさと保健室を出て行く。

 二人きりになった途端、勢いよく陽毬が飛びついてきた。ぎゅうっと健気に抱きついてくる柔らかな身体を受け止めながら、じりじりと吸血欲が湧いてくるのを感じる。

 可愛い。好きだ。思い切り噛みつきたい。

 ――陽毬は怖くないって言ってくれたけど、おれはおれ自身がちょっと怖いよ。

 それでも、腹の底から突き上げてくる欲を押さえ込むことなんてできない。いただきますと囁いて、目の前の白いうなじにそっと牙を立てた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る