29:吸血鬼ってやつは

 信頼というものは得るのは難しいが、失われるのは容易い。

 松永あいさのおれに対する「こいつはどうやら危険な吸血鬼ではないらしい」という評価は、ものの一瞬でひっくり返ってしまった。


「ま、松永さん……どうしてここに」

「それはこっちのセリフよ! あ、あなたたち、こ、こんなところで一体何をやってるの!?」


 つんざくような悲鳴が静寂を切り裂いて、おれは天を仰いだ。

 よりにもよって、一番見られてはいけない人間に見られてしまった。さっきまで思い切り首に噛みついていたのだから、いまさら誤魔化しようもない。

 呆然としているおれよりも早く動いたのは、陽毬だった。ワナワナと震えている松永に駆け寄り、彼女の口をてのひらで押さえる。


「ごめんなさい、静かにしてください。先生に見つかっちゃいます」

「むぐっ……!」

「わたしたち、やましいことは何もしてません」

「……っ、でも、今、く、首にっ……!」


 陽毬の手を引き剥がした松永は、さっきよりも少し控えめなボリュームで言った。陽毬は子どもをあやすような優しい口調で、松永を宥める。


「たしかにわたしは、薙くんに血を飲んでもらってます。でもお互い合意のうえですし、何の問題もありません。いわばこれは医療行為です」

「ど、どうしてそんなこと……し、信じられない……」


 松永はいやいやをするように首を振ると、かっと目を見開いてこちらを睨みつけた。やや切れ長の瞳には、憎悪とも恐怖ともつかない光が宿っている。


「どうして、平気な顔してクラスメイトに噛みついたりできるの。どうして、人間の血を飲んだりするの。吸血鬼っておぞましい、汚らわしい……!」


 松永の言葉は、おれの心臓を鋭く抉った。何も言い返すことができず、俯いて下唇を噛む。

 人間の血を飲みたいという欲は、元来吸血鬼に備わっているものである。おれだって陽毬の血を飲むまでは、自分の中にそんな欲が潜んでいることすら気がついていなかった。そんな吸血鬼の本性を、うっすら嫌悪してさえいたのだ。吸血鬼というだけで陰口を叩かれたり、無駄に怯えられたりするたびに、「おれは違うのに」という憤りを感じていた。

 それでも今のおれは――クラスメイトの、陽毬の血を飲むことに、少しの躊躇いもなくなっている。松永の言う通り、平気な顔をして陽毬の首に噛みついている。おぞましい、と言われても仕方がない。


「松永さん、やめてください!」


 陽毬がおれを庇うように、松永の前に立ちはだかる。彼女にしては珍しく、怒気を含んだ口調だった。松永はややたじろいだ様子を見せる。


「そんな言い方されたら、誰だって傷つきます。薙くんがあなたに何をしたって言うんですか。薙くんは、とっても優しい人です。誰にも危害を加えたりしません」


 川のせせらぎと共に響く陽毬の声が、傷ついたおれの心にじわじわと染み込んでいく。普段は穏やかで、誰にでも優しい彼女は今、おれのために怒ってくれているのだ。悔しそうに肩を震わせ、ぐっと拳を握りしめている。

 おれの痛みをまるで自分のことのように受け止めてくれる陽毬は、本当に優しい女の子だ。


「……陽毬。もういいよ」

「でも」

「陽毬がわかってくれてるなら、いい」


 陽毬は腹落ちしていなさそうだったが、渋々頷いた。

 吸血鬼に対する偏見なんて、そう簡単に払拭できるものではない。今ここでおれたちの関係を説明したところで、松永には理解してもらえないだろう。


「松永、変なとこ見せてごめん」


 おれが頭を下げると、松永は戸惑ったようにおれと陽毬を交互に見つめた。ぶつけどころのない怒りを持て余しているようにも見える。

 やがて松永は長い髪を振り乱し、ぶんぶんと首を横に振った。


「……やっぱり、理解できないわ。行きましょう、一番ヶ瀬さん」


 松永は陽毬の腕を引くと、強引に宿へと戻って行った。陽毬は不安げに何度もこちらを振り向いていたが、おれは無言で二人を見送った。

 一人になってようやく夜の静寂に包まれたが、先ほどまでの心地良さはもう失せていた。




 修学旅行の二日目以降は最悪だった。

 松永はおれに侮蔑の視線を向け、隙あらば罵倒し、決しておれを陽毬に近付けなかった。おれたちのあいだに漂うギスギスした空気に、葛城くんは「どうかしたの?」と困惑していたが、当然事情を話すことなんてできなかった。

 結局おれは修学旅行をまともに楽しむこともできず、ノリで買った謎のTシャツを土産にすごすごと帰宅した。


 修学旅行が終わって一週間が経った今も、未だに松永のガードは堅く、陽毬の半径二メートル以来に近付くことすらできない。昼休みに血を飲むこともできなくなった。

 松永が周囲にあれこれ言いふらしたりしなかったのは、不幸中の幸いだった。しかし、もし彼女がおれたちのことを他の奴らにバラしたら。あることないこと噂され、陽毬に偏見の視線が向けられるだろう。教師の耳に入ったら、もっと大きな問題に発展するかもしれない。谷口先生のように、吸血鬼に理解のある大人ばかりではないのだ。真面目な優等生である陽毬に、迷惑だけはかけたくない。やはり、距離をとっておいた方が安全だろう。

 そんな諸々の事情もあり、おれが陽毬と二人きりになれるのは、バイト後の陽毬をアパートまで送るときだけだった。




「薙くん、ほんとにごめんなさい……わたしのせいで」


 おれの隣を歩く陽毬が、しょんぼりと眉を下げた。十月も後半になり肌寒くなってきたせいか、やや厚手のブルゾンを羽織っている。

 恐縮する陽毬に向かって、おれはきっぱりと言った。


「いや、あんなとこで周りも気にせず血飲んだおれが悪いよ。陽毬は悪くない」

「でも、誘ったのはわたしですし……もう少し二人きりになれる場所にしておけばよかった……」


 こんな堂々巡りのやりとりも、もう飽きるほど繰り返している。

 おれが「きりがないから、お互い謝るのもうやめよう」と言うと、陽毬は悲しげに「はい」と頷いた。


「薙くん、どうぞ入ってください」


 陽毬の住むアパートに着くと、彼女はおれを部屋に迎え入れてくれた。昼休みに血を飲めなくなってからは、こうして彼女の部屋で血を飲むことにしている。

 陽毬に促されるまま、おれはローテーブルのそばに腰を下ろした。上着を脱いだ陽毬はおれの正面に座って、じっとこちらを見つめてくる。軽く腕を引くと、耳元で小さく囁いた。


「いただきます」


 華奢な首に牙を立てることに、甘美な血液を思うまま貪ることに、罪悪感を抱かなくなったのはいつからだろう。

 吸血行為にどんどん慣れていく自分が、なんだか恐ろしく感じられた。おぞましい、と蔑む松永の声が頭にわんわんと響く。


「……ごちそうさまでした」

「はあい」


 首筋から唇を離すと、陽毬は嬉しそうにエクボを浮かべる。おれの頰を両手で挟んで、「きれい」とうっとりした表情で瞳を覗き込んできた。陽毬がきれいだと言ってくれるから、おれは吸血鬼の象徴である赤い瞳も嫌いじゃなくなった。

 ――どうして陽毬は、おれのことを少しの迷いもなく受け入れてくれるんだろう。


「……陽毬は、吸血鬼おれのこと怖くないの」


 思わず口をついて出た問いに、陽毬はきょとんと瞬きをした。


「薙くんみたいに優しい人を、怖がるわけないです」

「普通に考えて、人間の血吸うなんて不気味だろ。……別に飲まなくても生きていけるんだから、ほんとは血なんて飲まない方がいいんだ」

「不気味じゃないです! いくら血を飲まなくても生きていけるっていっても、人間がお菓子を食べたりお酒を飲んだりするのと同じじゃないですか。吸血行為そのものを嫌悪するのは、おかしいです」

「……でも、おれのせいで、陽毬は痛い思いしてる」


 誰かが血を流している時点で、人間の飲酒なんかとはわけが違う。陽毬はおれのことを「誰にも危害を加えていない」と言ってくれたけれど、おれは現在進行形で陽毬のことを傷つけている。

 生々しい首の傷口にそっと触れると、じくじくと血が溢れてきた。しまった、少し強く噛みつきすぎたかもしれない。


「ごめんな……」

「へっちゃらです。わたしは嬉しいので」


 きっと痛いだろうに、今目の前にいる女の子は、慈愛に満ちた笑みを浮かべてこちらを見つめている。吸血鬼おれのくだらない欲のために喜んで血を流すこの子のことが、おれはどうしようもなく愛おしくて、泣きたくなる。

 再び噛みつきたくなる欲を押さえこみながら、おれは親指に付着した甘い血を舐めた。

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