28:天使のままじゃいられない

 旅館に戻ってきたときにはフラフラだった薙くんも、谷口先生からもらった人工血液を飲んでしばらく経つと、かなり顔色が良くなっていた。

 すっかり日が暮れた頃には瞳も生き生きと輝いていて、昼間とは別人のようだ。元気になってくれてよかった。


 晩ごはんは旅館の大広間で集まって食べることになっている。メニューは焼き魚にしじみのお味噌汁、ほうれん草のおひたしに山菜おこわだ。普段バイト先のファミレスで夕食を済ませているわたしにとって、栄養バランスの取れた和食を食べられるのはありがたい。ほうれん草は鉄分も豊富だし。

 席は決められていなかったけれど、なんとなく班ごとに分かれて座ることになった。わたしの正面に腰を下ろした薙くんは、モリモリとごはんを食べている。どうやらお腹が空いていたみたいだ。


「山田くん、元気になったみたいだな」


 葛城くんが言うと、薙くんは「みんなに迷惑かけてごめん」と頭を下げた。

 よく見ると、お皿の端に山菜だけを避けておこわだけを食べている。味にちょっと癖があるし、もしかして苦手なんだろうか。もし食べられないようなら、あとで食べてあげよう。


「気にしないでください。迷惑だなんて思ってませんから」

「吸血鬼って大変だよなー。E組の如月もブッ倒れてたらしいぞ」


 わたしたちが答えると、薙くんはほっとしたように頰を緩める。それから、わたしの隣に座っている松永さんの方を見て言った。


「……あと、松永も。ありがとう」


 松永さんはフンと鼻を鳴らして、「別にあなたのためじゃないって言ったでしょ」と吐き捨てる。

 いつもの冷たい物言いだったけど、ほんの少し親しげな声色だ。薙くんはげんなりしたような顔をした後、ちょっとだけ笑った。

 なんだか今日一日で、二人の距離がちょっと近付いたように見えるのは気のせいだろうか。途端に湧き上がってきた真っ黒いドロドロとした感情を、慌ててお味噌汁で流し込む。

 松永さんが薙くんと一緒に残ると言ったとき、わたしははっきりと「嫌だな」と思った。松永さんは親切心から言ってくれたのに、わたしはそれを素直に受け入れられなかった。

 ――いつだって、わたしが薙くんに一番必要とされていたい。

 そんな醜いエゴを必死で飲み込んで、わたしはにっこり笑ってみせた。


「……明日は曇りらしいですし、少しはましかもしれませんね」

「そうなの? よかった。明日も晴れてたら、ずっとバスに引きこもろうと思ってた。そんなのつまんないもんな」

「山田くん、日除けの帽子かぶればいいのに。たまに体育のときにかぶってるやつ」

「やだよ、あれださいもん。デザイナーのセンスを疑う」

「いや、よその県の人から見たら最先端だと思われるんじゃない?」

「そうかあ?」


 葛城くんの言葉に、薙くんは八重歯を見せて笑う。やっぱり夜の薙くんは、いつもより表情豊かで口数が多くてちょっと可愛い。

 ……薙くんのこんな顔も、わたしだけが知ってたのになあ。

 そんなことを考えてしまって、わたしはぶんぶんと頭を振った。

 ここ最近のわたしは、なんだか変だ。こんな感情を知られてしまったら、薙くんに幻滅されるかもしれない。これからも薙くんに必要としてもらえるように、ちゃんといい子でいなくちゃ。

 



 大浴場でお風呂に入った後、わたしたちは女子部屋に移動した。時刻はまだ夜の十時だ。みんな布団に潜り込んではいるけれど、まだまだ眠る気配はない。修学旅行のゴールデンタイムはこれからなのだろう。

 こういうときに一番盛り上がるのは、やはり恋愛の話である。初々しい片想いの話から、彼氏のいる女の子のちょっと過激な話まで。わたしはこういうときに提供できるネタもないので、大抵ニコニコ笑って聞いているだけだ。


「ねえねえ、陽毬ちゃんはどうなの?」

「山田くんと仲良いよねー。ほんとは付き合ってるんでしょ?」

「いえ。わたしと薙くんは、そういうのじゃありませんから」


 彼との関係を邪推されることにも、もう慣れてしまった。毎日のように昼休みを彼と共に過ごし、指や首に絆創膏を貼っているわたしに、みんな何かを察しているのかもしれない。コソコソと「あやしい……」「触れない方がいいのかな……」と言われているのが聞こえたけれど、わたしは気付かないふりをした。

 そのときクラスメイトの一人が「実は葛城くんのことが好きで」と言い出して、キャーッという黄色い悲鳴が響いた。


「葛城くんいいよねー。顔はそこそこだけど、誰にでも優しくて落ち着いてるし」

「ね、いいよね!? でもさあ、誰にでも優しいのもそれはそれで辛いんだよねえ……優しいのはいいところなんだけど……」

「あたしあーいうの絶対ヤダ! 他の女にはそれなりに冷たくしてほしい! 自分にだけ特別優しくしてほしい!」


 正直すぎる叫びに、周囲から笑い声が起こる。しかしわたしはちょっぴり身につまされて、笑顔が引き攣ってしまった。

 これまでのわたしは、友人たちの恋話を聞きながら「恋愛って大変だろうなあ」と思っていた。恋人が他の女の子と話しているだけで怒って、連絡が来ないだけで不安になって、一挙一動に振り回される。わたしはそんなのまっぴらごめんだ。それなら最初から、何も求めない方がずっといい。手を伸ばさなければ、振り払われることもないのだから。

 ……それでもわたしは今、そんな泥沼に片足を突っ込みかけているのかもしれない。

 見返りを求めずにいられないのなら、恋愛なんて一生したくない。だんだん胸が苦しくなってきて、わたしはみんなに気づかれないように、こっそり部屋から出た。

 なんだか今、無性に薙くんの顔が見たかった。わたしのことを欲しがってほしかった。

 



 曇っているとはいえ、明日も一日外を歩くのだから、今のうちにエネルギーを補給しておいた方がいいに違いない。どうにかして血を飲んでもらおう、とわたしは薙くんを呼び出すことにした。

 そういえば、大浴場のそばに中庭があったはずだ。スマホを取り出して、「旅館の中庭に来てください」と薙くんにメッセージを送る。

 スリッパから外履きに履き替えて、立派な中庭に出る。小さな池には鯉が泳いでおり、赤い鱗が月の光を跳ね返してキラリと輝く。剪定の美しい植え込みからは、ジージーという虫の声が聞こえてきた。

 石畳を踏みながら奥へ向かうと、旅館の裏手を流れる川のそばに出た。今夜はおあつらえ向きに満月で、水面に浮かぶ白い月も風情がある。ここなら、薙くんもお気に召していただけるだろう。

 石造りのベンチに座ってぼんやりしていると、「陽毬」という薙くんの声が聞こえた。わたしからは暗くてよく見えなかったけれど、彼がまっすぐこちらに走ってくる気配がする。


「こんなとこでなにやってんの! メッセージ見て、びっくりした」


 目の前で立ち止まったところで、ようやく顔が見えた。薙くんはちょっと怒ったように眉をつり上げている。彼の怒るポイントは、やっぱりよくわからない。


「ご、ごめんなさい……」

「……いや、まあいいけど……おれも、会いたかったから」


 薙くんは小声でそう言って、隣に腰を下ろした。

 夜の散歩をしたり、彼がわたしの部屋に来たことは何度もあるけれど、非日常の空間に二人きりでいることは、なんだか気持ちがふわふわする。さらさらと川の流れる音が、耳に心地良い。


「……せっかくの修学旅行なのに、部屋抜けてきてよかったの」

「いいんです。恋話で盛り上がってましたけど、わたしには提供できるような話題もありませんから」

「……あ、そう……」

「こういうときって、男の子も好きな人の話とかするんです?」

「……ど、どうなんだろ。おれ、友達いないからわかんないや」

「あ、今変な間がありましたね! エッチな話とかしてるんですか?」

「お、おれはしてない!」


 ムキになる薙くんが可愛くて、わたしはくすくす笑みを溢す。薙くんはTシャツの上にパーカーを羽織っただけのわたしをチラリと見て、「陽毬、寒くない?」と心配そうに眉を寄せた。


「全然、へっちゃらです」

「こんな時間に一人でフラフラして、危ないよ」

「大丈夫ですよ。誰にも見られてません」

「優等生が部屋抜け出してこんなところで男と二人で……先生が泣くぞ」

「……わたし、そんなにいい子に見えますか?」

「おれには天使に見えるよ」

「て、てんし?」


 天使って聞こえたけど、もしかして聞き間違いかな。思わずわたしが訊き返すと、薙くんはちょっと照れたように頰を掻いた。


「と、とにかく。陽毬みたいな優しい子がいい子じゃなかったら、世の中の大半の人間は極悪人だよ。……おれも含めて」


 買い被りすぎだと思ったけれど、薙くんの返事にわたしはほっとした。よかった。わたしはまだ、薙くんにとって「いい子」でいられてるみたいだ。

 本当はわたし、自分が天使なんかじゃないことを知っている。わたしの優しさは誰かに必要とされたいがための偽善だし、根っこの部分はわがままでずるくて独占欲が強い。だから、わたしは捨てられたんだ。お母さんにとって、わたしは「いい子」じゃなかった。

 ――薙くんには、見捨てられたくないな。


「薙くん」


 わたしは誘うように、彼の首に両腕を回した。何も言わなくても、薙くんは察してくれたみたいだ。わたしの耳に唇を寄せて「……首でいいの?」と尋ねてくる。お風呂上がりなのか僅かに濡れた彼の髪が、わたしの頰に触れる。


「はい。飲んでください」


 わたしが頷くと、ほどなくして「いただきます」という声とともに、首筋に鋭い痛みが走った。じくじくと傷口から溢れ出す血液を、薙くんは一生懸命飲んでいる。こうして求められることだけでしか、満たされないものがあるのだ。

 もっと求められたい。必要としてほしい。そんな下心にまみれた感情が、優しさであるはずがないのに。薙くんはいつまで、わたしのことを天使だと思っていてくれるんだろう。


「……キャッ!」


 そのとき、ガサッという音とともに、小さな悲鳴が響いた。

 弾かれたようにわたしから離れた薙くんが、振り向いて「げっ」と声をあげる。わたしも彼の視線の先を追うと、そこには松永さんが立っていた。


「……山田くん……と……一番ヶ瀬さん!?」

「ま、松永さん……」

「山田くん! あなた、こんなところで……一番ヶ瀬さんに何やってるの!?」


 夜の静寂を引き裂くような、ヒステリックな甲高い声が響き渡る。

 その場に立ちすくむ松永さんを見た薙くんは、「一番めんどくさいのに見られた……」と深い深い溜息をついた。

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