26:ゆびきりげんまん

「悪いなあ、一番ヶ瀬。助かるよ」


 ギョロリと大きなカメレオンの目を見つめながら、わたしは「いいえ」と笑って答えた。

 薄暗くてじめじめした生物準備室には、巨大なカメレオンが入ったゲージがある。名前はエリザベス(通称エリー)。爬虫類マニアである信楽先生の職権濫用なのだと、前に薙くんが言っていた。

 わたしは信楽先生に頼まれ、ときおりこうしてエリーのお世話に来ているのだ。お箸でコオロギを掴んで差し出すと、エリーは長い舌でぺろりと食べてくれる。

 わたしは動物に懐かれないので、こうして手ずからごはんを食べてくれる存在は貴重だ。たぶん、エリーと薙くんぐらいのものだろう。


「一番ヶ瀬は平気なんだな。エリーの餌やり、結構嫌がる奴も多いんだけどなあ」

「そうですか? 可愛いですよ」

「一回薙に頼んだけど、餌のコオロギ見ただけで真っ青になってたぞ」


 信楽先生は口を開けて笑った。そうすると大きな牙が見えて、より吸血鬼らしい風貌になる。

 薙くんには悪いけれど、真っ青になっている薙くんを想像してちょっと笑ってしまった。苦手なものが多い薙くんも可愛い。

 それから信楽先生は、あれやこれやと薙くんの虫嫌いエピソードを披露してくれた。蝉の抜け殻に触れなくて大泣きしていたこと、蚊に対して「虫のくせに血を吸うなんて生意気だ」と言っていたこと。薙くんは怒るかもしれないけれど、わたしの知らない薙くんのことが知れて嬉しかった。


「先生、薙くんと仲が良いんですね」

「まあ、薙は俺の孫みたいなもんだからな。オムツしてる頃から面倒みてやってるんだぞ。あいつんとこのバアさん、人遣いが荒くて……」

「ふふ、孫って。信楽先生、そんなお歳じゃないですよね?」

「いや、俺は今年で七十になるぞ」

「えっ」


 わたしは驚いて、信楽先生の顔をまじまじ見つめてしまった。

 髪にはたしかに白髪が多いけれど、顔には皺もほとんどないし、どう見ても三十代か、せいぜい四十代にしか見えない。わたしの伯父よりも歳下に見える。


「吸血鬼って、全然老けないんですね……」

「人間に比べると長命だからなあ。定年後も働かせてもらえるのはありがたいよ」

「先生も、長生きしそうですね」

「ま、病気になる可能性はあるし、個人差はあるけどなあ。薙のバアさんなんかは、あと百年は生きそうだ」

「……それじゃあ、薙くんも?」


 普段の薙くんはほとんど人間と変わらないから、彼が百年も二百年も生きるところは、あまり想像できない。

 わたしの問いに、信楽先生は顎に手を当てて首を傾げた。


「あいつはどうだろうなー。人間の血が濃いから、そこまでじゃないかもな」

「そうなんですね……」


 もう少し薙くんの話を聞きたかったけれど、そろそろ次の授業が始まってしまう。先生とエリーに「ではまた」と頭を下げてから、わたしは足早に生物準備室を後にした。




 四限目の授業が終わって昼休みが始まるなり、わたしは薙くんの姿を確認した。

 隣の席の松永さんが一方的に何かをまくしたてていて、薙くんはうんざりしたように相槌を打っている。「これだから吸血鬼は」みたいな声も漏れ聞こえてきて、あまり友好的な雰囲気には見えなかったけれど、席替えをして以来、薙くんはよく松永さんと話しているみたいだ。

 わたしが見つめているのに気づいたのか、薙くんがこちらを向く。ちょっと困ったように眉を下げて、口パクで「助けて」と言うのがわかった。頼られたことが嬉しくて、わたしは勢いよく立ち上がると彼の元へと向かう。


「薙くん、お昼ごはん食べにいきましょう」

「……うん」


 わたしが声をかけると、薙くんはホッとした表情を浮かべた。松永さんはまだ文句を言い足りないのか不満げだったけれど、わたしが「薙くん、お借りしますね」と笑いかけると、すぐに口を噤んで引き下がってくれた。

 わたしはそのまま薙くんの手を引いて教室を出る。しばらく歩いたところで、彼が溜息混じりに言った。


「……ありがとう、助かった」

「お安い御用です。薙くん、最近松永さんとよくお話してますね」


 口に出した瞬間、その言葉に自分でもわからないぐらいの微量な棘が含まれていることに気がついた。

 ――わたし、薙くんが松永さんとお話しすることを、面白くないと思ってる。

 そういえば、薙くんが幼馴染のことを「静奈」と呼んでいたときも、似たような気持ちになった。


「松永、おれが一番ヶ瀬さんに変なことしないかって心配してるんだよ」

「〝一番ヶ瀬さん〟?」


 訊き返したわたしに、薙くんは「あー」と言って視線を泳がせる。頰を染めて、咳払いをひとつした。


「ひ、陽毬、に……」


 きちんと言い直してくれた薙くんに、わたしは満足して頷いた。

 名前を呼びたいと言ったのは薙くんの方なのに、どうやらまだ慣れないみたいだ。彼が慣れるまで、たくさん呼んでもらわないと。


 二人で廊下を歩いていると、向こうから如月くんがやって来るのが見えた。彼の隣には、きれいな女の子がべったりとくっついている。

 彼もこちらに気付いたのか、「よっ」と軽く手をあげて挨拶をしてくれた。


「げ、零児……」

「こんにちは、如月くん」

「陽毬ちゃん、ナギと昼メシ食いにいくのー?」


 如月くんは愛想良くわたしに話しかけてきた。彼の手がわたしの肩にぽんと置かれたのを見て、隣にいる女の子がすごい目つきでわたしを睨んでくる。わたしが口出しすることじゃないけれど、恋人の前で他の女の子にそういう風に接するのは、あんまり良くないと思う。


「例の件、また気が変わったら教えてね」


 しかし如月くんは彼女の様子を気にした様子もなく、わたしの耳元でそう囁いた。薙くん以外の男の子にベタベタされるのは、なんとも言えない嫌悪感がある。

 わたしがきっぱり「気は変わりません」と答えると、薙くんがわたしを如月くんから引き剥がした。


「零児。しつこいぞ」

「ナギ、みみっちいなー。陽毬ちゃん、じゃあまた」


 血を飲ませる件に関してはきちんとお断りしたはずなのに、意外と諦めの悪い人だ。今となっては素敵な彼女もいるようだし、わたしに固執する必要もないと思うのだけれど。やっぱり処女じゃないとダメなんだろうか。

 しかし、わたしはどれだけ如月くんに求められたとしても、彼に血を与えるつもりはなかった。

 誰かからのお願いごとを断るのは、ずいぶん久しぶりのことだった。もしかすると薙くんに出会う前のわたしだったら、喜んで頷いていたかもしれない。


 ――おれ以外の奴に、血飲ませないで。


 わたしに縋る薙くんの姿を思い出すだけで、わたしはうっとりしてしまう。

 あんな風に必死で求められることほど、幸せなことがあるだろうか。大袈裟ではなく、わたしの血液は薙くんに捧げるためにあるのだと、そんなことを考えた。

 如月くんの姿が見えなくなった後も、薙くんは不機嫌そうに唇を尖らせていた。「あいつ、まだ諦めてないのか……」と呻くように呟く。


「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」

「別に、一番ヶ瀬さ……陽毬、を疑ってるわけじゃないけど」

「わたし、これからもずっと薙くんだけのものだって言いましたよね?」

「そ、そういうことあんまり平気で言わない方がいいよ……」

「他の誰にもあげません。約束します」


 小指を差し出すと、彼もおずおずと小指を絡めてくれた。繋いだ指を軽く振って、「嘘ついたらニンニク食わす」と小さな声で言う。わたしは思わず吹き出した。


「なんですか、それ」

「……おれの地元ではこれだった」

「ニンニク食べても、わたしにダメージないですよ」

「でも、陽毬に針飲ませるのは嫌だよ」


 なんてことのないように言った声に、隠しきれない優しさが滲んでいる。わたしはなんだか薙くんの顔がまっすぐ見られなくて、さりげなく視線を逸らした。




 暗室に入るなり、巨大な蛾が飛んでいるのが見えた。ぱたぱたという微かな羽音に、薙くんは「ひっ」と悲鳴を上げる。わたしは薙くんを守るように、蛾の前に立ちはだかった。


「薙くん、虫苦手なんですよね? わたしにお任せください!」


 わたしは持っていたティッシュで素早く蛾を捕らえると、窓を開けて外に逃してあげた。ごめんなさい、あなたに恨みはありませんが、薙くんの心の平穏のために出て行っていただきます。

 わたしが振り向いて「もう大丈夫ですよ」と言うと、薙くんはやや拗ねたように唇を尖らせた。


「……一番ヶ瀬さん、なんでおれが虫苦手って知ってるの」

「信楽先生から聞きました。エリーの餌やりも嫌がってたって」

「ほんっと、余計なことしか言わない……」


 薙くんが忌々しそうに舌打ちをした。幼少期のエピソードもたくさん聞いてしまったことは、黙っておこう。

 わたしと薙くんは並んで座ると、いつものようにお昼ごはんを広げて食べ始める。薙くんが口を開けてパンを齧ると、小さな牙が覗いて可愛い。あんなに可愛い牙に、皮膚を食いちぎる凶暴性が隠れているなんて嘘みたいだ。吸血鬼って不思議。


「そういえば今日、信楽先生の年齢聞いてびっくりしました。ほんとにお若く見えますね」

「まあ、おれがガキの頃からあんまり年とってないからなあ」

「薙くんのおばあさまは、おいくつなんですか?」

「二百歳ぐらいだよ。ひいひいじいちゃんは人間だから、とっくの昔に死んじゃったけど」

「……寿命が違うって、大変ですね」

「バアちゃんの子どももバアちゃんより先に死んだりしてるしな……下手したらおれも、バアちゃんより早死にしそう」


 薙くんはさらりと言ったけれど、わたしは薙くんのおばあさまの気持ちを想像してみた。

 ……薙くんのおばあさまは、一体どんな気持ちで、大切な家族の死を見送ってきたのだろうか。

 わたしが想いを馳せるのは、いつだって置いていかれる人間のことだ。

 何も言わずに出て行ってしまった後ろ姿。どれだけ待ち焦がれても永遠に開かない扉。一人きりで聞いた雨の音。余計なことまで思い出して、わたしはぐっと拳を握りしめた。


「……おばあさま、寂しいでしょうね」

「……どうかした?」


 わたしの言葉に、薙くんが不思議そうにわたしの顔を覗き込んだ。大丈夫ですよと答えようとしたのに、なんだか上手く笑えない。


「……置いていかれる方が、つらいですよね」


 自分の口からこぼれた声は、思いのほか暗かった。俯いて緩く下唇を噛んでいると、薙くんがわたしの頭にぽんと手を置いた。驚いて顔を上げると、たどたどしく続ける。


「えっと、おれ、バアちゃんほどじゃないと思うけど……吸血鬼だから、たぶん、陽毬よりは長生きするよ」

「え?」

「だから、おれは陽毬のこと置いていったりしない」


 ……薙くんにとっては、深い意味のない発言だったのかもしれない。それでもその言葉は、わたしの胸の奥の一番柔らかな場所をそっと包み込んでくれた。

 薙くんに優しくされると、苦しくなる。一方的に与えるだけの関係の方が、求められるだけの関係の方が、楽だから。わたしはこれ以上、薙くんに何も望みたくない、のに。

 お願いだから、どこにも行かないで。わたしを置いて行かないで。あの日置き去りにされた小さなわたしが、心の中でずっとそう叫んでいる。


「……じゃあ、約束、してください」


 ゆっくりと差し出した小指に、彼の小指が絡む。ゆびきりげんまん、という彼の声を聞きながら、わたしの胸はまるで針を飲み込んだように痛んだ。

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