7:あなたの目に映るわたし

 どんよりとした薄雲に覆われた、五月の早朝。わたしの一日は、アパートのゴミ捨て場を掃除するところから始まった。


 無惨にもカラスに食い散らかされたゴミ袋を見て、わたしは腕組みをした。本当は朝六時以降じゃないとゴミを捨てちゃいけないはずなのに、たぶん夜のうちから捨てている住人がいるのだろう。ああ、嘆かわしいことだ。お仕事の都合とか、いろいろと事情があるのかもしれないけれど。

 わたしは箒とチリトリで散らばったゴミを片付けて、ついでにアパートの前の通りも簡単に掃除をして、カラス避けのネットをしっかりとかけ直した。

 そのとき、塀の向こうからひらりと姿を現した黒猫が、トコトコと歩いてきた。金色の瞳で、じっとこちらを見つめている。「にゃあ」と鳴き真似をしてみると、ツンとそっぽを向いてどこかに行ってしまった。

 わたしは結構動物が好きなのだけれど、どうも動物からは嫌われがちだ。動物は人間の本質を見抜くというし、もしかするとわたしの中にある歪みに気付かれているのかもしれない。

 いくらいい子の皮をかぶったところで、本当のわたしは――。


「あらあら、陽毬ちゃん! もしかして片付けてくれたの?」


 箒を手にやってきたのは、アパートの大家さんだった。部屋着であろうくたびれたTシャツとゆるいズボン姿で、すっぴんを隠すためかマスクをつけている。わたしは「おはようございます」と笑って頭を下げた。


「おはよう。最近、夜中にゴミ出しする人が多いのよ。困るわあ、ほんと。ルールは守ってもらわないと」

「そうですよね……わたしも気をつけます」

「陽毬ちゃんは、いつもきちんとしてくれるからありがたいわあ! お掃除までさせちゃって、ごめんなさいね。本当に助かるわ」


 ニコニコ笑顔でお礼を言われて、わたしの心の空っぽだった部分に、ほんの少し温かいものが注ぎ込まれるような感覚がする。こんなことで喜んでもらえるならいくらでもやります、という気持ちになる。


「いえ、わたしでよければ! またお手伝いさせてください」

「ありがとう。陽毬ちゃんも女の子の一人暮らしで大変だろうけど、何か困ったことがあったらいつでも言って。ごはんとか、いつでも食べに来てくれていいんだからね」

「はい、ありがとうございます」


 大家さんの言葉に明るくそう答えたけれど、実際のところ、そこまでご迷惑をかけられないな、と思っていた。

 アパートの近隣に住んでいる大家さんは、娘さん夫婦と同居している。お孫さんはまだ小さいし、そんなところに他人のわたしがおいそれとお邪魔するわけにもいかない。

 大家さんと数分世間話をして、自室に戻ってくると、途端に虚しさが押し寄せてきた。さっき満たされたと思っていた部分が、あっというまに空っぽになる。あんなに感謝してもらえて嬉しかったのに、どうしてだろう。

 ――やっぱりわたしの心を満たしてくれるのは、薙くんだけだ。

 薙くんに早く会いたい。今日もわたしのことを欲しがってほしい。

 逸る気持ちを押さえつけながら、わたしは制服に着替えて身支度を整え、ローファーを履いて足早にアパートを飛び出した。




 水曜の三限は選択科目である美術だ。今日は人物画のデッサンの授業で、「クラスメイトとペアになってお互いの顔を描いてみましょう」というお題だった。

 ペアを作るように指示が出てすぐ、わたしは後方に座っている薙くんに視線をやった。いつも眠そうな彼は、積極的に誰かに声をかけることもせず、ぼうっと虚空を見つめている。わたしは立ち上がると、一目散に彼の元へと駆け寄った。


「薙くん、一緒にやりましょう」

「ええ……?」


 わたしの誘いに、彼はちょっと迷惑そうに瞬きをした。とはいえ友人らしい友人がいない彼には、わたしと組む以外の選択肢はない。わたしが隣に座ると、渋々こちらに身体を向けてくれた。

 スケッチブックを開いて、鉛筆を手に薙くんの顔を観察する。こうして見ると、やっぱり整った顔立ちをしている。

 吸血直後は真っ赤に輝いている目の色は、今は落ち着いた茶色だ。ちょっと不機嫌そうな、他人を寄せつけないような顔つきは、今朝見た黒猫にちょっと似ている。唇が「へ」の字に曲がっているところが、なんだか可愛い。

 さらさらと手を動かすわたしとは対照的に、彼はかなり苦心しているようだった。さっきから苦悶の表情を浮かべながら、少し書いては消し、書いては消しを繰り返している。


 四十分経ったところで、先生の「はい、じゃあお互いに描いた絵を見せ合ってください」という声が響いた。

 完成したデッサンをしげしげと眺める。うん、なかなか上手に描けた。満足して手を止めたわたしは、スケッチブックを薙くんに見せる。


「どうですか? なかなか自信作です」


 お気に召していただけると思ったのだけれど、薙くんは不服そうに眉根を寄せた。首を傾げながら、わたしの描いたデッサン画を指差す。


「……これ、おれ?」

「はい!」

「なんか、美化しすぎじゃない?」


 薙くんの指摘に、わたしはまじまじと実物と見比べてみる。眠そうな表情も、涼しげでシャープな目元も、薄い唇から覗く大きな八重歯も、吸血鬼らしく少し尖った耳も、かなり忠実に描けていると思う。


「そうですか? こんな感じだと思うんですが……」

「おれ、こんなにかっこよくないよ」

「そんなことないですよ。薙くん、とってもかっこいいと思います」

「……えっ」


 素直に感想を告げると、薙くんは真っ赤になって俯いてしまった。下を向いたまま「へ、あ、ありがとう……」とへどもどお礼を言う。もしかすると薙くんは、ものすごくピュアな男の子なのかもしれない。


「ね、わたしにも見せてください」


 ぐいと身を乗り出すと、薙くんは気まずそうにスケッチブックを隠した。「いや、ちょっと……失敗したから……」と口ごもる彼の背後に回り込んで、後ろから覗き込む。

 スケッチブックには、制服を着たポニーテールの女の子の絵が描かれていた。なんだかやけに目が大きくて、口を開けて明るく笑っている。

 わたしがじっと観察していると、薙くんはがっくりと項垂れた。


「……ご、ごめん。おれ、絵下手で……」

「そうですか? 上手に描けてますよ」

「いや、違う! 一番ヶ瀬さんはもっとかわ……」

「かわ?」

「……と、とにかく。おれ芸術系全然だめなんだよ。歌も字も下手だから、一番マシな美術にしたんだけど……」


 薙くんは申し訳なさそうにしていたけれど、わたしは薙くんの絵をかなり気に入っていた。

 たしかに客観的に見て、デッサンの技術が高いわけではないのだろうけど、彼の描いたわたしはなんだか楽しそうで幸せそうだった。こんな明るくて天真爛漫ないい子に、わたしはきっとなりたかった。


「薙くんの目に映るわたしって、こんな感じなんですか?」

「いや、だからもっとかわ……」

「……そうだったら、いいなあ」


 わたしはスマートフォンを取り出すとカメラを立ち上げて、スケッチブックに向けてシャッターを押す。ディスプレイの向こう側にいるわたしの顔は、ニコニコと満面の笑みを浮かべていた。


「せっかくなので、これSNSのアイコンにしますね」


 そう言ってスマホを振ってみると、薙くんは「それだけはやめて」と慌てた声をあげた。

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