【Ⅲ】7

 本を取りに来たのに、選ぶ気力も無くなり、僕は倒れ込むようにリビングの古いソファに身を沈めた。埃臭いしカビ臭い。


 さっき窓を開けたから、凍り付くような寒風が吹き込んでくる。


 ダリルもよく、こうしてこのソファに身を沈めて、巻き煙草を吸っていた。煙と倦怠を纏って、絶望を纏って、死んだ魚のような目で中空を見詰めていた。


 なんとなく、ダリルの絶望が理解できて身震いした。良い教育を受ける機会を与えられず、低い学位ではろくな仕事に就けず、見下されて、差別されて、希望も、尊厳も、何も無い人生。ああ、絶望だ。これが絶望だ――


 僕もダリルと同じ、ツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)を妬み憎むだけのクズだ。


 テーブルの端には出来の悪い巻き煙草が置かれていた。そのジョイントだかハーブだかを手に取って、口に咥えてみた。意外と唇に馴染む。


 あの頃は、汚らわしいダリルがふかしているドラッグの煙なんか吸いたくなかったから、奴がジョイントをやり始めたら、すぐにフラットを出てリバー・リーの中洲に避難していた。だから僕は、ドラッグの酩酊感を知らなかった。


 深い考えはなかった。ただ、なんとなく、火を着けてみた。手を伸ばせばすぐそこに銀色のライターがあったから。


 立ち昇り始めた臭いでジョイントだと分かった。


 煙を吸い込む。浅く。煙草も吸ったことが無かったから最初はむせた。息苦しい。クラクラする。変な感じだ。もう一度、さっきよりは深く吸い込む。深呼吸をするように。なかなか吸い込めないけど、肺の浅い部分には入れられたかな、と思う。何度か煙を吸って吐くのを繰り返した。


 最初は何も起こらなかった。


 だけど、ほんの数分で、フワフワとした軽い感覚が訪れた。体が軽い。自分が浮いているとか、飛んでいるとか、そんな感じとは違う。ただ、軽い。フワフワする。ついさっきまで地獄の底まで落ちたような憂鬱な気分だったのに、なんとなく心が軽くなった。


 立ち上がって歩いてみる。


 笑えることに、床がクッションみたいにフワフワのブヨブヨになっていた。


 でも、ただ、それだけのことだ。


 別に、幻覚が見えるとか、ものすごい快感が押し寄せて来るとか、そんなことはない。


 スーッと気分が落ち着いて、透き通っていって、明るくなっていった。


 笑える。笑える。笑える。気が楽だ。


 すごく、気が楽だ。


 ああ、ママがこれを吸う理由が理解出来たよ。


 僕はジョイントの酔いが抜けるまで、小一時間をママのフラットで過ごし、それから読みたい本を数冊選び、本と、リビングに置かれていた巻き煙草と、銀色のライターを、持参したトートに入れて自分のフラットに持ち帰った。


 中毒患者になっているママからドラッグを取り上げた――なんて美談じゃない。僕はドラッグを気に入ったんだ。


 僕はどうしようもない気分になっていた。ラティファは僕を惨めにする。トモは一緒に居てくれない。ママはダリルを庇って僕を淫売呼ばわりだ。どうしたらいい?


 誰も救ってくれないなら、気を楽にしてくれないなら、この絶望的な憂鬱から解放してくれないなら、もう、ドラッグでもやるしかないよ。


 ヘイ、ブラザートモ、ジョイント連帯しようぜ。


 僕は心の中で叫んだ。


 Please joint with me, Tomo, and be with me for ever.


 それがダメなら、僕のことは見捨ててくれ。


 ドラッグを買うのは簡単だった。だって、ここはイーストエンドで、移民ゲットーだからね。


「ごみを捨てるな(Don't throw trash here)」と書いてあるべき場所に「道路を壊すな(Don't trash the street)」と書いてある路地で、普通に、気さくな奴が売ってくれる。アフリカ系の大柄な男が影のような危うさで手招きし、「お兄さん、ウィードあるよ」とフランス訛りで声をかけてくる。彼はフレンチの元ナイジェリア人だ。他にも様々な人種の売人がいる。ただし東洋系は珍しい。こんな場所にも人種差別と縄張りがあって、新参の中国人シノワは嫌われ排斥されている。


 僕はトモに気付かれないよう、彼の帰宅が遅い日を狙って、寝室でこっそりジョイントを吸った。窓を開けて、なるべく臭いが残らないように気を付けていたけど、そもそもジョイントの臭いを知らないトモには気付かれるわけがなかった。


 三月、エミとマコトが帰国する日が近付いた。


 お別れパーティーをして、日本の連絡先を残して、少ない荷物を全部持って、エミとマコトは出て行った。良い人達だった。優しくて、穏やかで、典型的な日本人だった。


 代わりに入居してきたのは、二人ともアラブ系移民の二世で、どこなく険のある雰囲気の、髭を生やした気むずかしいムスリムの男だった。細身で背の高いラシードと、がっしりした中背のハシム。二十八歳と、二十七歳。彼らはいつも、古くなって裾や袖の端が擦り切れたアラブ風の白いシャツを着ていた。


 しかも、イマーム・カーディルの弟子だということだった。


 二人がオックスフォードを卒業した超の付くエリートだという話と、それでいながら学内で希望するポジションに就けず腐っているという事情はトモから聞いた。


 新しい同居人との親睦を深めるため、トモがピザとビールを用意してホームパーティーを開いてくれた。せっかくの食事なのに、彼らは呪詛のように恨み言を吐き続けた。陰気で嫌なムードだったので詳細は覚えていない。ムスリムのくせに彼らはビールを大量に飲んだ。酔って目を血走らせぼそぼそと喋る姿は、いつだったかテレビニュースで見た、病み衰えたヤギに似ていた。彼らは自分の魂が死につつあることを知っているのだ。


「ライバルだったアングロサクソンの学生より自分のほうが優秀だったのに、アラブ系への偏見で出世コースから外された」


「直接そう言われたわけではないが、教授の態度で察しがついた」


「努力して良い成績を取っても、アラブ系は排斥される」


「将来に希望がない」


 うんざりする内容だったけれど、トモは辛抱強く相槌を打ち、感じ良くビールを勧めたりして、食事の雰囲気を良くしようとしていた。


 僕はというと、ラシードとハシムの人間性には嫌悪感を抱きながら、彼らの話には痛いほど共感していた。アラブ系が差別されているというのは事実だ。僕も常々感じていたことだ。僕達アラブ系移民の係累はイギリスの階級社会から無言で排斥されている。


 まあ、感じの悪い二人だけれど、ラシードとハシムは、不条理なイギリス社会の犠牲者だ。古くからの階級社会には排他主義と移民差別が蔓延している。この国は才能ある若者をスポイルして恥じないのだ。


 親しくなれたという実感は無いまま、白けたホームパーティーはお開きになった。ストレスが溜まってどうしようもなかったので、深夜、こっそりフラットを抜け出してジョイントを買いに行った。いつものナイジェリア系フレンチの売人に軽く挨拶をして、二本受け取って代金を支払う。人通りの無い道を歩きながら火を着ける。肺に煙を入れると慣れた淡い酩酊感が来る。苛立ちが跡形もなく消えて行ってほっとする。溜息を付く。


 嫌になるよ。こうする以外に、僕は発散の手段が無い。


 その後も、ラシードとハシムは無愛想で、あまり僕とは話さなかった。トモのことも見下しているような態度で、僕のことはトモの付録くらいに思っているフシがあった。髭も生やしていない異教徒の若造と親しくする気は無い、ということだろうか。イスラムでは禁忌ハラームであるはずの飲酒をしていたくせに……


 ちなみに、マスードは決して酒類は口にしない。エミとマコトが居た頃のようなホームパーティーは無くなり、フラットのリビングはどこかピリピリした雰囲気で居心地が悪くなった。ラシードとハシムはたいてい二人セットで、トモも交えてイマーム・カーディルのところへ行くか、そうでなければ、いつもリビングで政治とアラーの話をしていた。


 僕は、そのムードを避けてラティファのスタジオに入り浸るようになり、お陰で彼女との関係は蜜月と言ってもいいくらい深く濃厚になった。


 この時期の僕は、ぼんやりと何も考えず、昼間はゾンビのようにゴミ回収の仕事をこなし、夜はラティファとのセックスか、簡単に買える大麻ウィードに溺れていた。トモはトモで過激なイスラムに浸っていた。お互いを避けていたわけではないにせよ、なんとなく、僕とトモはすれ違いの生活になっていた。寂しかった。


 もっと、トモと一緒にいたかった。


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