【Ⅲ】6

「イマーム・カーディルは良い人だよ。彼は真剣に、アラブだけでなく、すべてのムスリムの事を考えている」


「でも、トモは日本人で、アラブでもムスリムでもないだろ?」


 ううむ、とトモは微妙な顔をする。少し考えてから、いつものようにつらつらと理屈を並べ始めた。


「アミン、君は同朋がどう虐げられているか知っているかい? 強者の立場から伝えられるニュースだけを鵜呑みにしていないか? 911や7月7日の同時多発テロがなぜ起きたのか、アフガニスタンやイラクで何があったのか、そしてアラブ世界で何が起きつつあるのか、君は真剣に考えたことがあるか?」


「トモ? 何言ってるのさ?」


 日本人のトモがアラブの話をこんな熱心にするなんて、おかしい。だけど、本当におかしかったのは僕かも知れない。タオルヘッドアラブ野郎と揶揄されながら、自分がアラブだという意識は無く、血のルーツを考えたことも無かった。移民への差別を肌で感じ、学習や就業の機会が均等に与えられない社会と人生に倦んでいても、アラブという民族に思考が向かうことは無かった。僕はただツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)を妬んでいるだけの子供だった。


「イマーム・カーディルは弱い立場の人々の視線で世界を見ることを教えてくれる。良い人だよ」


 そう言ったトモの眼差しは遠い空を見ているようだった。


 イマーム・カーディル……


 僕は、その時、初めて彼の名を意識した。熱い砂の気配がする。


 クリスマスから年明けまでの一週間、エミとマコトはアルバイト先の日系人オーナーに招待されてソールズベリの別荘に行ってしまった。ソールズベリはストーンヘンジがある土地だ。住んでいる人は「何も無い田舎だ」と言うけど、豊かな自然が広がっていて、古代の遺跡まであるなら、かなり良いんじゃない、と僕は思う。


 ニューイヤーズイブとニューイヤーズデーの二日間、久しぶりにトモとべったり過ごして、僕はやっと気分が落ち着いた。


 トモには気を張らずに甘えられる。弱い子供だった時から僕を知っていてくれる唯一の人だからだ。朝寝坊して、のんびり過ごして、特別なことは何もしなかった。ただ、リビングでチップスとコールドミートとフィッシュパイを食べて、レンタルした映画ソフトを見て、ステラビールを飲んで、奮発したカヴァを空けた。


 映画の途中でトモに寄り掛かって寝てしまい、慌てて謝ったら、


「アミン、君はまだ十六歳なんだよ」


 と、トモは真顔で場違いなことを言った。


「子供でいてもいいんだ。日本でなら、僕だってまだ半人前の子供扱いだよ。眠いなら素直に眠っていいんだ。寄り掛かっていい。そのまま寝ちゃいな」


 トモに言われるがまま、ひざ掛け用のブランケットにくるまって、自分より小さいトモに寄り掛かって半覚醒の状態で、僕は見るともなしにテレビ画面を見ていた。


 トモが観ていた映画の主人公は、僕ら移民二世や三世と同じような境遇のアイルランドの青年で、社会的に抑圧されていて、ろくな仕事がなくて、挙句にスパイになって、爆弾テロに関わるIRAのテロ組織に潜入して、成り行きで爆弾テロに関わっていた。罪の無い市民を犠牲にすることを忌諱しながらも、状況に絡めとられて犠牲を出す作戦に従事する……個人の良心なんかじゃどうにもならない悲惨な状況が描かれていた。


 テロリストも人間なんだ――


 二〇〇五年七月七日、ロンドン同時爆破テロの、タビストック・スクエアでデッカーバスが爆発した事件を思い出す。あの犯人は十九歳だった。


 十九歳――


 二十三歳のトモが子供扱いされる日本では、まだ子供ってことになるんだろうか。


 でも、死んだ。彼は大勢の人を巻き込んで自爆した。


 バスを吹き飛ばしたら世界が変わるとでも思っていたんだろうか。何をぶっ壊したら世界は変わるんだ? 僕はダリルをやっつけて、ママの人生をぶっ壊して――元々ブッ頃れていたけどね――でも、世界は変わらなかった。相変わらず僕は底辺にいて、グズグズしていて、夢も希望もなく、時々ラティファとセックスして、ただ無気力に生きている。


 ああ、なんだか、たまらないな、とまた涙が出た。泣いているのがトモにバレて、どのシーンがハマッたの、と訊かれたけど、答えられなかった。


 二日間の子守りの後、トモはイマーム・カーディルのところへ行った。何か仕事があるとか言っていた。YouTubeにアップする映像を作っている、とかなんとか。トモの物言いは、なんとなくキナ臭い感じがした。作っている映像は、最近流行りのヤバイ思想を垂れ流すプロパガンダムービーなんじゃないか? もしそうなら、対テロ法に引っ掛かって逮捕される。そもそも、イマーム・カーディルは怪しい。指定組織に関係のあるテロリストなんじゃないか? だとしたら、彼に協力するだけで対テロ法に引っ掛かる。とにかくヤバイ。トモはヤバイ事に首を突っ込んでいる気がする。


 強い疑念が湧いたけど、僕にはトモを引き留めることは出来なかった。証拠が無い。それに、アラブ系だというだけで何度か警官から厭味な職務質問を受けて憤慨している僕が、同じ疑いをトモに向けるなんてしたくなかった。


 時間と気持ちを持て余して、僕はママのフラットに向かった。残りの休暇中に読む本を取って来よう、と。少しだけ、ママの様子も気になっていたし……


 僕がトモと借りたフラットとママのフラットは歩いて五分も離れていない。通りを二つ隔てただけなのに、会いたくないと思えばこんなにも会わずに過ごせてしまう。家族なのに、血の繋がった母子なのに、こんなものなのかな。これじゃ、いてもいなくても同じじゃないか……


 白い息を吐きながら相変わらずの曇天の街をママのフラットまで歩きながら、そんなことを思った。馴染んだ通りに到着し、自分で鍵を開けてフロントドアの中に入ると、埃臭い濁った空気が籠っていた。リビングは食料品のパッケージやビールの空き缶が散乱していて滅茶苦茶だった。食べ残しの冷凍パイにはカビが生えている。


「ママ、いないの?」


 1LDKの狭いフラットだ。ママはすぐに見つかった。暖房も利いていない寝室で、ぐったりと眠り込んでいた。


「ママ、ママ、大丈夫?」


「ふぅ……う……」


 近付いて呼び掛けても反応が薄い。ただ、あうう、とか、おおぅ、とだらしない呻き声を漏らす。


「どうして、こんな……」


 ママはドラッグで酩酊状態になっていた。黒いレース織りのショーツ一枚でベッドに蹲り、よだれを垂らしている。薄い布団と毛布に包まってはいたけれど、寒さに震えていて、目は焦点が合っていない。マズイ感じだった。服を着せる為に無理に抱き起そうとしたら腕を振り回して殴られた。


「触るなっ!」


 ママは気が狂った犬のように目を血走らせて僕を罵り始めた。


「おまえ、よくもダリルを売ったね。薄汚いホモ野郎。ダリルは良い人だったんだ。男の子なんかをレイプするわけがない。おまえが誘ったんだろう。ダリルは変態じゃない。おまえが男とセックスしたがる変態なんだ。そうだろう、厭らしいガキだよ。この糞ったれの裏切り者っ!」


 ママの投げたスチールのマグカップが壁に当たって跳ね返った。


 僕は、言葉もなく立ち尽くしていた。


 お前が誘った――糞ったれの裏切り者。


 それが、ママの本音だったのだ。長い間、心の底に沈めてあったのか。ダリルが逮捕された当初こそ、そうチクチクと言われることはあったけれど、こんなに激しく罵られたのは初めてだ。この期に及んでまでも、ママはダリルを信じていて、僕を嘘つきの裏切り者の変態ホモ野郎だと思っていたのだ。


「ママは頭がおかしいよ……」


「うるさい、この淫売っ!」


 聞くに堪えない暴言はオーブンでチキンパイが焼き上がる程の時間、延々と続いた。


「ダリルは刑務所、息子は淫売の嘘つき野郎だ。どうして、あたしの人生はこんなに惨めなのよ。もう疲れた、もう嫌だ、もう死にたい、いっそ殺してよっ!」


 喚くだけ喚いたら、ママはふらふらと立ち上がり、唐突に嘔吐した。吐瀉物特有の饐えた臭いが狭い部屋に充満する。慌ててママに駆け寄り、肩を支えてベッドに連れ戻す。それから、窓を開け、トイレットペーパーと新聞紙を持って来て床を掃除した。ママが好きだった敷き物にも吐いた物の汚れが染み着き、これは捨てなきゃいけないな、と溜息が出た。あんなに気に入って大切にしていたのに、何か思い出があったのだろうに……


 ママは最低だ。今の自分が悲しくないのだろうか。


「ママ、ダリルは変態野郎だよ。悪いのは僕じゃない。あいつがクズなんだ……」


「嘘付くんじゃないよ。変態野郎はおまえだろうっ!」


 たまらないな、とまた思った。


 こんなこと、たまらない。本当にたまらないよ……


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