act.45 別離

 聖人は大学院を卒業した。

 県外で就職した。

 だから。

 おれとは離れ離れになった。

 元々。

 おれが就職した時点で。

 離れ離れだったけど。

 人のことは言えないけど。

 けど。

 胸にぽっかりと穴が空いたような。

 頭の奥がすうっと冷えてゆくような。

 何だか。

 裏切られたような。

 納得いかないような。

 心地。


「卒業おめでとう」

 聖人の家で夕飯を食べた。

「ありがと」

 こうして食べるのは久しぶりだった。

 就職してから。

 学生気分が抜けて。

 何となく。

 何となくだけど。

 聖人の両親と顔を合わせづらくなった。

 向こうはいつもどおり笑っているけど。

 けど。

 その奥の真意に触れそうになるから。

 将来のことに触れられそうになるから。

 だから。

 おれは。

「いつ引っ越すの?」

「二十七日」

 カレンダーを見た。

 あと二週間。

「部屋は決まったんだっけ?」

「うん」

 聖人の母親は嬉しそうに笑っていた。

 聖人の隣におれがいるからだろうか。

 聖人がおれから離れられるからだろう。

 考え過ぎだろうか。

「家電は買ったから、あとは」

 聖人の父親はビールを飲みながら。

 赤ら顔で指で何かを数えていた。

細々こまごましたものか」

 いつにも増して饒舌じょうぜつだった。

 いつもは寡黙なのに。

 聖人の就職が。

 独り立ちが。

 嬉しくて。

 寂しいんだろう。

「それは自分で買うでしょ?」

「うん」

 母親も。

 笑う顔の奥で。

 目が潤んでいるように見えた。

 ああ。

 聖人は愛されている。

 一時はぎくしゃくとしていたけど。

 もう。

 福井家は立ち直っている。

 元に戻っている。

 聖人が。

 隣で笑っているから。

 おれたちにだけわかるような。

 感情の機微。

「聖人はもう二十四か」

 感慨深そうに父親が漏らす。

「年を取るわけだな」

 そして。

「そろそろ」

 その言葉が。

「将来のことを」

 おれの耳を貫いて。

「考える時だな」

 聖人の身体を硬直させて。

 母親の視線を釘付けにして。

 食卓を凍らせた。

「まだ」

 母親は。

 自然に取り繕って。

「気が早いんじゃない?」

 聖人に目配せして。

「これから働き始めるんだから」

「それもそうか」

 父親は愉快そうに笑って。

 母親は安堵しながらこちらを一瞥して。

 聖人は箸を止めずに適当に相槌を打って。

 おれは。

 おれだけは。

 止まってしまった。


「紋太」

 返り際。

 聖人に呼び止められた。

 春の夜風が薄着を貫通する。

「気にしなくていいよ」

「え?」

「親の言ったことこと」

 聖人には。

 おれの感情なんてお見通しなんだろう。

 おれの動揺なんて。

 筒抜けなんだろう。

「気にしてないよ」

「そう」

「将来のことなんて」

 だったら。

「まだ」

 どうして。

「考えてないもんな」

 おれの希望に沿わないんだろう。

 なんて。

 思ってしまって。

 奥歯を噛み締めて。

 気付かれないように。

 背中を向けて。

 風に当たるフリをして。

 白い息を吐いて。

「気にしなくていいよ」

「ん?」

 振り返ると。

 聖人は無表情で。

 おれの顔を見つめていた。

「俺のこと」

「え?」

「紋太は」

 淡々と。

「普通だからさ」

 そんな。

 残酷なことを。

「好きにしたほうがいいよ」

 口にするなんて思わなくて。

 おれは。

「え?」

 呆然として。

 一瞬理解できなくて。

 けど。

 すぐに理解して。

 苛々して。

 悔しくなって。

 聖人との距離を詰めた。

「何それ?」

 聖人は動じなかった。

 一ミリも後退りしなかった。

「普通って何?」

 ショックだった。

 聖人は。

 おれが放った言葉を気にしていた。

「おれは」

 きっと。

 地元で就職すれば。

 おれと同棲することになると思っていたんだろう。

 それを避けたかったんだろう。

 おれを。

 解放したかったんだろう。

 今まで。

 うまくいかないことなんて。

 何一つとしてなかったのに。

 なのに。

 いや。

 だからこそ。

 おれを遠ざけた。

 この先に待っているのは。

 きっと。

 挫折だから。

 おれたちは。

 一緒になれない。

 おれが。

 気にしてしまったから。

 将来のことを危惧してしまったから。

 世間体を気にしてしまったから。

 いや。

 気にしないなんて無理だ。

 おれは。

 おれたちは。

 もう社会人だから。

 親の庇護下にないから。

 誰も守ってくれないから。

 馬鹿馬鹿しい。

 今までだって。

 守ってくれなかったくせに。

 聖人を殺そうとしたくせに。

 また。

 殺すのか。

 聖人の人生を。

 壊すのか。

 ゆるせなかった。

 けど。

 壊したのはおれだ。

 あのまま。

 同棲なんて切り出さなければ。

 聖人は地元で就職したかもしれない。

 恋人同士のまま。

 ずっといられたかもしれない。

 なあなあが嫌なわけじゃない。

 付き合う前から。

 おれから告白した時から。

 聖人が気にしていたことを。

 その答えを。

 返していなかったことが嫌だったんだ。

 結婚できない。

 子供がつくれない。

 そんなことはわかっていた。

 それでも。

 聖人と一緒にいることを選んだ。

 それが幸せだ、って思った。

 間違いじゃない。

 間違っていない。

 そう思うのに。

 そう思いたいからこそ。

 おれは。

 聖人を。

 枠に収めようとした。

 結局。

 普通を気にしていたんだ。

 普通になろうとしていたんだ。

 おれは。

 覚悟が足りていない。

 聖人への信頼が欠如している。

 聖人のことを。

 愛していない。

 のかもしれない。

 おれは。

 ただ。

 聖人に生きていてほしかっただけ。

 友人に死なれたくなかっただけ。

 なのかもしれない。

 怖い。

 戸惑うおれを。

 聖人は黙って見つめて。

 おれは聖人に顔を近付けて。

 けど。

 聖人は顔を遠ざけて。

 ごまかそうとするおれを。

 黙って咎めた。

「ごめん」

 最近。

 よく謝っている。

 一時の夢を見せた償いか。

 それとも罰か。

「何で謝るの?」

「せっかく心配してくれたのに」

 おれは顔を伏せて。

「おれは」

 地面を睨み付けて。

「自分のことばっかだったから」

 自分を睨み付けて。

 何が正解かわからなくなって。

 このまま。

 いなくなりたいなんて。

 やり直したいだなんて。

 酷いことを考えた。

「そんなの」

 聖人の声。

「俺も同じ」

 優しい声。

「紋太」

 懐かしい声。

「俺」

 冷たい声。

「多分」

 寂しい声。

「紋太と一緒にはいられない」

 おれは驚いて。

 顔を上げた。

「だって」

 聖人は笑った。

 不器用に。

 おれを不安にさせないように。

「やっぱり俺」

 自分は不安そうなくせに。

 眼鏡でそれを。

 隠しているくせに。

「おかしいから」

 聖人は背を向けた。

「じゃあ」

 追いつかれないように足を止めず。

 聖人は。

 玄関を開いた。

「あとで」

 最後に振り返って。

「引っ越し手伝って」

 せめてもの優しさだ。

 辛辣な。

 優しさだ。

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