act.44 誠意

 紋太は。

 何か焦っているようだった。

 ぼんやりすることが増えたし。

 ふと。

 俺を見つめていることが増えた。

「何?」

 そう聞いても。

「ごめん」

 ごまかすように笑うだけ。

 仕事で疲れているのかもしれない。

 そう考えたけど。

 確証はなかった。

 杞憂ならいいけれど。

 けど。

 もし。

 紋太がこの先のことを。

 将来のことを。

 考えて不意に怖くなったのだとしたら。

 俺は。

 俺は。

 俺は。

 身を引くべきなのだろうか。


 半年。

 あっという間に過ぎた。

 学部時代と同じ研究内容だったから。

 日常はそれまで以上に加速して。

 楽しいと感じる時間も。

 辛いと感じる時間も。

 否応なしに流れてゆく。

 今まで積み重ねてきた時間の上に。

 記憶として積み重ねられてゆく。

 思い出として美化されてゆく。

 それはきっと。

 隣に紋太がいるからだ。

 そうでなければ。

 俺の記憶は。

 とっくに風化していたことだろう。


「もしもし」

 不意に電話がかかってきた。

 紋太からだ。

 研究室でのこと。

 午後一時前。

 紋太は昼休み中なのだろう。

「もしもし」

「ごめん、いきなり」

 最近。

 紋太は謝ることが増えた。

 悪いことなんてしていないのに。

 社会人の癖だろうか。

 だとしたら。

 憂鬱になる。

 手元にあった就職活動のパンフレットを見て。

 俺は目を細める。

「どうしたの?」

 椅子にもたれかかりながら。

 パソコンに向かいながら。

 俺は室内を見渡した。

 デスクが並んだ研究室には。

 俺以外に誰もいなかった。

 みんな外食していた。

 今日中に論文が出来上がりそうだったから。

 俺はデスクで昼食をとっていた。

「聖人さ」

 何やら言いづらそうにしていて。

 紋太の背後からは何も喧騒が聞こえなくて。

 大事な話なんだと察した。

「うん」

 気長に待って。

 窓の外を眺めて。

「就活、やってる?」

 予想外の話題に戸惑った。

 デスク上のパンフレットに目をやった。

「そろそろ」

 大学院一年。

 一月。

 就職活動が始まる時期だった。

「地元で探す?」

「そのつもり」

「そっか」

「機械の研究職希望だから」

 モニターに映っていた論文を眺めながら。

「他県も受けるよ」

 今のところの予定を話した。

「そっか」

 紋太の声が沈んでいるのがわかったから。

「どうかした?」

 こちらから切り出した。

 紋太は。

「あのさ」

 気まずそうにして。

「お願いというか」

 悩んだ口調で。

「希望というか」

 けど。

 気持ちは決まっているようで。

「聖人」

 その声は。

 俺と向き合う時のもので。

 俺が。

 格好良いと感じる姿のもので。

「卒業したらさ」

 だから。

「一緒に暮らさない?」

 それを聞いた時。

 イエスとも。

 ノーとも。

 答えられなかった。

「何で?」

 咄嗟に出てきた言葉は。

 逃げを表す言葉で。

「何で、って」

 戸惑う紋太も。

 俺も。

 高校時代から何も変わらなくて。

「おれたち、付き合ってんじゃん」

 幼稚で。

「だから同棲とか」

 不器用で。

「普通じゃないかな、って」

 体裁を取り繕えないほどいびつだった。

「だから」

 紋太が焦っている理由がわかった。

 予想どおりだった。

 将来への不安。

 世間体の心配。

 そして。

「どう?」

 俺への誠意。

「どう、って」

 紋太は。

 引き返す気がないようだった。

 いや。

 退路を自ら塞いだのだ。

 俺のために。

 紋太には。

 選択肢がたくさんあったのに。

 可能性が無限にあったのに。

 俺を選ぶために。

 俺を生かすために。

 全て捨てた。

「そんなの」

 紋太の人生を棒に振ったことが。

 悲しかった。

 なのに。

「まだわからない」

 俺はまだしがみついている。

 諦め切れない。

 捨てられない。

 決められない。

 紋太を失えば。

 俺は。

 全て無くなってしまうから。

「そっか」

 友人はいる。

 家族もいる。

 頼りになる先輩もいる。

 それでも。

「そうだよな」

 紋太は。

 特別だから。

「ごめん、いきなり」

 最初と同じ言葉を繰り返して。

「まだ就活始まってねえもんな」

 申し訳なさそうに。

「ごめん」

 何度も何度も謝った。

「何でもない」

「別に俺は」

 気にしてないよ、と。

 言えないくらいに気にしていた。

「聖人が決めることだよね」

 その言葉は紋太の気持ちを如実に表していて。

「ほんとにごめん」

 その謝罪には心が酷く痛んで。

 俺は。

 何もフォローできなくて。

 無言を貫いて。

「それじゃあ」

「うん、それじゃあ」

 電話を切ってしまった。

 他の学生たちが昼食から戻って来た。

 一時過ぎ。

 二時過ぎ。

 三時過ぎ。

 論文は完成しなかった。

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