act.40 夜天

 大学二年生。

 明日から春季休暇だった。

 部活の予定はあるけど。

 アルバイトのシフトも入っているけど。

 それでも。

 時間はかなり空いていた。

 携帯電話が震えた。

 紋太からの着信だった。

 午後十時。

 眠気はあったけど。

 俺は電話に出た。

「もしもし」

「もしもし」

 紋太の声はいつもより大きかった。

 そう言えば。

 今日は大学の友人らと飲み会だと言っていた。

「とうしたの?」

「んー? 特に用事はねえんだけど」

 紋太の声が反対側の耳からも微かに聞こえた。

 重複する声。

 俺は窓から外を見下ろした。

 薄闇の中にうっすらと人影が見えた。

 俺に気付いて手を振ってきた。

「今行く」

 俺は階段を駆け下りた。


「何?」

 玄関扉を閉めて。

 俺は外に出た。

「散歩行かね?」

 紋太は白い息を吐きながら。

 陽気に笑っていた。

 酒の匂いが漂ってきた。

 俺は目を細めた。

「散歩?」

「そ、ちょっとそこまで」

「どこまで?」

「ぶらりと」

「だから、どこまで?」

「さあ」

「さあ、って」

 千鳥足の紋太を見て。

 俺は溜め息を吐き出した。

「ちょっと待って」

 俺は家の中に戻った。

 二人分上着を持って。

 靴下を履いて。

 靴を履いた。

「出かけるの?」

 父親に見つかった。

 俺はつま先を床に叩きながら振り返った。

「うん」

「紋太?」

「そう」

「ふうん」

 俺が扉に手を掛けると。

「聖人」

 父親は逡巡しつつ口にした。

「気を付けて」

「うん」

 扉を開けると、冷たい夜風が頬を撫でた。


 肩を並べて歩いていると。

 たまに紋太がよろけて。

 肩に頭がぶつかった。

 紋太は「ごめん」と頭を擦って。

 俺の横顔を見上げた。

 その度にドキッとして。

 紋太の方を横目に見て。

 けど。

 紋太はもう、俺の方を見てなくて。

 俺は気にしていないフリをした。

 ずっと。

 そうしてきた。

「あ、月」

 紋太が夜空を仰いだ。

 俺も紋太に倣って夜空を仰いだ。

 雲ひとつない空だった。

 星が煌めく中に満月が浮かんでいた。

「満月」

 紋太は白い息を吐いた。

 その横顔が。

 とても。

「綺麗」

 紋太の口からそんな言葉が出るとは思わなくて。

 俺は妙な勘繰りを入れた。

「告白?」

「何で?」

 紋太が俺を見つめてきた。

 歩く動作に従って。

 少しだけ手が触れた。

「夏目漱石がそう言ってた」

「そうなの?」

「そう」

「へえ」

 紋太はもう一度月を眺めた。


 近くの公園に辿り着いた。

 予想どおりだった。

 むしろ。

 俺がこの場所に誘導した。

「ふう」

 紋太がベンチに座ったから。

 俺もベンチに座った。

 雨宿りができる場所。

 空を仰ごうとしたけど。

 高さのない天井が邪魔をした。

 紋太の向こう側を眺めると。

 遙か遠方に宵闇と月が見えた。

 こうして過ごすのは何度目だろうか。

 あと。

 何度こうしていられるだろうか。

 まだ。

 紋太は酔っているけど。

 けど。

 いつか酔いが醒めたら。

 なんて。

「考え事?」

 紋太が俺の顔を覗き込んだ。

 何の疑いも持っていない、純粋な顔。

 俺は。

 もう。

 この顔を見ることはないんじゃないか、って。

 これで見納めになるんじゃないか、って。

 そんなふうに思った。

 だから。

 紋太の頬に手を添えた。

 きょとんとした表情を浮かべて。

 けど。

「何?」

 紋太は笑った。

 くすぐったそうにしていた。

 嬉しそうだった。

「酔ってる?」

「うん」

「結構?」

「ほろ酔い」

「嘘」

 俺は紋太の頬をつねった。

 とても柔らかかった。

「何かあった?」

 紋太が訊くから。

 俺も訊き返す。

「何で?」

「何で、って」

 手を放すと。

 今度は紋太が俺の頬を掴んだ。

 俺の頬は固かった。

「泣きそうじゃん」

「そう?」

「そう」

 紋太は手を放した。

 俺は。

 おもむろに紋太へと手を伸ばして。

 寸前で引っ込めた。

 手が。

 震えていた。

「怖い?」

「え?」

 視線を上げると。

 紋太と目が合った。

 焦点が定まっていた。

 ろれつが回っていた。

 じっと見つめ合った。

 やがて。

 紋太は顔を近付けてきた。

 目と鼻の先。

 アルコールの匂いがした。

 酔いが移ったのか。

 紋太の顔をまともに見られなくて。

 手足が急に痺れてきて。

 心臓が口から飛び出してきそうだった。

「酒臭いの、嫌?」

「どちらかと言えば」

「嫌?」

「うん」

「そう」

 紋太は顔を遠ざけた。

「じゃあ、いいや」

「何が?」

「何でもねえ」

 紋太が何をしようとしていたのか。

 俺にはわかった。

 俺は。

 チャンスを棒に振った。

 それどころか。

 紋太の勇気を台無しにした。

 俺は。

 まだ。

 怖がっていた。

 失うことを。

 裏切られることを。

 その先のことを。

 違う。

 違う。

 違う。

 怖いのは。

 紋太にこんな顔をさせることだった。

 眉尻を下げた、諦めた顔。

 昔から。

 俺が誘いを断ると。

 決まって同じ顔をした。

 そんな顔。

 俺は。

 紋太の笑顔が好きだった。

 無茶苦茶を言う紋太が好きだった。

 今だって。

 求めていたのは、こうじゃない。

 俺は。

 咄嗟に紋太の腕を掴んで。

 呆気に取られた紋太へと。

 そっと顔を近付けた。

 息を呑む時間すら与えず。

 俺は。

 紋太の。

 酔いを醒ました。

 目を瞠った紋太の表情。

 戸惑う姿が愛おしくて。

 俺は自然と笑みを浮かべた。

 紋太はどこか不服そうだった。

「嫌、って言ったじゃん」

「いいじゃん」

 俺は紋太の腕をそっと解放した。

 手の中は汗でぐっしょりだった。

 身体は芯から火照っていて。

 本当に。

 酔いが移ってしまったみたいだった。

 けど。

 何も変わらなかった。

 恐れていたよりも。

 ずっと。

 ずっと。

 現実は変わらなくて。

 俺は。

 俺たちは。

 同じ場所に座っていた。

 紋太に告白された時と同じように。

 二人きりで。

 一緒に。

「柔らかいね」

「何が?」

「ここ」

 俺は自らの唇を指差した。

「何言ってんの」

 紋太は早口になった。

 対照的に。

 俺は息をゆっくりと吐き出した。

「紋太は、嫌?」

「はあ?」

 首筋を掻いて。

 少し困ったように。

「おれから誘ってんのに?」

 紋太は笑った。

 その表情が。

 とても好きだった。

「紋太」

 俺は眼鏡を外した。

 視界はぼけたけど。

 紋太がそこにいることはわかった。

「ありがとう」

「何のこと?」

「今までのこと」

 俺は静かに目を細めた。

 たぶん。

 まなじりが下がっていたと思う。

「今、幸せ」

 俺は。

 奇跡を起こしたところで。

 ペトロのように妻をめとることも。

 人を生き返らせることも。

 到底できないけど。

 けど。

 命の重みは。

 幸せの重みは。

 十分に知っている。

 俺は。

 ロミオのおかげで。

 生き返った。

「生きてて、良かった」

 ジュリエットの後を追って自殺したロミオ。

 ロミオの後を追って自殺したジュリエット。

 俺のせいで紋太が死んだら。

 俺はきっと。

 ジュリエットと同じことをするかもしれない。

 けど。

 悲劇は起こらない。

 そう、思う。

 俺たちの間には。

 今。

 何もない。

 牛島紋太と福井聖人。

 それだけだった。

「そっか」

 紋太の声は優しかった。

 吐息混じりの声だった。

「おれも、良かった」

 紋太が身体を密着させてきた。

 二人分の鼓動が身体を伝った。

 どちらも不規則で。

 徐々に加速していった。

「もう一回?」

「訊くなよ」

「ごめん」

「謝るなよ」

「ありがとう」

「感謝されても」

 ふっ、と。

 笑い声が漏れた。

 微かにアルコールの匂いが漂ってきた。

 けど。

 夜風に溶けて。

 残ったものは汗の匂いだった。

 紋太の匂い。

 俺の好きな匂い。

「聖人」

「何?」

「いや」

「ん?」

「何でもねえ」

「そう」

 紋太は口を閉ざした。

 俺は口を閉ざして。

 薄く唇を開いた。

 自然と口角が上がった。

 強い風が枯れ葉をかっさらった。

 からからと音が鳴った。

 けど。

 俺たちは無言のまま。

 暫く見つめ合った。

 やがて。

 紋太の体温が徐々に伝わってきて。

 俺は目を細めて。

 最後に。

 遙か遠方に見える夜空を記憶に留めた。

 晴天。

 そして。

 月の綺麗な夜だった。



 了

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